とても怖い話が書いてある本。
ネットが普及して動画が多量に投稿され、テレビが見られなくなっているとか、現地にいる方の情報がすぐにTwitterやFacebookでアップされマスメディアより速報性の高い情報を流すとか、若い人が新聞や雑誌を読まなくなっているとか・・マスメディアの将来に関する暗い話はたくさんあるのですが、受け手側である自分は、既存の利益にあぐらをかいて努力していない報いじゃない、当然の結果・・なんておもっていました。
でも・・新聞やテレビに替わって、個人でも情報を発信できるメディアができて、情報や娯楽がそこから手に入るから、それでいいじゃないってことではないことを忘れていたなあと・・
問題は情報の中身が大事だってこと。
手軽に情報を発信できるだけでなく、個人あるいは報道を仕事としていない人が発する情報の質が非常に高くはなっているけれど、その評価は「プロ並み」という言い方をするようにそれはプロの仕事ではありません。
お金をいただいている仕事とは情報発信に対する責任の度合いが違うし、未完成であってもだれも責めるものはいない。
そもそもプロの「報道」はお金を払っても見たいと思うもので、プロしか提供できないものであるはず。
大量の資金と時間を使って現地に行って、プロとしてのノウハウ、あるいは人脈などを使って普通の人ではできない取材を行って、私たちに提供してくれる。
そういう人たちがいてこそ、私たちの「知る権利」は守られてきた。
それが著者がタイトルにつけているように「脳死」の状態であるとすれば、私たちから大切な情報が隠され、あるいは情報操作が行われて、自分たちの生活が脅かされることも。
実際既にもうその状態なのかもしれませんね。
東日本大震災の際の陸前高田市の「一本松」の記事や美談記事ばかりの紙面、官公庁等が提供する資料そのままの記事など、日頃、何これと思っていることが、どのように作られているのか。
かつて新聞社にいた著者が書くことが真実に近いとすれば、それが今後変わる可能性はないのでしょう。。。
“脳死”というタイトルをつけつつも、今後の在り方について著者の意見を示していて、批判ばかりで終わっている本とは違います。
マスメディアで働いておられる方、特にまだ組織の論理に取り込まれていない方々がこの本を読まれてどう感じられるか気になります。
報道の受け手側は、「知る権利」を守るために、(私たちはマスメディアがどうなろうが知ったことではないのですが、)何をすべきかを考えないといけないとあらためて思いました。
例えば今のマスメディアの現状を知る、マスメディアの不都合なところを受け手が変える方法はないか、マスメディアに替わるくらいの情報収集方法を構築できないか。。。等など
昔から「マスメディアを監視する」という言い方はよく使われてきたのですが、権利は当然義務が伴うということを思い出して、真に必要な情報を手に入れるためにはのほほんとしていたらいけないんじゃないかななんてことも考えました。