(1)享保2年3月25日(西暦1717年5月6日)。
江戸を出立する日、各々の屋敷を出発した巡見使とその従者は、最初の宿場である千住に入り昼食休憩をとった。一方、市中から運び込んだ荷物は、ここで積替えが行われた。馬と人足の交代である。荷物の積み替えが終了し、食事も終われば、いよいよ出発である。有馬内膳、小笠原三右衛門、高城孫四郎の巡見使三名は駕籠に乗り、これに各々の従者がつき従った。一行の人数は120人余。これに荷物を運ぶ馬と人足が加わった。当時の慣習からすれば、親類縁者知人など、多くの者が千住まで見送りに来ていた筈である。巡見使の旅は安全が確保されていたとはいえ、半年に及ぶ長旅では何が起きるか分らない。一行の姿が見えなくなるまで、見送りは続いていたに違いない。
千住を出発した巡見使一行は、奥州街道をたどり草加を経て、越ケ谷まで行き宿泊する。江戸からはおよそ六里、24Kmの距離は江戸時代の旅程としては長い方ではない。
【参考】巡見使のような公用の旅の場合、将軍から御朱印伝馬証文が発行され、決められた数の馬や人足は無料で使用する事が出来た。長旅ともなれば荷物も相当な量となり、従者だけでは運びきれないので、途中の宿場で馬や人足を交代しながら、運んだのである。
【参考】巡見使の従者のうち用人は庶務全般を取り仕切った。旅行に必要な費用は勘定奉行から前払いされるが、これを管理して宿への謝礼や茶店への茶代、わらじ代のほか諸雑費の支払いに充てるのも用人の仕事である。このほか、巡見使の身辺の世話や雑事を行う給人、文書の作成などの庶務を行う中小姓、供侍として周囲を警戒する徒士や、若党、足軽、その他雑用を行う中間や小者が一行に加わっていた。
江戸を出立する日、各々の屋敷を出発した巡見使とその従者は、最初の宿場である千住に入り昼食休憩をとった。一方、市中から運び込んだ荷物は、ここで積替えが行われた。馬と人足の交代である。荷物の積み替えが終了し、食事も終われば、いよいよ出発である。有馬内膳、小笠原三右衛門、高城孫四郎の巡見使三名は駕籠に乗り、これに各々の従者がつき従った。一行の人数は120人余。これに荷物を運ぶ馬と人足が加わった。当時の慣習からすれば、親類縁者知人など、多くの者が千住まで見送りに来ていた筈である。巡見使の旅は安全が確保されていたとはいえ、半年に及ぶ長旅では何が起きるか分らない。一行の姿が見えなくなるまで、見送りは続いていたに違いない。
千住を出発した巡見使一行は、奥州街道をたどり草加を経て、越ケ谷まで行き宿泊する。江戸からはおよそ六里、24Kmの距離は江戸時代の旅程としては長い方ではない。
【参考】巡見使のような公用の旅の場合、将軍から御朱印伝馬証文が発行され、決められた数の馬や人足は無料で使用する事が出来た。長旅ともなれば荷物も相当な量となり、従者だけでは運びきれないので、途中の宿場で馬や人足を交代しながら、運んだのである。
【参考】巡見使の従者のうち用人は庶務全般を取り仕切った。旅行に必要な費用は勘定奉行から前払いされるが、これを管理して宿への謝礼や茶店への茶代、わらじ代のほか諸雑費の支払いに充てるのも用人の仕事である。このほか、巡見使の身辺の世話や雑事を行う給人、文書の作成などの庶務を行う中小姓、供侍として周囲を警戒する徒士や、若党、足軽、その他雑用を行う中間や小者が一行に加わっていた。