7.白川から若松ヘ<福島。3:seisidou3>
(7)享保2年4月2日(1717年5月12日)、晴。
白川を出立した巡見使一行は、阿武隈川橋を渡ったあと、奥州街道から分かれて会津越後道を若松へと向かっている。会津側では、この街道を白川街道と呼び、勢至堂峠を越えて白川と会津を結ぶ道として、よく利用した街道である。一行は、はね石坂、飯土用を経て上小屋で休憩。さらに牧内をへて長沼まで行き宿泊。長沼の札の辻から、新国上総介の居城跡が見えたという。この日の行程は六里24kmである。
(8)同年4月3日、晴。
長沼を出て江花から谷合の道となる。宝暦の巡見の時は、雪が深々と残っていたというが、享保の時はどうだったのだろうか。この道の途中、馬尾滝と銚子滝を見る。その先に犬神の塚があった。大蛇に襲われそうになった猟師を助けた犬の塚であるという。今昔物語巻29-32に、陸奥の話として同様な話が掲載されているが、実は各地に類似の話が流布していたようである。この日の休憩地は勢至堂。その名は勢至菩薩を祭る御堂に由来する。鬼面山を眺めつつ勢至堂峠を越えると番所のある三代。ここからまた、山王坂の上りとなり、布引山を見ながら峠を越える。前方に城跡を望みつつ坂を下れば福良。長沼から五里余。この日は福良で泊まる。
(9)同年4月4日、半晴。
福良から赤津を経て黒森峠を越え、原で休憩。秀吉が奥州仕置きで会津に入ったときは、原から背あぶり山を越えて若松に出たが、巡見使が通行するのは、その後開設された滝沢峠を通る道である。原を出て、西田面で鵜ノ浦甲斐守の城跡を望む。その先、森の清水を通り、赤井から金堀に出る。ここでは、近くに笠かむり山(石が森山)という金山があり、堀口が六か所ある事を聞いている。金堀から滝沢峠を越えると、正八幡宮のある滝沢町。ここから若松に入り、会津藩の出迎えを受けて、城下に宿泊する。福良から距離にして五里半ほどである。
(7)享保2年4月2日(1717年5月12日)、晴。
白川を出立した巡見使一行は、阿武隈川橋を渡ったあと、奥州街道から分かれて会津越後道を若松へと向かっている。会津側では、この街道を白川街道と呼び、勢至堂峠を越えて白川と会津を結ぶ道として、よく利用した街道である。一行は、はね石坂、飯土用を経て上小屋で休憩。さらに牧内をへて長沼まで行き宿泊。長沼の札の辻から、新国上総介の居城跡が見えたという。この日の行程は六里24kmである。
(8)同年4月3日、晴。
長沼を出て江花から谷合の道となる。宝暦の巡見の時は、雪が深々と残っていたというが、享保の時はどうだったのだろうか。この道の途中、馬尾滝と銚子滝を見る。その先に犬神の塚があった。大蛇に襲われそうになった猟師を助けた犬の塚であるという。今昔物語巻29-32に、陸奥の話として同様な話が掲載されているが、実は各地に類似の話が流布していたようである。この日の休憩地は勢至堂。その名は勢至菩薩を祭る御堂に由来する。鬼面山を眺めつつ勢至堂峠を越えると番所のある三代。ここからまた、山王坂の上りとなり、布引山を見ながら峠を越える。前方に城跡を望みつつ坂を下れば福良。長沼から五里余。この日は福良で泊まる。
(9)同年4月4日、半晴。
福良から赤津を経て黒森峠を越え、原で休憩。秀吉が奥州仕置きで会津に入ったときは、原から背あぶり山を越えて若松に出たが、巡見使が通行するのは、その後開設された滝沢峠を通る道である。原を出て、西田面で鵜ノ浦甲斐守の城跡を望む。その先、森の清水を通り、赤井から金堀に出る。ここでは、近くに笠かむり山(石が森山)という金山があり、堀口が六か所ある事を聞いている。金堀から滝沢峠を越えると、正八幡宮のある滝沢町。ここから若松に入り、会津藩の出迎えを受けて、城下に宿泊する。福良から距離にして五里半ほどである。