夢七雑録

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10.野尻から柳津へ

2008-05-23 22:20:55 | 巡見使の旅
10.野尻から柳津へ

(16)享保2年4月11日(1717年5月21日)、曇。
 野尻を出立。美女帰峠を越える。古川古松軒によれば、ここで始めて牛を引いて来たといい、古松軒自身も牛に乗り、馬より静かにて乗心もよし、と書いている。この辺では馬の代わりに牛を使うという事があったようで、巡見使一行のために特別配慮したわけではなさそうである。とすれば、享保の時も牛に荷物や人を乗せていたのかも知れない。この日も、途中休憩をとらずに進み、不動岩から落ちる不動滝を見て大谷に出ている。大谷迄三里二十四丁、ここに泊まる。

【参考】野尻に近い矢の原湿原の代官清水は、天保年間、野尻に泊まった巡見使が、翌日この地を通過した際に保全を命じた清水と伝えられている。この巡見使は幕府直轄地を巡視する御料巡見使で、各藩を巡視する諸国巡見使とは異なる経路を通ったが、同じ野尻に宿泊するなど、経路の一部が重複する場合もあった。ちなみに、享保の時の御料巡見使は、諸国巡見使に先行して幕府直轄地の巡見を行っており、南山御蔵入地にも入っている。

(17)同年4月12日、晴。
 巡見使の覚書に石ガミ坂と云う山道ありと記しているが、石神峠のことではなかろうか。一行は大谷を出て石神峠を越え砂子原に出たのであろう。砂子原には養老湯、荒湯など出湯があったと記されている。この後、一行は五畳鋪を経て、幕府直轄地・南山御蔵入地と会津領との境をなす西勝サイカチ峠(銀山峠)を越えている。

 ところで、吉尾峠から西勝峠までの間、滝谷・大谷組の郷頭(大庄屋に相当する)山内吉右衛門が巡見使の案内役を務めていたが、その道すがら巡見使に対して訴状を提出するという事があったらしい(福島県歴史資料館研究紀要1、誉田宏「諸国巡見使の研究」)。南山御蔵入地は幕府直轄地でありながら会津藩預り支配になっていたところ、幕府直接支配に変更されたため、会津藩預かりに戻すよう老中に訴えた。ところが5年経っても音沙汰が無いのは何故かという訴状である。諸国巡見使は、御料巡見使とは異なり、訴状を受け取る義務はなかったようだが、今回の巡見は公事出入に関する書付を請取るためのものではないと断りつつ、この訴状を受け取っている。

 銀山峠を越えたところに、天正年間に始まる銀山があった。慶長の頃が最盛期で、享保の頃は衰退していたと思われるが、それでも、堀口一か所、昼夜一寸五分づつ掘っていたという。軽井沢村内銀山村で休憩した後、柳津へ出て泊まる。六里二十丁の行程であった。

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