夢七雑録

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8.下野街道を山王峠へ

2008-05-17 22:13:26 | 巡見使の旅
(10)享保2年4月5日(1717年5月15日)。
 巡見使一行は若松城下を出立し、下野街道を国境の山王峠へと向う。下野街道は、若松から田島をへて山王峠を越え今市に至る街道で、会津西街道とも呼ばれ、奥州街道に代わる江戸への道筋として利用された街道である。一行は城下を巡視し、大河(大川)を渡って米塚から関山に出る。若松からは三里。宝暦と天明の巡見の時は、関山で休憩し大内まで足を延ばして宿泊しているが、享保の時は関山で宿泊している。       

(11)同年4月6日、晴。
 栃沢を経て十八曲りの坂を上がり、幕府の直轄地である南山御蔵入地と会津領との境となる氷玉峠を越える。峠の上からは飯豊山を望み、案内者から8月に少しの間だけ雪が消え、登る人があると聞く。その先、高清水のある清水峠を越えると大内。現在、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている大内宿であるが、享保の時はここを素通りし水野木(水抜?)で休憩している。その後、一行は田島に出る。田島は長沼氏が拠点としていた場所で、巡見使の覚書にも、長沼豊後守の城跡についての記述がある。この日は田島で宿泊。この日の行程は六里24Kmであった。ところで、天明の巡見使に随行した古川古松軒はこの辺について、食事大いに悪しく、と書いている。古松軒の口が奢っていたわけではないが、食べ慣れない食材と味付けであったのだろう。むろん、土地の人は精一杯の食事を出したに違いないのだが。ちなみに、食事は相応の代金を支払っていた。

【参考】古川古松軒は、備中(岡山県)の人で、生家は薬種業を営んでいたという。若い時から旅を好み、修験道に身をやつして山陽道と九州を旅している。のち、江戸に出た折、縁あって陸奥出羽松前の巡見使一行に加わった。その時の紀行文が「東遊雑記」である。後に古松軒は老中松平定信に謁見し、この紀行文を献上している。古川古松軒は晩年になって武士に取り立てられたが、巡見使に随行した時は、一介の町人に過ぎなかった。

(12)同年4月7日、晴。
 田島を出立。川島を経て糸沢で休憩。代官手代の案内で下野陸奥国境の山王峠に上がる。峠からは日光中禅寺方面が見えたという。ところで、国境の見分は巡見使の大事な役目でもあったようだが、巡見使が通行することによって、街道の整備が進むという意義もあった。もっとも、地元の負担が大きかったのも確かである。田島から山王峠まで五里ほど、この日はこの距離を田島まで戻って、宿泊している。
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