夢七雑録

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6.白坂から白川へ

2008-05-11 15:38:05 | 巡見使の旅
(6)享保2年4月1日(西暦1717年5月11日)、晴。
 巡見使一行は白坂を出立。奥州街道を通れば白川[白河]まで二里ほどだが、一行は奥州街道から分かれて旗宿に至る脇道に入り、旗宿から関山を経て白川に向う経路をとる。旗宿は古道の道筋にあたり、有名な白河の関もこの地にある。しかし、白河の関の機能は早くから失われ、江戸時代に入ると、その所在すら不明という状態になっていた。白河藩主松平定信が、その場所を調査して古関址の碑を建てたのは寛政十二年(1800年)のことであり、享保の巡見使はその所在も知らぬまま旗宿を通過している。

 この日、一行は旗宿から北に進み、関山頂上にある成就山満願寺に向かっている。現在は山火事で大半の堂宇を焼失し、往時の面影をとどめていないようだが、この寺は聖武天皇の勅願寺であり、阿弥陀堂、薬師堂、大師堂、仁王門などが建ち並び、また数々の宝物を保有する古刹であった。この日は関山で休憩。その後、北側に下ってから皮籠への道を辿ったと思われる。皮籠は奥州街道の道筋にあり、ここには金売吉次の墓所がある。吉次は牛若丸を奥州藤原氏に引き合わせたことで知られるが、この地で強盗に遭い殺されたと伝えられる。このあと、巡見使一行は白川城下まで行き、そこで宿泊している。五里六丁の道であった。

 巡見使の覚書には、白川の東に鹿島大明神[鹿島神社]ありとし、その東南に、うたたねの森、さらに東南に新地山ありと記されており、あわせて古歌も記載されている。
「陸奥のうたたねの森の橋絶ていなおふせ鳥もかよはさりけり」
「みちのくの阿武隈川のすそにこそ人なつかしの山はありけり」
また、宗祇戻しの小坂についてふれ、鹿島連歌興業に参加しようとした連歌師宗祇が、途中で会った女から、「月日の下にひとりこそすめ」という句に「やるふみの奥に我名を書とめて」と附けたと聞き、その場から戻ったという説を紹介している。ただし、巡見使一行が鹿島大明神に立ち寄ったかどうかは不明である。阿武隈川橋を渡るときに、その地を遠望し、案内者から話を聞いて書き留めただけかも知れない。

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