夢七雑録

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1.1 下総国府台・真間の道芝(1)

2008-11-05 22:38:25 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化四年三月七日(1807年4月14日)。嘉陵(村尾正靖)の紀行文は、この日に始まる。時に嘉陵48歳(数え年)。重沢清門を伴って、朝もまだ明けきらぬうちに浜町の家を出ている。先日からの雨も止み、風もなく温かい日であった。浜町から両国橋を渡れば竪川はすぐ。竪川沿いに東に行けば「逆井の渡し」(江東区亀戸9)まで迷う事はない。嘉陵はここで舟に乗り中川を渡るが、その風光について「川下は空も一つの霞のみして、水鳥のここら立よふさま、沖つ舟の釣りするなど、またなき景色なり」と書いている。

 現在の竪川は、大横川と交差する辺りから先は暗渠化されている。横十間川と交差する辺りから先になると、暗渠の上に造られた竪川河川敷公園となり、頭上の高速道路さえ気にしなければ、歩きやすい道が続いている。逆井の渡しは、竪川が中川に合流する地点、現在の逆井橋(写真)の辺にあったが、当然のことながら、廣重が名所江戸百景の一つとして描いた「逆さ井のわたし」の風景は失われている。それでも、一時は汚れた都市河川の一例に過ぎなかった中川も、周辺の開発に合わせて整備が進められた結果、今は、緑の多い河川敷に遊歩道が設けられ、水質も改善されて魚や水鳥も戻ってきている。

 逆井橋から少し東に行ったところに、江戸時代には存在しなかった荒川が、ゆったりと流れている。江戸時代の道は、逆井の渡しから700mほど行ったところで、市川へ向かう佐倉への道と行徳への道の分岐点に出る事になるが、この分岐点も今は荒川にのみこまれている。嘉陵は、この分岐点で何故か行徳へ向かう道を選び、一之江、二之江を過ぎて利根川(旧江戸川)の川端に出ている。向こうは行徳であると記しているが、金井の渡し(金井橋付近)に出たのだろうか。嘉陵が行徳道を選んだ理由は不明だが、結局は市川の渡しへと向かっている。途中、一里塚らしきものを見ているが、今は交差点にその名を残す佐倉道の一里塚(江戸川区東小岩6)と思われる。

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