文化九年一月十七日(1812年2月29日)、府中の六社(大国魂神社)に詣でるため、嘉陵(村尾正靖)は友人と連れ立って夜明け前に出発している。四谷から内藤新宿(新宿)を過ぎ青梅街道と分かれて南に折れ、甲州道中(甲州街道。ただし、上高井戸~仙川、及び金子(国領)~府中は旧甲州街道)を進み、新町通り、牛窪、地蔵窪を経て代田に着く。築山のある茶店や饅頭を売る店、酒飯を商う店が並んでいたという。このあと、荻窪(萩久保)を経て下高井戸に出るが、その途中、六十頭ほどの馬を引いた馬子と次々にすれ違っている。その総数、およそ五百頭。甲州道中を利用する公用の旅は多くなかったが、物資の流通経路として、この街道は賑わっていたという。広重の江戸名所図会「内藤新宿」は、馬の尻が画面の半分を占めているが、当時は内藤新宿といえば馬という印象が強かったのだろう。ところで、下高井戸では、高い柱の上の三方に丸餅をのせている様子が見られた。小正月の道祖神の祭事ということだが、土地によって、それぞれの風習があったらしい。
下高井戸から、甲州道中(甲州街道)を先に進み、上北沢、上高井戸、烏山、給田、下仙川、金子(国領)、下布多、下石原、上石原を過ぎるが、特段の眺めはなく、下染屋、上染屋(府中市白糸台)に至ってようやく展望が開けてくる。そこで嘉陵は民家の軒先に腰掛け、ここの風景を写生している(図)。ただ、北西の風が吹いて、寒さに手も凍えたと書いている。
下高井戸から、甲州道中(甲州街道)を先に進み、上北沢、上高井戸、烏山、給田、下仙川、金子(国領)、下布多、下石原、上石原を過ぎるが、特段の眺めはなく、下染屋、上染屋(府中市白糸台)に至ってようやく展望が開けてくる。そこで嘉陵は民家の軒先に腰掛け、ここの風景を写生している(図)。ただ、北西の風が吹いて、寒さに手も凍えたと書いている。