弘法寺(市川市真間4)は裏門から入り、遍覧亭の板縁に腰かけて辺りを見渡すが、さほどの眺めは得られない。坊の門を出ると、本堂や祖師堂があるが、その堂の柱に嘉陵は自分の名前を見つけている。嘉陵は寛政4年(1792年)に、ここを訪れているが、その時に書きつけたものである。現在なら許されない行為だが、江戸時代は、社寺の柱や板障子に名前や詩歌を書きつけることは、場所にもよるが、許容範囲だったのだろう。その時、嘉陵と共にこの地を訪れたのは三人。そのうちの一人は西城(将軍の世継が住む)の小姓として今も勤めているが、一人は亡くなり、一人は禄を辞して武者修行の旅に出ている。生死浮沈は常なるとは知りながら深い憂いを感じると、嘉陵は書き記している。
楼門を出て石段を下り継橋を渡る。近くに寺の子院(亀井院。市川市真間4)があり、その先に真間の手古名の祠(手児奈霊堂。市川市真間4)があった。寛政4年に真間を訪れた時には、真間の入り江が入り込んだ水際に祠があり、周りは芦が茂るだけで何もなく、祠も荒れ果てていたのに、暫くぶりに訪れてみれば、人の手が加わり過ぎて当時の面影はまるでなかった。昔は、真間の井も竹や草の茂る山際にあり、滴り落ちる水を溜めるための窪みがあるだけだったのに、今回、来てみると普通の堀井戸に変えられてしまっていた。真間も弘法寺も参詣する人が増え、それに応じて堂宇などが整えられていったのだろう。その様子は江戸名所図会の「真間 弘法寺」や、広重の名所江戸百景「真間の紅葉手古那の社継はし」から知ることができる。現在は、真間の入り江も失われ、宅地化が進んで、真間の継橋も形ばかりのものになっている。弘法寺も明治になってから全焼したため当時の建物は存在せず、現在の建物は、その後に建てたものか、移築したものである。
帰りのルートは記されていないが、市川の渡し、逆井の渡しを経て浜町に戻ったとして、この日の歩行距離は40km近くになるだろう。現代人の目からすると、これは相当な距離に思えるが、長い距離を歩くことに慣れていた江戸時代の人にとっては、通常、歩行可能な距離であったようだ。実際、参勤交代でも一日40km歩くのは普通のことであった。
楼門を出て石段を下り継橋を渡る。近くに寺の子院(亀井院。市川市真間4)があり、その先に真間の手古名の祠(手児奈霊堂。市川市真間4)があった。寛政4年に真間を訪れた時には、真間の入り江が入り込んだ水際に祠があり、周りは芦が茂るだけで何もなく、祠も荒れ果てていたのに、暫くぶりに訪れてみれば、人の手が加わり過ぎて当時の面影はまるでなかった。昔は、真間の井も竹や草の茂る山際にあり、滴り落ちる水を溜めるための窪みがあるだけだったのに、今回、来てみると普通の堀井戸に変えられてしまっていた。真間も弘法寺も参詣する人が増え、それに応じて堂宇などが整えられていったのだろう。その様子は江戸名所図会の「真間 弘法寺」や、広重の名所江戸百景「真間の紅葉手古那の社継はし」から知ることができる。現在は、真間の入り江も失われ、宅地化が進んで、真間の継橋も形ばかりのものになっている。弘法寺も明治になってから全焼したため当時の建物は存在せず、現在の建物は、その後に建てたものか、移築したものである。
帰りのルートは記されていないが、市川の渡し、逆井の渡しを経て浜町に戻ったとして、この日の歩行距離は40km近くになるだろう。現代人の目からすると、これは相当な距離に思えるが、長い距離を歩くことに慣れていた江戸時代の人にとっては、通常、歩行可能な距離であったようだ。実際、参勤交代でも一日40km歩くのは普通のことであった。