染屋を出たあと、八幡宮を過ぎて府中宿に到着。早速六所明神(大国魂神社。写真)を参詣する。六所明神の名は、六神を祭ったことから出ているが、嘉陵は、六社の縁起について記述するとともに、榎槻の並木の外側が馬場であること、家康が建立した石鳥居が地震で倒壊したままになっていること、境内に鉄仏があったことを記している。この鉄仏については、右の脇腹が破れて文字を鋳つけてあったこと、恋ヶ窪の重忠松の下にあったこと、造大工藤原助近慶長五年とあったことを記している。現在、この鉄仏は善明寺(府中市本町1)にあり、鉄造阿弥陀如来座像として重要文化財に指定されている(文化の日に特別公開された)。嘉陵は、このほか、随身門を建てた川崎平右衛門について、代官に取り立てられた経緯や、象の見世物で得た金銭と浄財で随身門を修復したことについて記している。また、府中の源助についてもふれている。
一行は、同行した蔭山弥八の所縁の者という、万右衛門の亭で昼食をとったあと、店主の翁の案内で御茶屋街道を通り、宿から八丁ほどの玉川(多摩川)に出る。茶屋街道の由来は聞けなかったようだが、嘉陵は家康や吉宗がこの地を訪れたときに川原に茶屋を作らせたからではないかと推測している。玉川(多摩川)では、一の山、二の山、大丸山からなる向山と、水際まで迫っている屏風岩を眺め、川原で石を拾ったりして過ごす。また、川上には関戸の渡しがあり、川下に仮橋ありと記している。そのうち日も暮れてきたので、万右衛門の亭に戻り、夕食をとってから帰途につく。上高井戸を通り過ぎたのが午後6時頃、家に戻ったのは午後8時を過ぎていた。往復の距離は60数km。時に嘉陵53歳。いまだ健脚衰えずといったところか。
一行は、同行した蔭山弥八の所縁の者という、万右衛門の亭で昼食をとったあと、店主の翁の案内で御茶屋街道を通り、宿から八丁ほどの玉川(多摩川)に出る。茶屋街道の由来は聞けなかったようだが、嘉陵は家康や吉宗がこの地を訪れたときに川原に茶屋を作らせたからではないかと推測している。玉川(多摩川)では、一の山、二の山、大丸山からなる向山と、水際まで迫っている屏風岩を眺め、川原で石を拾ったりして過ごす。また、川上には関戸の渡しがあり、川下に仮橋ありと記している。そのうち日も暮れてきたので、万右衛門の亭に戻り、夕食をとってから帰途につく。上高井戸を通り過ぎたのが午後6時頃、家に戻ったのは午後8時を過ぎていた。往復の距離は60数km。時に嘉陵53歳。いまだ健脚衰えずといったところか。