神田川を面影橋で渡ってすぐ右手、オリジン電気の門前に山吹の里の碑がある。石碑は墓石を再利用したものらしい。山吹の里が何処かについては諸説あるが、太田道灌が蓑を所望したところ山吹を渡されたという話自体が伝説の域を出ないので、まともに議論するような事ではなさそうだ。なお、面影橋のすぐ先は砂利場と呼ばれた砂利採取場だったようだが、今は跡かたも無い。
その先、左手に高田村の鎮守である氷川神社がある。また、道の右側にある南蔵院は、怪談乳房榎の舞台となった寺であり、南蔵院で龍の絵を描いていた絵師の菱川重信が、妻の情夫であった浪人に蛍狩りに誘いだされて殺されるという筋立てになっている。江戸時代、氷川神社の北側から南蔵院の前へ流れる用水があり、この用水に架かっていた橋を姿見の橋と呼んでいた。昔、この辺りは池のようになっていて、架かっていた橋の上から、池に姿を映したという事があり、これが姿見橋の名の由来だというのである。ただし、これには異説もあって、姿見の橋は面影橋の別称だともいう。面影橋には、於戸姫の悲話伝説などもあるが、遥か昔の橋の名の由来など、詮索しても仕方のない事かも知れない。江戸時代、南蔵院の北側にも橋があり、道が右に折れ曲がる場所にあったので右橋と呼ばれていた。今は、姿見の橋や右橋、それに用水も失われてしまったが、道は昔のように折れ曲がったままである。
道を先に進むと宿坂の下に出る。面影橋を渡って宿坂を上がる道は、旧鎌倉街道の中道で奥州への街道筋にあたり、関所も設けられていたという。右に入る道は、幕府の祈願所で、明治になって移転してきた根性院への参道である。根性院には田安家の下屋敷から受け継いだ池が戦前まであったらしいが、今は宅地になっている。宿坂の左手は金乗院で、境内には戦後に目白坂から移された目白不動の堂がある。寺内には丸橋忠弥の墓所があるが、後の世に建てられた墓のようだ。金乗院から西に行く道は江戸時代からあり、台地の裾を通って落合の薬王院に通じていた。この道を行き、大正時代に作られた急坂、のぞき坂を横に見て先に進めば、学習院下の停留所に出る。
江戸時代から明治にかけて、金乗院から薬王院に通じる道の南側は田圃が広がっていた。大正時代になると田地にも人家が建ち始め、昭和に入ると市街地が田地を浸食するようになる。昭和3年、神田川に鉄橋が架けられ、鬼子母神前から面影橋まで王子電気軌道が延長される。学習院下の停留所も、この時に設けられている。やがて、王子電気軌道の鉄橋の隣に高戸橋が架けられ、昭和7年に明治通りが開かれる。当時、高戸橋近くの低地には大小の工場が進出しており、人口も過密であったという。昭和17年、王子電気軌道は市電に統合され翌年には都電と改称する。戦後、高戸橋の手前から左に分かれる軌道が作られ、高田馬場駅前に出る都電15系統の電車が通るようになるが、この系統も昭和43年には廃止され、軌道も撤去されている。