夢七雑録

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都電雑司ヶ谷から東池袋四丁目へ

2010-11-23 10:33:26 | 都電荒川線に沿って

 都電雑司ヶ谷の停留所の近くに蔵がポツンと残されている。今は奇妙な風景になってしまったが、昔は普通の家並みの中に蔵も溶け込んでいたのだろう。現在は、都内で蔵を見かける事も少なくなったが、都電荒川線の沿線には、まだまだ蔵のある家が残っているそうで、確か、鬼子母神の近辺にも蔵のある家が残っていたと思う。蔵はそのくらいにして、東通りという道を明治通りに向かって歩く。この道は、江戸時代に御鷹部屋から板橋道に出る道に相当している。この道を行くと、法明寺と墓地の間を抜ける小道が左手にある。ここを右に折れ、サンシャイン60に向かって歩き、江戸時代からあった本立寺の先を左に折れる。その先の南池袋公園(現在は工事中)の手前を右に行き、グリーン大通りを渡る。渡った先の角をサンシャイン方面に入った所は明治天皇御野立所跡(現在は工事中)である。グリーン大通りを左に行けば池袋駅の東口だが、今回は右に行き都電の停留所に向かう。

 この辺りは江戸時代に御鷹方組屋敷があったところで、六郷社の森という小高い丘であったという。六郷社の森は後に根津嘉一郎氏の所有となり、根津山と呼ばれるようになるが、その範囲は現在の南池袋公園から御野立所を含むグリーン大通り周辺一帯であった。昭和7年頃、この土地の開発が始まり根津山を分断する道路が作られ、昭和14年には護国寺から池袋駅前まで市電が延長される。これが後の都電17系統で、その経路は池袋駅前―護国寺―大塚仲町―春日町―神保町―八重洲口―数寄屋橋であった。根津山は、昭和20年4月にアメリカが行った城北地区大空襲の際の避難場所で、犠牲者の仮埋葬地でもあったが、今は、その形を留めていない。

 都道音羽池袋線を東に行き、都電の車庫跡であるバスの操車場を過ぎると、都電の停留所・東池袋四丁目に出る。三ノ輪橋方面のホームは道路の向こう側である。大正14年に鬼子母神まで電車が延長された際、今の停留所より北にずれた場所に停留所が設けられている。当時の停留所名は地名に由来する水久保であったが、その後、日之出町二丁目に変更され、さらに、昭和40年代に現在の停留所名になっている。都電はここから次の停留所に向かって、家と家の間をすり抜けるように走っていく。

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