夢七雑録

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都電荒川線の早稲田へ

2010-11-03 18:00:18 | 都電荒川線に沿って

 地下鉄有楽町線を江戸川橋で下車し、神田川を江戸川橋で渡って、江戸川公園に入る。江戸川というのは、この辺りの神田川の昔の呼称である。公園に入ってすぐ、北側に目白坂という坂がある。この坂を上がって目白通りを通る道筋は、練馬方面からの農産物の運搬路だった道で、明治時代には清戸道と呼ばれていた。目白坂は清戸道の中では難所で、昔は、荷物の運搬を手伝って日銭を稼ぐ者も居たそうである。また、坂の上には五色不動の一つであった目白不動堂があったが、現在は宿坂の金乗院に移されている。目白坂を上がるのは次の機会ということにして、神田川沿いの道を歩き、関口大洗堰の跡に出る。江戸時代、ここで分けられた上水は水戸藩邸(現・後楽園)を経て江戸市中に飲用水として供給され、残った水は滝のように江戸川(現・神田川)に落とされていたという。その様子を想像で補いつつ、神田川沿いの遊歩道を歩いていくと、椿山荘の裏手に出る。古くは椿の名所で椿山と呼ばれていた場所だそうだが、冠木門から眺めただけでは、椿山の痕跡が残っているかどうか分からない。

 椿山荘の先に芭蕉庵がある。松尾芭蕉がこの辺りに居住し、神田川の改修工事に従事したという伝承から、後世、芭蕉堂が建てられた場所という。今は、戦後に再建された庵のほか、石碑や、湧水を入れた瓢箪池があるが、今回は中に入らない。芭蕉庵の先に駒塚橋があり、その北側に胸突坂がある。坂の途中には水神社があり、その上には細川家の名品を所蔵する永青文庫があるが、坂を上がるのは次回ということにして先に行く。駒塚橋から上流の神田川は、かつて、大きく蛇行して流れていたらしいが、昭和の河川改修によって、今は緩やかな曲線の流路に閉じ込められている。 

 川に沿って進むと、道は神田川から離れるようになる。この道を西に行くと、面影橋近くの南蔵院に出るが、江戸時代の村絵図によると、この道の南側は田地で、北側には大名の下屋敷が続いていたようである。塀にそって少し行くと新江戸川公園に出るが、この公園も細川家の下屋敷の跡で、今は無料の回遊式庭園になっている。公園の前を北に上がると昨年開園した目白台運動公園に出るが、今回はパスして西に行き、次の四つ角で左に折れて豊橋にでる。江戸時代、芭蕉庵近くの駒塚橋から面影橋までの間に橋は無く、明治になってはじめて架けられたのが、この橋ということらしい。橋から下を覗くと、河川改修により露出した地層が見えている。コンクリートの護岸はやむを得ないとして、川底をコンクリート化しなかったのは、幸いというべきなのだろう。豊橋を渡り、新目白通りに出ると、早稲田の停留所がすぐそこにある。

 江戸時代の早稲田近辺は、下屋敷の他は田圃が広がる場所であった。明治に入っても田園地帯であることに変わりはなかったが、明治も終わりの頃になると市電が飯田橋から江戸川橋まで延長され、早稲田大学の周辺に人家が次第に増えるようになる。大正10年頃になると、神田川流域にも市街が形成されるようになり、市電が早稲田まで延長され車庫も作られる。昭和5年、王子電気軌道の電車が面影橋から早稲田まで延長され、市電とは別に早稲田の停留所が設けられる。王子電気軌道は昭和17年に市電(後の都電)に統合されるが、停留所は別のままだった。線路が接続されたのは戦後になってからで、これにより、都電の15系統は高田馬場まで延長されることになった。都電15系統の経路は、高田馬場・早稲田・江戸川橋・飯田橋・神保町・大手町・日本橋・茅場町であった。しかし、都電の財政再建のため、昭和43年に15系統が廃止され、早稲田と三ノ輪間の都電のみ存続することとなる。昭和58年には、道路の拡幅工事が行われ(現・新目白通り)、都電の専用軌道が道路中央に設けられ、停留所も新しく作られている。

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