夢七雑録

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18.2 南郊看花記(2)

2009-03-15 22:31:20 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 大日向民右衛門は信州松代の出である。相貌は温和で、顔立ちはふくよかである。その祖父は百十六歳まで生き、父は八十一歳で亡くなったという。母は八十七歳で、今なお杖もつかず、腰もかがまず、目も歯も達者。八人の子供を育て、孫は三十八人居る。みな、豊かではなくとも貧しくもないという。民右衛門自身は五十歳の時に妻を亡くし、その後は、諸国を遊歴し二十九ケ国を巡った。今年は小田原、安房、上総、銚子から仙台まで遊びに行く積りだと言う。民右衛門は、また、本郷、日暮里、上野、浅草の花を見て歩いたが、昼盗人と間違えられぬよう、干し大根を売りながら歩いた。すると、夕方には銭を七、八百ばかり得た。その銭で食事をし、施しをした。途中、病気で食事にありつけない者が居たので金を貸したが、返しては呉れぬだろう、とも言う。嘉陵は自分の母親を、民右衛門の母親に会わせてみたいと思い、自分の住所を書きつけて民右衛門に渡している。嘉陵は、自分の理想とする姿を民右衛門に見ていたのかも知れない。

 このあと、嘉陵は民右衛門とともに御殿山(跡地は品川区北品川3、4)に向っている。現在の道では、聖坂から続く道を南に行き、ざくろ坂の高輪東武ホテルの横を入る道をたどるのが、その経路である。途中、右手に松平出羽守の屋敷が見えてくる。茶人大名で知られ、先年亡くなった松平不昧翁はこの屋敷に隠居していたが、嘉陵はこれに関連して、「古人は道を求め、今の人は器を求める」という文を引用し、自分なりの考えを述べている。御殿山は江戸の桜の名所の一つで、江戸南郊の花見では欠かせない場所であった。嘉陵は30年も前に伯母に連れられて御殿山に来たことがあり、その時に比べて、今は古木が少なくなり、若木が多くなったと書いている。また、御殿山で花を見る人は多いが、騒いでいる者はいないとも記している。江戸名所図会の「御殿山看花」を見ると、そうでもないようで、その時々で花見の様子も違っていたのだろう。現在、御殿山はすでに無く、御殿山通り等の名を残すのみである。現在の御殿山庭園は、御殿山の北西にあたり、ここからJRの線路を含む南側と線路の東側が御殿山に相当するが、当時を思い描くのは難しい。

 御殿山の花を見終わってから、二人は東海寺(品川区北品川3)に行く。現在の東海寺の寺域は小さくなっているが、江戸時代は五万坪の広大な敷地を有する大寺であった。二人は東海寺境内のあちこちを見て歩いたあと、南門から外に出て、畑の細道を歩く。左手には海晏寺(品川区南品川5)の後ろが見えていたが、菜の花が満開で一面に金を敷いたようであったと、嘉陵は書いている。さらに行くと、松平陸奥守の品川屋敷(仙台藩下屋敷。港区東大井4)があった。その垣に沿って西に行き南に折れていくと、来福寺のうしろに出ることが出来た。現在、池上通りに仙台坂という坂があるが、本来は仙台坂トンネルのある坂を仙台坂と呼び、その名は仙台藩下屋敷に由来する。この旧仙台坂の上、左手にある仙台味噌醸造所は、仙台藩下屋敷内にあった味噌屋敷がもとになっている。ここを南に行く見晴し通りをたどり、下り坂になる手前で左に下っていくと、来福寺の横に出る。


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