文政二年三月二十五日(1819年4月19日)、嘉陵は午前8時頃に家を出て、花見に出かけている。風も無く、のどかな日和であった。品種の違いと気象条件の違いで、花見の適期は今と違っていたかも知れない。愛宕山を過ぎ、切通しの坂を上がって、北西にある門(涅槃門)から増上寺に入る。入った辺りには、多くの柳や桜が植えられ、その先の白金稲荷の山麓にも桜が植えられていた。ここから坂を下っていくと池があり、弁天社のある島にも素晴らしい桜があった。もともと、増上寺内の御霊屋の裏手は、みだりに行ける場所ではなかったのだが、文化三年(1806)の大火で火の手が御霊屋まで及びそうになったため、付近の諸堂や屋敷の場所を変えて道も作り直したことから、御霊屋の裏手も自由に通行できるようになったのである。嘉陵は、道の周辺に桜をもっと植えれば、多くの人が訪れるようになるだろうと書いている。
現在の道でいうと、愛宕神社前を過ぎ、御成門小のある交差点を右折し、左斜め前方の坂を上がって正則高の前を通る。涅槃門は、その先の芝高の辺りになる。なお、坂をそのまま上って左に行くと幸稲荷(港区芝公園3)があり、位置的には白金稲荷に該当しそうだが、どうであろうか。幸稲荷の縁起によると、もと岸之稲荷と称して村の鎮守であったが、江戸時代に現在地に移り、後に幸稲荷と改称したという。白金稲荷は、嘉陵の記述や江戸名所図会から増上寺境内にあったと考えられるが、一方の幸稲荷は、天保五年の江戸稲荷百番附で、芝切通・幸稲荷とあって、増上寺内とはなっていないこと、また、古くからの鎮守で氏子も居る点からして、増上寺の外にあったと考えられる。天保十四年の御江戸大絵図で、増上寺の外側に光宝院と並んでイナリと書かれているのが幸稲荷で、これとは別に増上寺の西北の門(涅槃門)を入った先にイナリと書かれているのが、今は存在しない白金稲荷に該当するのではなかろうか。何れにせよ、増上寺の裏手は、現在では大きく様変わりしていて、当時の様子を想像するのも難しいが、池(弁天池。港区芝公園4。写真)だけは小さくなったものの、今も何とか生き延びている。
増上寺の赤羽門を出て、聖坂の上の功運寺(移転)に立ち寄り、長沼国郷の碑を見る。この碑は、嘉陵の亡父による書で、文は松崎観海であったが、今回、あらためて見てみると脱字がある事に気付いた。嘉陵は、急いで造らせたため石工が間違えて刻んだのだろうと記しているが、それも、45、6年も前の昔の事ゆえ、感無量であると書いている。ここから白金を下り(伊皿子坂を下り)、長応寺(移転)の前から泉岳寺(港区高輪2)の惣門の中を横切り、如来寺(泉岳寺に隣接していたが、移転)の裏門から入る。数百本ある桜が全て咲きそろい、その眺めは素晴らしいものだった。北東の隅の岡に弁財天の祠があり、その傍の坊舎の縁に腰を下ろして桜を見下ろすと、霞立つ沖の山々の眺めと相まって、その光景はさらに見事であった。傍らに一人、この風景の美しさを感嘆している人が居た。その人の名は、大日向民右衛門であった。
現在の道でいうと、愛宕神社前を過ぎ、御成門小のある交差点を右折し、左斜め前方の坂を上がって正則高の前を通る。涅槃門は、その先の芝高の辺りになる。なお、坂をそのまま上って左に行くと幸稲荷(港区芝公園3)があり、位置的には白金稲荷に該当しそうだが、どうであろうか。幸稲荷の縁起によると、もと岸之稲荷と称して村の鎮守であったが、江戸時代に現在地に移り、後に幸稲荷と改称したという。白金稲荷は、嘉陵の記述や江戸名所図会から増上寺境内にあったと考えられるが、一方の幸稲荷は、天保五年の江戸稲荷百番附で、芝切通・幸稲荷とあって、増上寺内とはなっていないこと、また、古くからの鎮守で氏子も居る点からして、増上寺の外にあったと考えられる。天保十四年の御江戸大絵図で、増上寺の外側に光宝院と並んでイナリと書かれているのが幸稲荷で、これとは別に増上寺の西北の門(涅槃門)を入った先にイナリと書かれているのが、今は存在しない白金稲荷に該当するのではなかろうか。何れにせよ、増上寺の裏手は、現在では大きく様変わりしていて、当時の様子を想像するのも難しいが、池(弁天池。港区芝公園4。写真)だけは小さくなったものの、今も何とか生き延びている。
増上寺の赤羽門を出て、聖坂の上の功運寺(移転)に立ち寄り、長沼国郷の碑を見る。この碑は、嘉陵の亡父による書で、文は松崎観海であったが、今回、あらためて見てみると脱字がある事に気付いた。嘉陵は、急いで造らせたため石工が間違えて刻んだのだろうと記しているが、それも、45、6年も前の昔の事ゆえ、感無量であると書いている。ここから白金を下り(伊皿子坂を下り)、長応寺(移転)の前から泉岳寺(港区高輪2)の惣門の中を横切り、如来寺(泉岳寺に隣接していたが、移転)の裏門から入る。数百本ある桜が全て咲きそろい、その眺めは素晴らしいものだった。北東の隅の岡に弁財天の祠があり、その傍の坊舎の縁に腰を下ろして桜を見下ろすと、霞立つ沖の山々の眺めと相まって、その光景はさらに見事であった。傍らに一人、この風景の美しさを感嘆している人が居た。その人の名は、大日向民右衛門であった。