夢七雑録

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27.2 六地蔵もうでの記(2)

2009-04-26 21:45:02 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 霊巌寺の参拝を終えた嘉陵は、回向院の前を北に、隅田川にそって進み、大川橋(吾妻橋)を渡って、三谷(山谷)の町を通り、東禅寺(台東区東浅草2)に出て地蔵尊(写真)を参拝している。

 このあと、小塚原を過ぎ、三ノ輪の飛鳥の社(素盞雄神社。境内に飛鳥の杜あり。荒川区南千住6)に詣でている。社の東側、木立の中に神の影向石(瑞光石)という石があり、根がどれ程あるか分からないと記す。嘉陵はここでしばらく休憩するが、社前にあった鵬斎の書による芭蕉の句碑が気に入らなかったらしい。いやしくも朱子の道を唱える儒学者ともあろう者が、いかに熱心な俳諧の徒が居るからといって、彼らの為に筆をとるとは笑止千万である、と書いている。

 ここの鳥居を出ると三川島(三河島)に出る。西に向かう一筋の馬道の左右は田で、道沿いの用水を堰きとめて田に注いでいた。思っていたよりは、稲穂が出ていて通常の四分の一ほどの収穫はありそうだったが、高い所の田は穂も出てはいなかった。飛鳥山の末にある田は、ここよりは良い方で通常の半分ほどの収量だろうと記している。この馬道を、日暮里の山までの距離の三分の一ほど行ったところに、岐路があって石の不動があった。さらに行き、日暮里の山下の西福寺(宗福寺。現在無し)を通り、坂を上ると佐竹屋敷(久保田(秋田)藩下屋敷。跡地は荒川区西日暮里4)がある。ここを北に行き田畑(田端)に出るが、にわか雨が降ってきたので、民家に入って休んでいる。

 ここから少し西に十字街があり、石の仁王像を立てた寺(東覚寺。道路工事のため仁王像移設。北区田端2)がある。ここから北に行くと西行庵(現在無し)の先に、鉄砲山焔硝寺という寺があり、家康がこの寺の松に腰掛け、鉄砲で鹿を撃たせたことがあった。家康はこの寺に八石の寺領を与えたが、このことから、腰掛けた松を八石松と呼ぶようになったと、嘉陵は書いている。江戸名所図会に取り上げられている園勝寺(円勝寺。北区中里3)には、家康が腰掛けた松を褒めて五石の寺領を与えたという伝承があるので、焔硝寺とは園勝寺のことかも知れない。この日は道順が悪いため、焔硝寺に行くのは止めて、蛍沢を少し上がり、要源寺(白華山養源寺。文京区千駄木5)に行く。家康がここに御成りなった時、白花の桜を見て山号を白花山にせよと命じた寺なのだが、寺僧の身持ちが悪く、逃げ出したあとに金二千ほどの借金が残った。これを償うために木を伐採し家屋も壊して売り払った跡が、そのままになっていた。要源寺から王子道に出て少し行き、目赤不動尊(南谷寺。文京区本駒込1)を拝んで通り過ぎる。吉祥寺(文京区本駒込3)、富士の祠(富士神社。文京区本駒込5)を見ながら進み、板橋の街道(中山道)に出て北に向かい、真性寺(豊島区巣鴨3)に着く。ここで、地蔵尊をお礼参りしてから、次に向っている。なお、現在は真性寺の地蔵尊が修復中で、身代わりの地蔵尊が置かれている。


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