夢七雑録

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2.江戸出立までの経緯

2008-05-01 21:57:26 | 巡見使の旅

 「徳川実紀」によると、享保元年(1716年)第八代将軍に就いた吉宗は、5回目(注)となる巡見使の派遣を決め、同年7月18日に巡見使を任命した。また、同年7月21日には派遣地域の割り当てを行っている。陸奥出羽松前(東北地方各地と北海道松前地域)へは、曽我平次郎、小笠原三右衛門、高城孫四郎の三名を派遣することになった。
(注)第七代将軍家継の時は、諸国巡見使は派遣されなかった。

 そののち、巡見に当っての条目(心得)が発出され、日当の取り決めがなされた。これを受けて、同年9月1日には、関東及び関西地域へ派遣される巡見使が将軍に拝謁して暇乞いを行っている。しかし、陸奥出羽松前については、出発が翌年まわしとなった。これは、陸奥出羽松前においては積雪期の通行が困難なためと思われる。

 巡見使の派遣が決まると、江戸の藩邸では情報を収集して国許に送り、巡見使を受け入れる準備を進めさせた。なお、松前のように渡海が必要な国々については、その留守居役が召出され、老中から渡海の準備をととのえるよう申し渡されたという。

 巡見使一人に対して従者は30人から45人。普段からこれだけの人数を抱えているとは限らないことと、旅慣れた者を一行に加える必要もあったので、巡見使に任命されると、臨時に人集めをする必要があったと思われる。

 翌、享保2年(1717年)2月1日、巡見使を拝命していた曽我平次郎の居宅が焼失したため、巡見使の役を免ぜられ、代って有馬内膳が陸奥出羽松前の巡見使に命ぜられた。

 同年2月28日、陸奥出羽松前の巡見使は、将軍に拝謁し暇乞いを行った。このあと、出発まで1か月足らずの間、旅の準備やら挨拶廻りなどに忙殺されたことであろう。



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