偕楽園の都錦が咲き始めた。東門から入りまっすぐ好文亭に向かうと、直線の道の終わりの左側に二期桜がある。この桜の奥に隣り合わせて、幹がねじれているのが都錦である。花はやっと1輪2輪咲き始めたばかりである。やさしい薄い紅色の八重咲きで美しい花だ。花もさることながらその幹がねじれているのがすばらしい。園内には同じようにねじれた幹をいくつか見ることができる。なぜ梅の古木はねじれるのか。今日はじっと幹を見つめて考えてみた。この考えは根拠に乏しく全くでたらめの可能性が大である。
幹をよく観察すると一本の幹であるのに、あたかも枝ごとに幹があってそれがロープのように撚り合わされてねじれているようだ。観葉植物のベンジャミンが3本の幹を寄り合わせられてねじれているのと似ている。その3本の幹が一つに融合してあたかも1本の幹になったかのような格好である。ベンジャミンでは融合があるかどうかは知らないがエゴノキではこの融合現象が現れる。
幹の融合(このことばは適正ではないが)はエゴノキなどでは目の前で実際におきたことである。サルスベリやニシキギでも見たことがある。それは新しい徒長枝が3本あったとして、この3本の枝をロープのように撚り合わせておくと、年を経るごとに3本の枝が太くなり密着してくるが、まだ三本は別々の枝である。ここまでは多くの木でもそうなるが、さらに各枝が成長して太くなったときに、その樹皮が一体となってあたかも1本の枝のようになってしまう。つまり3本の枝が融合してしまうのである。でも3本を撚り合わせた格好は残っているのである。庭のエゴノキの枝をイタズラして撚り合わせてこのことを発見した。梅の古木の幹も同じようにあたかも何本かを撚り合わせたものが融合したかのような似た格好であるが、違いは梅はもともと1本であり、エゴノキは3本が1本になったことである。
梅の古木はもともと1本の丸い幹であったものが、年を経て何本かの幹を撚り合わせてそれが一本になったかのような格好をしている。それで融合とは反対の傾向があるので分離しつつあると表現したいのである。というわけで梅の古木は分離する方向で幹が変化しているようだ。将来完全に分離するものもあるかもしれない。臥竜梅の古木はもしかするとこのことが起こりそうな予感がする。でも今日のテーマは分離の傾向が現れてくるねじれ現象である。この分離という表現も適正ではないと思うが。
幹の一部がふくれて分離しつつある部分をよく観察してみる。ひとつのふくらみを下から上へとたどってゆくと、それは勢い良く成長している主要な枝につながっていることに気づいた。もうひとつのふくらみをたどって見上げてゆくとこんどは別の主要な枝につながっている。こうして幹のねじれてふくらんでいる部分はそれぞれが主要な枝につながっていた。これはあたかも主要な枝をそれぞれ一本の木に見立てれば、このねじれた幹は何本かの木を撚り合わせて融合したような格好である。
丸い幹にどうしてふくらみができるのかは謎が解けた。それは幹に枝が出てその枝が勢い良く成長している。幹全体が老木になって成長がほとんど止まってしまったかのように見えるのと対象的にその枝は若木のような勢いがある。そしてこの若木のような枝に樹液を盛んに送る必要がある。そのためこの枝に樹液を送る部分が活発になり、成長してふくらんでくるようである。老木が全体としては成長が止まってしまったときの起死回生の業である。
我が家の胡桃の木は幹が直径30cmちかくある。枝は1年で1m以上も伸びてしまうので毎年高さ3mほどのところでほとんど坊主にしてしまうほどに切り詰めてしまう。枝が小さく少なくなると、樹液の必要も少なくなるので、こんなに太い幹の周長のすべてを必要としなくなる。この結果枝の真下の部分の幹の樹皮は生きているが、枝の無い方向と同じ幹部分は枯れてくる。根も枝に見合った部分は生きているが、太い幹を支えていた太い根は枯れてくる。こうして太い幹は枝の無い側が枯れて、切られた枝の切り口から腐れが進行して空洞ができた。枝は幹の周囲の全部ではなくある一部分によって支えられていることがわかる。だから枝が毎年切られてついに芽を出さなくなり枯れると、それに見合った幹の部分も枯れてしまった。今は切り倒してしまったが、ケヤキでも同じであった。
梅の枝は混み合うと内側や横、下の枝は枯れて、枯れないまでも成長が思わしくなく、日当たり風通しなどより条件のよい枝が勢い良く成長する。ということは梅は自分で成長させる枝とそうでない枝を自分で選択しているようである。また前に述べたように新枝が出て若返ることもある。ということは少なからず幹も成長が止まる部分と盛んになる部分があるはずである。こうして成長する主要な枝を支える幹の部分のふくらみが始るのではないだろうか。
ではなぜこのふくらみが梅は撚られたようにねじれているのだろうか。クルミやケヤキにはねじれはなかったようである。それも偕楽園で見る限り梅は左巻である。左巻と右巻の表現は誤解を招きやすい。というのは植物では物理化学の世界とは逆で、左手で幹を持ち前に進むのが左巻。右手で幹を持ち前に進むのが右巻である。とにかく一方向であるから不思議である。これはつる性の植物がその種類ごとにまき方向をもっていることと関係があるように思う。梅はつる性は見られないがこの性質を内在していないだろうか。遺伝子を持っていてもそれが現れないのかもしれない。ところが成長する枝のために、それに見合った幹の部分の樹液の流れが活発になると、左下側からも吸い上げようとして、左下方向からの吸い上げが活発になりねじれが生じるとか。
いままでのことは無知この上ない者の当て推量で思いつきをを書いたので全くの嘘言である。でもこんな梅のねじれ現象を考えながら梅の生涯を思い馳せて園内を歩き回るのも楽しいことである。偕楽園はおよそ160年を経るが開園当初からの古木は非常に少なくなってきた。比較的若い木がおおくなってきたが、これらの若木も100年後にねじれ現象が現れて古木と愛でられるような手入れをしていただきたいものだ。
偕楽園周辺の自然はここ10年か20年の変化が大きいように思う。農薬、肥料、不要枝切りなどがどのように影響しているかが心配でもある。土は健全だろうか。自然の生態系は崩れていないだろうか。梅は大木、老木になれるだろうか。梅自身はどう受け止めているのだろうか。