リホームが一段落して大工仕事をしてくれた兄が兄嫁を連れてきてくれた。自分のした仕事を見せたいのもあったろうが、かねてから私が来て欲しいと兄嫁にお願いしていたので弟の私の生活ぶりを姉さんも見ておきたかったこともあったであろう。兄は桜の木とアカシヤが大きくなって電線にも触れているので切ったほうがよいとさっさと枝を切り始め、あっという間に枝を落とし、幹も高さ高さ1mくらにに詰めてくれた。日ごろから詰めなくてはと思っていたが切れ味のよい商売用の鋸で難なく切り詰めてくれた。枝が全く無い状況になってしまい、来春の花が一輪も望めないので、家内からはせめて生花に使う分は残しておいてもらいたかったと言われたが後の祭であった。でもこれで枝ぶりもよくし立てられ、再来年には花をつけるであろうし、明るくなったのがとても気持ちがよい。
ところで兄が帰ったあとで、切り倒した幹を薪のように短く切って片付けようとして古い錆びた鋸で切り始めたところ、最初の1cmくらいは楽に切れたが、それ以上はどうにもならない。鋸が幹に挟まれて引くことも戻すことも出来ない。鋸の切れ味が悪いのと、錆びがこびりついてすべりが悪いためである。新しい鋸を買えば簡単ではあるが、鋸の目立てをすることとした。鋸などそんなに頻繁に使うわけでもなく新品を買っても一度使うとしばらく使わないでまた錆びてしまうかもしれない。昔、子供のころは木挽きさんがいて、大きな太い木から板材を取るために大きな鋸で切り裂いているのを見ていたことがある。今なら製材所の帯鋸であっという間に板材になってしまうが、当時は1枚の板を取るのに何時間もかかったものである。そして鋸の切れ味が悪くなると鋸の目立てをしていた。また目立て屋さんがいて時折注文取りに来ていたようにも思う。今では時折包丁研ぎの注文取りが来ることもあるが、鋸の目立て屋さんは見たことがない。
子供のころはこうして鋸の目立てを見ていたので、一応目立ての要領は見よう見まねで知っていたいたので、数10年ぶりに目立てをしてみることにした。道具はヤスリ1本である。鋸の歯を良く観察すると1個おきに互い違いに左右に向きが違う。鋸を縦方向からみると1個おきに歯の先端が左に曲がっているのと、右に曲がっているのが交互にあって、歯はきれいに二列に並んでいる。この左右への曲がりが鋸の板厚より若干広いので丸太を芯まで切っても鋸が丸太に挟まれることがなく、楽に鋸を押したり引いたりできるのである。この鋸の歯を左右に曲げる道具も必要であるが、どのようなものかは忘れて思い出せない。これがなくてもヤスリで研ぐ時に外側に曲がる方向に力が加わるので若干は曲げることはできるはずである。
いざ目立てをしようと鋸の歯を観察しようとすると、近眼の眼鏡が邪魔になる。近眼の眼鏡では近くが良く見えない。それは目が老眼になってきたためである。遠近両用なら良いのだが眼鏡は遠くが良く見えるもの。その上老眼になり近くが見えにくくなったので眼鏡が邪魔になるのである。ここで眼鏡を外すと置き忘れてしまい、時に置いた場所を思い出せず探し回ることがある。そういうことがないよう眼鏡に紐をつけたが、これまた作業をする時にはぶら下がった眼鏡がじゃまになる。そこで外してどこか思い出しやすいところ、踏みつけたりしないところに置くのであるが、忙しいときにはついつい不要なものを後ろにちょっと置くように無造作に置いてしまうことがあり、あわや踏みつけたり道具をぶつけたりしてぎょっとすることがある。さても眼鏡は厄介なものである。幸いにも眼鏡を外しても机上の書類を読むのには不自由がないので、鋸の目立てには裸眼で十分であるが、作業途中で何か探し物でもしようと立ち上がると足下が遠くなりよく見えないで不自由する。このとき無造作に眼鏡を置いたときは、眼鏡の置き場を思い出せず、まず眼鏡を探し、それから探し物をするという二段階の探し物となり厄介である。
さて鋸の目立てが終わり、錆びも砥石で落として機会油を塗るといかにも切れ味のよさそうである。果たして切り落とした桜の幹を切ってみるとすこぶる切れ味がよろしい。これならそんなに力をいれなくても切れる。そこで一気に作業を進めたところ、やっぱり鋸作業は疲れるものである。小学生のとき父の山仕事を手伝い、鋸作業を1日やってすっかり疲れて入院するほどであったのを思い出した。私は力仕事がさっぱり出来なかった。これに比べ兄は良く働いていた。その兄が今でも我等弟のことを思ってなにかと気遣ってくれることを有難く思う。