ハワイ旅行も終わろうとする夜夜中。とても目が覚めるとは思われない爆睡時間帯に目が覚めた。寝ようとしても脳ミソが睡眠モードにならない。どうしたものかと思っていると、ふとエステル記の一文を思い出した。
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた。その中に、入り口を守っていた王のふたりの宦官が、王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれてあるのが見つかった。そこで王は尋ねた。「このことのために、栄誉とか昇進とか、何かモルデカイにしたか。」王に仕える若い者たちは答えた。「彼には何もしていません。」エステル記6章1-3
私はこの一文をもって主が私に何かを今語ろうとしておられることを察した。それは「お前はお前のいのちを救ってくださった方に何かをしたか。」という語りかけであった。私のモルデカイは誰だろうと思い巡らせるとすぐに気がついた。その方は「私のためにご自分のいのちをも投げ出して十字架にかかってくださったイエス様です。ではイエス様に何かをしたか。」ということだと。私の答えは若い者たちと同じで。「彼には何もしていません。」であった。何と情けない者であることか。このことを深く考えたことがなかったとは。ツジツマあわせ程度のことはしたがそれが何だというのだ。
ハマンがはいってきたので、王は彼に言った。「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう。」そのとき、ハマンは心のうちで思った。「王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう。」エステル記6章6
この私は。私は今もって自分の名誉とかばかり求めているではないか。ハマンと少しも変らないではないか。だからハマンのように、それは私が受けるべきだなどと早とちり、思い違いをしないように気をつけなさい。いつでもそれはイエス様にふさわしいと心得よ。
「王が栄誉を与えたいと思われる人のためには、王がきておられた王服を持って来させ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いて来させてください。王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである。』とふれさせてください。」エステル記6章7-9
そうです。イエス様こそ王服を着るのにふさわしい方です。主の主、王の王であられる方はイエス様です。父なる神さまが真に望んでいることはイエス様を十字架にかけることではなく、イエス様が王となられることです。ところがハマンも私も、自分こそ栄誉を受けるにふさわしいと思い違いをしました。
栄誉ばかりか「ハマンが、モルデカイのために準備した柱に彼をかけることを王に上奏しようと、王宮の庭に入ってきた。」と6章6にあるように、王が栄誉を与えようとする者を逆に十字架にかけようとしていました。「事実、その迫害者は王の損失を償うことができないのです。」7章4
自分の心に栄誉を求める野心がある限り、私は本当に栄誉を受けるにふさわしい方に気づくことはないでしょう。それどころか、その方の抹殺に加担しているのです。
「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」彼は、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていましたが、これで目からうろこが落ちました。
これまでモルデカイは決して王宮に入ろうとしませんでした。「モルデカイは着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、大声でひどくわめき叫びながら町の真中に出て行き、王の門の前まで来た。だれも荒布をまとったままでは、王の門にはいることができなかったからである。」4章1-2
「モルデカイは王の前に来た。」8章1栄誉を与えられたモルデカイは王宮に来ました。主イエス様を王としてお迎えしない限り、自我が心の王座を占めている限り、主イエス様は心という宮殿にお入りになってはくださいません。
「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それはわたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」
主イエス様を王としてお迎えすることにより、私も主イエス様の栄誉に預かる者とされるとは、何と不思議で恵多い幸いなことではありませんか。