出島の木の鉢に出てきた実生のトラノオスズカケが咲きました。地植えのトラノオスズカケはもう少し後になるようです。
トラノオスズカケは四国3県と九州地方に自生地があるそうです。
また都内の自然教育園では2007年の秋に58年ぶり1株が再発見され、今では増えて毎年花が咲いているそうです。なぜ、58年も発見されなかったのか? それは種の状態で地中に埋もれていたものが、何らかの工事によって地表近くに移されたとか、樹木の伐採などで日当たりがよくなるなどの環境の変化て発芽したと思われているようです。
この場所は高松藩主松平讃岐守の下屋敷で、平賀源内が領地から移植したと言われています。明治時代は軍の火薬庫の敷地、大正時代は御料地となり自然が保護されてきたそうです。詳しいことは『国立科学博物館附属自然教育園の トラノオスズカケの再発見と大正4年の「東洋学芸雑誌」記事をめぐって 萩原信介*』 という自然教育園報告(Rept. Inst. Nat. Stu. ) 第45号:47-53, 2014. にあります。
今咲いている我が家のトラノオスズカケも出島の木の鉢に生えてきたものです。もとは、私がトラノオスズカケに異常なほど興味をもったことを知った友人が、たまたま猪が掘り返してしまったものがあったのでとひとかぶ送ってくださったものでした。もう10年以上も前の秋のことです。
送られてきたトラノオスズカケ
早速鉢に植えました。今では当地でも地植えにしても大丈夫なことがわかっているのですが、この時は四国と九州にしか自生していないのに、北関東で冬を越せるはずがないと鉢植えにしたのでした。
翌年3月には植えた株元からと埋めた各葉腋から芽を出しました。トラノオスズカケはツル状なので、株を鉢の中央に植えて、ツルは円形に浅く埋めて、葉だけが地上に見えるようにしておきました。その結果、株元と埋めたそれぞれの葉腋から芽が出てきました。
生育は順調で初夏になるとひと株だけだったのが一挙に増えました。
その翌年には立派な花を咲かせました。
次の年は花をたくさん咲かせました。写真を友人に見ていただいたところ、自生地よりも元気であると驚いていました。
北関東でも元気な秘訣の一つは冬季の紫色の葉です。自生地ではこのような紫色の葉は見たことがないとのことでした。
秋が深まるにしたがって、緑色の葉が紫色に変色してきます。このような濃い紫色になると、最低気温がマイナス5~7度になっても枯れません。でも、まだ葉が緑色のうちに急激に寒くなると、寒さのために葉が傷んでしまいます。このようにしてトラノオスズカケは極寒をもやり過ごす力を持っていることがわかりました。
このようにトラノオスズカケは自生地とは遠く離れた水戸に来ても非常に元気なのです。そのもうひとつの理由は、もしかして。
高松藩初代藩主松平頼重(よりしげ)は水戸初代藩主徳川頼房(よりふさ)の長男であり、三男光圀とは同じ母の子である。またともに母が懐妊時に父頼房から堕胎を命じられている。頼重は三木之次(ゆきつぐ)の江戸屋敷で産まれ、光圀は水戸の三木之次の屋敷(今は黄門神社があります)で産まれました。
後に長男松平頼重は幕府直轄となった高松播主に、三男光圀が水戸藩二代藩主となる。
長男をさておき水戸藩主となった光圀は兄松平頼重とは特に親交があった。光圀は兄頼重の実子綱條(つなえだ)を養子に迎えて水戸三代藩主に、頼重は光圀の実子松平頼常(よりつね)を養子に迎え家督を譲っている。
いかがでしょうか。水戸藩と高松藩とは深い関係にあることを思うとき、トラノオスズカケが水戸に来ても元気なこともうなずけませんか。