庭の花たちと野の花散策記

山野草と梅が大好きの「雑草」。花以外は思考不可の植物人間の庭の花と野の花散策記です。

民営化は恥ずべきことでは

2007年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

民営化は恥ずべきことではないか。こういう視点で見ると本当の改革の方向が見えてくるような気がする。国鉄も電電公社も民営化されて今度は郵便局が民営化されようとしているほか社会保険庁ほかさまざまな官の仕事で検討されていることと思う。確かに無気力怠慢、さらには私利私欲に官の地位を存分に用いようとする集団と化した役所に、常に利益追求しなければならない民営企業の宿命的な意欲の片鱗のひとつくらい付与したくなるのは事実である。こういう役所は民営のようにもっと働けというのはある意味で正しい。それが改革だというと、その通りとばかり政治の潮流が、改革、民営化に一挙に加速化されてしまった。

民営化ではなく、民営のようにしっかり働けというのがが筋である。官は公僕であって民の僕であった。それがいつの間にか権威を振るい自己保身、私欲ばかりを追求して民を奴隷にしてしまった。官には公僕として滅私奉公できるようによい待遇が保証されていた。ところがいつのころかそんなに働かなくなった。そのため官の保証は民とかけ離れている見られるようになってきた。そこで民と同程度でよいのではという考えに変ってきた。とはいえ高い保証が民並みになったわけではない。また保証を民並みにすることを筋としてはならない。働きを保証に見あったものにするのが筋である。現状は働かなくとも、極端な例ではほとんど出勤しなくとも解雇はありえない。これは本当はとても良いことである。というのは公僕として思い切った正義を行おうとしたが意に反して批判を受けることもあろうし、身を危険にさらすこともあろう。その時も守られるうように保証されるべきであるから。

ところが今はこの保証の上にあぐらをかいてしまっていて、この保全しか考えていないというよりもっと身を肥やそうとしていることすら伺われる。保証に見合った仕事をしなくなってもなお保証がある。だから初心に返って民のために公僕として保証に見合って働くことではないか。民営は確かに身を粉にして働かざるを得ない。だから働きに見合った保証があっても問題にはならない。官でも働きに見合うということはよければもちろんだが、悪いときもなおさら必要である。ところがこのことは官では全くといってよいほどありえない。だから民営化か。

いきなり民営化する前に官営の原点に立とうとの意識改革が必要ではなかろうか。極論すればできない者は生活保護程度の保証に切り替えてもよいではないか。それでも首を切られる民営よりはどれほどましなことかと思える。そのくらいの覚悟で当事者も改革者も当たってほしい。まずは原点に返って官の魂が職場から抜けたことを恥ずべきである。また手っ取り早い民営化は次善の策でもなく職場から官の魂を抜いてしまう恐れのあるお門違いのことであろう。その手っ取り早い改革の混乱で苦しみ悩む多くの改革被害者ともいうべき当事者と弱者がいよう。その前に誇れる官の魂を吹き込んだ改革を断行するべきと思う。民営化反対者からはこういう魂を吹き込んで自らを改革しようということは聞こえてこなかったように思う。これからは魂を入れ替えて仕事をしますから改革はそれからお考えくださいという当事者のお話が聞こえてきたら嬉しいのだが。こういうことは生温いという批判は大いにあろう。でも即効性がありそうな表向きだけの、きれいごとの改革では済まさないで、魂の入った本当の改革を断行しようとする決意こそ当事者も政治家も国民も持ちたいものと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする