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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

石原前東京都知事の動向と 「君が代」不起立差し戻し東京高裁判決

2012-11-20 18:36:45 | 

※『ひのきみ通信』176号(2012年11月17日)より転載させていただきます。



石原前東京都知事の動向と「君が代」不起立差し戻し東京高裁判決

渡部秀清(千高退教)


10月25日、石原都知事は辞任の意思と「石原新党」立ち上げを表明した。その際、政界を含め、世論も全体としては冷ややかな反応だった。田中真紀子衆院議員は「格好悪い暴走老人」と切って捨てた。
 10月30日、<たちあがれ日本>が党会合を開き新党への移行を決定した際、彼は、田中氏の言葉がかなりこたえたと見え、田中氏を罵倒するわけでもなく、自ら自嘲気味に「暴走老人です」と挨拶した。これは自ら「白旗」を上げたようなものである。
 10月31日、石原氏は任期2年半を残し辞職した。しかし、彼がもっとも頼りにしていると思われた橋下大阪市長は、「グループになると難しい。石原さん個人とは一緒にやりたい」と述べ、「石原新党」とは一線を画した。
 結局彼は、<オリンピック招致><尖閣問題><築地市場問題>などをぶち上げたあげく、いずれも中途半端なまま(むしろ問題を深刻化させ)、全く無責任にも逃げるように辞職したのである。
 11月13日、石原新党は「太陽の党」として旗揚げした。しかし、参加したのは「たちあがれ日本」の議員と彼の6人だけ。そして彼自ら「暴走老人ですから、年齢的には、限界がありますから。やっぱり次のランナーに、ちゃんとしたバトンをタッチをしていくための、ワンステップでしかありません。必ず衆院選の前に大同団結する。太陽の党が(他党に)吸収されて消えてもかまわない」などと述べている。これは彼自身「自分の政治生命は間もなく終りです」と言っているのに等しい。しかも「新しい関ケ原の戦いに勝ちます」などとも述べている。「ワンステップ」でしかないのに「関ヶ原の戦い」を持ち出すなどと言うのは滑稽以外の何物でもない。哀れですらある。
 ところで彼は2003年、「日の丸・君が代」について都教委に「10・23通達」を出させ、強制と大量処分を強行し、「数年たったら全国がみんな真似する」とまで豪語した。しかしあれから9年、そうとはならず、彼の方が都政を投げ捨て逃げるように辞めた。一方、この春の入学式で東京都でたった一人の不起立者になったTさんは、その後も屈せず元気に闘っている。また東京では引き続き多くの「君が代」裁判闘争も闘われている。
(2)

 石原辞任後、11月7日、東京高裁(南敏文裁判長)で、元都立特区別支援学校の河原井純子さんの差し戻し控訴審判決があった。それによると<停職1月の処分>に対し、(ア)「裁量範囲を超えるものとして違法」、(イ)「処分により・・被った精神的苦痛に対する慰謝料は、30万円とするのが相当」、とする判決を下した。
 その判決文を読むと、大きく以下のような特徴があった。[1]基本的には昨年6月と今年1月に出された最高裁判決を土台にして書かれていること、[2]しかし、今回の判決では、「日の丸・君が代」法制化時(1999年)の政府答弁がかなり大きな判断材料とされていること、[3]教育実践との関係で損害賠償を認めたこと、である。以下、[1]の判決文紹介は省略し、[2]、[3]について基本的な部分を紹介する。(少し長くなるが、これからの闘いにとって重要だと思うので。)
 [2]については、次のような組み立て方をして当時の政府答弁が紹介されている。
  A.国旗・国歌の法制化の意義について
  B.法制化による、今後の学校における指導について
  C.児童・生徒の内心の自由との関係について
  D.指導に係る教職員の職務と内心の自由との関係について
  E.教職員への職務命令や処分について
 以下順番に、それぞれの答弁を紹介する。

「政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならないと考えている」(1999.6.29 内閣総理大臣)
「法制化に伴い、学校教育における国旗・国歌の指導に関する取り扱いを変えるものではないと考えており、今後とも、各学校における適切な指導を期待するものであります。」(同日 内閣総理大臣 同旨文部大臣)
二つあるが、内閣総理大臣の答弁(1999.7.21)は省略しもう一つの答弁を紹介する。
「単に従わなかった、あるいは単に起立をしなかった、あるいは歌わなかったといったようなことのみをもって、何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導が行われるということはあってはならない。」(同日 政府委員)
「教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従いまして教育指導を行わなければならないものでございまして、各学校においては、法規としての性質を有する学習指導要領を基準といたしまして、校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は国旗・国歌に関する指導を含め教育指導を実施するという職務上の責務を負うものでございます。・・・これ(本法案)によって国旗・国歌の指導にかかわる教員の職務上の責務について変更を加えるものではございません。」(1999.8.2 文部大臣)
ここには四つの資料が紹介されている。
「(前半略)・・校長は、学校運営の責任者として学習指導要領の趣旨を実現するために、必要に応じ教員に対し職務命令を発することもあり得るものでございます。」(同日 政 府委員)
「職務命令というのは最後のことでありまして、その前に、さまざまな努力ということはしていかなきゃならないと思っています。」(同月6日 文部大臣)
「(前半略)・・実際の処分を行うかどうか、処分を行う場合にどの程度の処分にするかにつきましては、基本的には任命権者でございます都道府県教育委員会の裁量にゆだねられているものでございまして、任命権者である都道府県におきまして、個々の事案に応じ、問題となる行為の性質、対応、結果、影響等を総合的に考慮して適切に判断すべきものでございます。・・・なお、処分につきましては、その裁量権が乱用されることがあってはならない」(同日 政府委員)
「教育の現場というのは信頼関係でございますので、・・・処分であるとかそういうものはもう本当に最終段階、万やむを得ないときというふうに考えております。このことは、国旗・国歌が法制化された時にも全く同じ考えでございます。」(同日 文部大臣)
 その上で判決文では以下のように述べている。

「国会では、教員の職務上の責務については変更は加えられないこと、処分は、問題となる行為の性質、対応、結果、影響等を総合的に考慮し適切に判断すべきこと、処分は、万やむを得ないときに行われるべきことが答弁されていたのであるから、機械的、一律的な加重は慎重であることが要請されていたということができる。・・不起立行為に対して戒告、減給から停職処分へと機械的、一律的に加重していくことは、教員が2,3年間不起立をすることにより、それだけで停職処分を受けることとなるのであり、その結果、自己の歴史観ないし世界観に忠実な教員にとっては、不利益の増大を受忍するか、自らの信条を捨てるかの選択を迫られる状況に追いやられることも考慮すべきである。」
 こうした判断から、判決文では次のように述べている。(ここでは、「停職処分は・・違法」というだけではなく、「国家賠償法上も違法」ということも付け加えられている。)

「停職処分を選択した都教委の判断は、停職期間の長短にかかわらず、処分の選択が重きに失するものとして社会観念上著しく妥当性を欠き、上記停職処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法である。この違法は、停職処分を取り消すべき違法であるのみならず、不起立行為の性質、実質的影響、停職処分の不利益に対する考慮が尽くされていないという意味で職務上通常尽くすべき注意義務に違反しているというべきであり、国家賠償法上も違法である。」
 [3]については、「国家賠償法」とも関わり、次のような記述がある。

「減給は、戒告と異なり給与上の不利益があり、停職は、減給とは異なり単に給与上の不利益があるのみならず、一定の期間職務が停止されるという職務上の不利益が存する。・・特に、養護学校では、教諭と児童生徒との人格的触れ合いが教育活動に欠かすことのできないものであると考えられるところ、証拠(・・)によれば、控訴人(河原井さんのこと)は、児童生徒との触れ合いを特に重視していたと認めされることを考慮すると、財産的損害の回復のみによっては、控訴人の精神的損害が慰謝されるものでないことは明らかである。」
 以上のように、今回の判決はまだ最高裁判決の枠(不起立での戒告処分と、根津さんの停職3か月処分については認めている)を出ていないものの、判断の基準を「日の丸・君が代」法制化時(1999年)まで立ち戻り、かつ教育実践に関わる「精神的損害」に対する賠償を命じたという点では、画期的なものであった。今回このような判決を勝ち取ることができた背景には、東京都をはじめ全国各地の仲間たちの屈することのない闘いがあったと言える。今回の判決は、東京のみならず、「日の丸・君が代」強制・処分を進める橋下市長率いる大阪はもとより、全国にも良い影響を与えることだろう。 そもそも国民主権の国で「天皇主権の歌」を国民に強制することほど理不尽なことはないのである。

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橋下徹の1932年

2012-11-20 18:28:20 | 

※『ひのきみ通信』 第176号(2012年11月17日)より転載させていただきます。

私たちは、ナチスがどのようにして人心を掌握し、当時最も民主的な憲法と言われていたヴァイマル憲法のもとで
独裁政治が闊歩し、ついにはホロコーストにまで及んだのか、ドイツの歴史に学ぶ必要がありそうです。


橋下徹の1932年

*ソフィーの愛人*

 民主党政権は、当初の理想をほとんど実現できないまま、国民の支持を失ってしまった。対する自民党は、民主党政権成立以前の政治・経済の行き詰まり状況に時代を逆行させることしか、選択肢を示せない。「二大政党」に失望した世論の受け皿とマスコミが喧伝する「第三極」は、右翼反動勢力ばかりである。このような日本政治の混迷状態を「戦前回帰」と見る向きもあるが、もうすこしよく見てみよう。状況は、第二次大戦前の日本より、戦前のドイツにはるかによく似ているのではないか。とくに1932年のドイツに。
 1932年7月のドイツ国会議員選挙で、ナチスは37.4%の得票を得て第1党に進出した。同年11月の選挙では、得票率を33.1%に落としたが第1党を維持した。しかし、いずれの選挙でも相対多数の国民の支持を得たものの過半数は獲得できなかった。この間、ナチスを警戒する既成勢力は、非ナチス政権を維持していた。しかし非ナチス勢力は、足並みの乱れを克服して統一を維持し続けることに、ついに成功しなかった。とうとう1933年1月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を要請し、ナチス政権が成立した。
 しかし、この時点に至ってもなお、ナチスおよびそれに追随する与党勢力は国会の過半数を獲得していないことに注目すべきである。まだ反撃は可能だったのである。だがナチスは、先制攻撃に出た。2月、ナチス自ら国会に放火し、これを共産党の仕業と宣伝して反ナチス勢力を徹底的に弾圧する中で、3月に選挙を断行し、ナチス与党勢力は過半数獲得に成功した。そしてヒトラーは、この国会冒頭に「全権委任法」を成立させ、国会を無力化して独裁政権を確立したのだ。
 その後の成りゆきは、ご存じのとおりである。この年のうちに、ナチス以外の全政党・労働組合を禁止。翌1934年には、ヒンデンブルク大統領の死去に伴いヒトラーが大統領職を兼任して「総統」と称する。1935年には、ドイツ再軍備。1936年、ラインラント進駐、ベルリン・ローマ枢軸結成、ベルリン・オリンピックを利用してナチスの権威を全世界に宣伝。1937年、「日独伊三国防共協定」。1938年、オーストリア併合、ズデーテン併合。1939年、チェコスロヴァキア解体。そして同年、ポーランドに侵攻して、第二次世界大戦に突入。
 独裁政権とは、一部の暴力的独裁勢力が大多数の国民を弾圧する体制ではない。国民の一定の「支持」を得てはじめて成立する体制なのだ。しかし同時に、この「支持」基盤は相対多数でしかないことも重要である。独裁政権とは、一部の国民の支持を以て国民多数の支持を得ているかのように装い、国民多数の人権を抑圧する政権なのだ。いかにして、そのようなことが可能なのか。これこそ、1930年代のドイツから学ぶべき最大の教訓であろう。
 ナチスは、広範な反対勢力のうちの一部少数派を標的にして、あたかもかれらが国民全体の利益に反する勢力であるかのように宣伝して攻撃を加える。多くの国民が、宣伝に乗ってこの攻撃を支持してしまうか、すくなくとも傍観する。ひとつの勢力を壊滅させると、つぎの少数派を標的に仕立てる。これを繰り返すことによって、最後にはだれもナチスに抵抗することができなくなってしまう。これがナチスの手法である。
 しかし、ナチスが台頭した1920~30年代のドイツは、世界一民主的と称されたいわゆる「ヴァイマル憲法」の下にあったはずだ。ナチスの政治手法とはほとんど相容れないこの憲法に対して、ナチスはどのように対処しただろうか。改正しようとしたか、あるいは効力停止または廃止しようとしたか。はたまた、新しい「第三帝国憲法」を制定しようとしただろうか。いや、そのようなことは何一つしなかった。ただ、憲法を無視しただけであった。ナチスが行なったことの多くが憲法違反であったはずだ。しかしナチスは、一向に意に介さなかった。「世界一民主的な憲法」は、ナチスの独裁政治にはなんの障害にもならなかったのだ。
 さて、「第三極」の旗手のひとり、橋下徹・大阪市長であるが、そのファッショ的手法に関しては、これまで多くの識者が指摘してきたとおりである。県庁職員・市職員・教員・清掃労働者から、文楽協会に至るまで、そのひとつひとつを攻撃の標的とし、あたかもかれらが府民・市民の敵であるかのように宣伝する。かれらが府民・市民の敵である根拠は、府民・市民からの信任を得た橋下知事・市長が敵とみなしたからである。それが間違っているというなら、つぎの選挙で落選させればよいというわけである。
 「選挙に勝ったら、何をしてもよい」という手法自体が民主主義の原則を逸脱しているということは、法律家でもある橋下市長はよく知っているはずである。にもかかわらず、都合の悪いことは大衆から隠蔽し、事実を恣意的に単純化した「わかりやすい」キャンペーンで、大衆を誘導する。基本的人権や民主主義のルールは、大衆の要求を実現するための障害となる「抵抗勢力」の隠れ蓑であるかのように描かれる。これこそがファッショなのである。
 その橋下市長が、「日本維新の会」を率いて国政に進出しようと目論んでいる。会の政策綱領に相当する「維新八策」には、憲法改正を要するような項目が多く並んでいる。にもかかわらず、改正の具体的提起は、94条(地方自治)と96条(改正手続)の2か所のみである。9条に至っては、「変えるか否かの国民投票」を実施するという、96条の改正規定を無視した提起がなされている。多くの識者は橋下市長を改憲勢力とみなしているが、はたしてそうだろうか。改憲をせずとも、無視すればよいのではないか。これまでも橋下市長は、違法性を問われるような政策をあえて実行し、訴訟に負けたら改めればよいという手法を繰り返してきた。しかし、国政を握った暁には、訴訟に負けても無視すればよいだけではないか。
 メディア操作も、ファシズムの常套手段である。センセーショナルな言動でマスコミの注目を集め、メディア露出の機会を稼ぐ。それが仮に批判的報道であっても、どうということはない。橋下市長はマスコミに嫌われている(?)のだそうだ。しかし、たとえ記者の主観がそうだとしても、報道されること自体が橋下市長を利している。痛い攻撃に対しては、罵倒すればよい(たしかに「週刊朝日」はルール違反であったが)。そうしているうちに、橋下市長を救世主のように持ち上げる「週刊現代」のようなメディアも増やすことができるのだから。
 「維新の会」がどれだけの票を集めるかは、不明である。世論調査における支持率が低下しているとの観測もある。しかし、油断は禁物である。橋下市長を支持する勢力は、「維新」以外の政党の中にも存在する。橋下「維新」およびそれに近い石原新党(「太陽」?!)などの勢力は、それなりの議席を獲得するのであろう。ここに、1932年のドイツの状況が現出する。かれらは、まだ少数派である。しかしかれらは、その勢力を多数派に転換する手法を心得ていると考えておくべきだろう。
 失敗の教訓は明確である。非ナチス勢力が足並みの乱れを克服して統一を維持し続けることに、ついに成功しなかったということである。であるなら、いまわれわれに求められているのは、「反ファッショ統一戦線」しかないだろう。
 最後に、1930年代ドイツで、いかにしてナチスを阻止することができなかったかを回想する、ニーメラー牧師の告白を引用しよう。

 ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者ではなかった。だからなにも行動に出なかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安に感じたが、社会主義者ではなかったからなにも行動に出なかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安を増したが、それでもなお行動に出ることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だから立って行動に出たが、そのときはすでに遅かった。

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