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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

大阪市教委:現場から教科書選定権を奪い取る暴挙

2013-08-07 20:50:55 | 教科書排斥問題

現行の教育委員会制度では、教育委員は首長が議会の同意を得て任命します。教育委員会が現場から教科書の選択権を奪い取ると言ってよい、今回の大阪市教育委員会の付帯決議は、ますます教育への政治介入を招くことになります。 それがどれほど危険なことか!政治が教科書を使って子どもを一定方向に誘導することになれば、「お国」のための「国民」を作ることなどいともたやすいことでしょう。「君が代」不起立・不服従を貫く私たちの運動は、まさにそのような動きと闘っていきます。

大阪市教委、現場から教科書選択権を奪い取る暴挙

ブログ「大阪教育条例NO!」から転載します。

大阪市教委:高校での学校採択をつぶす制度改悪を断行!

 ◆8月6日、大阪市立高校の教科書採択を決める教育委員会議が開かれました。前回2名の教育委員が欠席し、そのもとでは決められないとなりましたが、今回も西村和雄委員は欠席で、5名の教育委員による審議となりました。結論から言えば、各学校からの答申通り採択が行われましたが、それと引き替えにするかのように高校教科書採択制度の根幹をつぶしてしまう「附帯決議」が全員一致で可決されてしまいました。「附帯決議」では「教育委員会による適正な採択のための審議の一層の充実を図るため」として、各学校に「選定候補として2つ以上の教科用図書を答申書に記載し、それぞれの長所と短所を列記することとし、推薦順位や優劣は示さないものとする」とし、教育委員会に高校採択でも「お好み採択」の権限を事実上与えるものとなっています。きわめて重大な、制度改悪になります。

◆今日の教育委員会議の中では、暗に実教出版を批判する意見がありましたが、議論の中心は、「答申書の選定理由が明確ではない」「その学校の選定理由が妥当性があるのか、教育委員会として調査研究しているのか」「本当に学校内部で自由闊達な議論が行われたのか?選定の過程がわからない。議事録が各学校で作成されているのか?」「教員が学校の実情を反映して選んでいることを前提であがってきていると思うが、そこがはっきりしないところもある。」等、各学校での選定過程への疑問が3名(大森、高尾、林)の委員から出されました。端々に選定に関わる教員への不信がにじみ出ていました。
 そして、大森委員が突然、欠席の西村委員のメールとして「教育委員会の採択の権限をさらに強めるために、今後は各学校からの答申には、各教科書の優劣をつけずにあげてほしい。」とあったことを紹介し、「付帯決議」の動議を提案しました。このような前代未聞の制度改悪の付帯決議に対しても、各教育委員からは強い異論は出されず、すんなりと全会一致で採択されました。その後、各学校の採択も答申通りで採択されました。これは明らかに、今年は答申通り採択する代わりに、来年度の採択からは教育委員会の「お好み採択」を実施する制度を担保するという、事前の合意があったとしか思えません。

◆戦後、大阪市はもとより全国の教育委員会では、高校採択において各学校から選定された教科書を承認してきました。事実上、学校採択が行われてきたのです。それは、高校は教育目標や教育課程、生徒の実態などが小中学校以上に各学校ごとに違い、教科の内容も専門性が高く、従って教科書採択には教科の専門性を有し、生徒の実態にも詳しい学校現場の声が優先されることは教育条理から当然のことでした。
 また、教育委員が1~2ヶ月程度の短期間に何千とある全ての高校教科書を読んで、どれがその学校に最も適しているのか検討することなど現実的に不可能です。教育委員会議でも長谷川教育委員長から「実務レベルの心配」として「教育委員には専門性がないものもいる。5教科以外の教科は難しい問題がある。」と、実質的な調査研究の不可能性が吐露されていました。従って、戦後教育体制に根付いてきた教育条理から言っても、教育委員の物理的な業務としても今回の「附帯決議」は不当なものと言わざるを得ません。

◆そもそも、教育委員会の採択権限を明確に定めた法律はありません。貴教育委員会が根拠としている地方教育行政法第23条6には「教科書その他の教材の取扱いに関すること」とあるだけで、採択権限を明示したものではない。「学校管理機関の職務と校長の職務との関係」を説いた文部官僚も「『教科書その他の教材の取扱いに関すること』という規定があるというだけで、教育委員会が教材の取り扱いに関するいっさいの権限を有すると解するがごときは、お粗末な解釈というべきである。」(『学校教育法解説』(初等中等教育編』1968年)と認めているところです。しかも、学校での授業の具体的内容を最終的に決定する権限、教育課程(カリキュラム)の最終決定権は学校現場にあります。どの教科書を使用するかは、教育課程決定権の重要な要素となり、「教育行政機関」である教育委員会のやるべきことは、「教育機関」である学校現場の選定を尊重して採択を行うことです。教育委員会が、学校で使用する教科書を採択すること自体、行政の教育に対する「不当な支配」(教育基本法第16条)で「違法」です。

◆今回の高校教科書採択制度の変更を求める付帯決議は、これまで守られてきた戦後の教育条理にもとずく学校採択を破壊するものです。全国的にも例がない、前代未聞の事態です。これは、来年度からの小中学校での採択制度にもきわめて大きな影響を与えることは間違いありません。
 是非とも、全国から大阪市教委に「付帯決議」に抗議し、撤回するように声を届けて
ください。

◆抗議先 大阪市教育委員会 指導部高等学校教育担当
tel 06-6208-9189  FAX 06-6202-7055

◆附帯決議

 大阪市立の高等学校において使用する教科用図書に関し、平成27年度使用教科用図書の採択については、教育委員会による適正な採択のための審議の一層の充実を図るため、以下の諸点を含む改革を行うこととし、そのために必要な採択の方式の決定及び教科用図書選定調査会要綱の改正等の所要の措置をしかるべき時期までに講じるものとすること。

1.各学校に置く教科用図書選定調査会は、選定候補として2つ以上の教科用図書を答申書に記載し、それぞれの長所と短所を列記することとし、推薦順位や優劣は示さないものとする。

2.教育委員会は、答申書を参考にしつつ、自ら調査研究を行い、教科用図書を採択するものとする。

3.各学校に置く教科用図書選定調査会による答申と教育委員会による採択の間に、これまで以上に十分な調査研究及び審議の時間を確保するものとする。

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人事委員会口頭審理~山田肇:冒頭陳述~

2013-08-07 16:48:21 | 人事委員会審理

8.6人事委員会口頭審理における「山田肇さんの冒頭陳述」については既に当日配布プリントを掲載していますが、より読みやすいように記事として貼り付けます。また、そのもようを伝える朝日新聞(8/7付)の記事も掲載します。多くの方々に山田肇さんの陳述を知っていただきたいと思います。

冒頭陳述書   2013年8月6日 山田 肇

私は、1975年4月に大阪府・高槻市の小学校教員として採用され、芥川小学校に始まり南平台小学校まで、合計37年間、教師として子どもたちの教育に携わってきました。

私は、教師として、教育の根本は、仏教で言う『諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆(しゅ)善(ぜん)奉行(ぶぎょう)』だと考えてきました。つまり、「悪いことはするな。いいことをしなさい」ということです。また、「悪いことは改める」ということです。それが、子どもたちに言ってきたことであり、また、自分の人間としての生き方にしようと考えてきました。また、国のあり方についても、「いいことを行い、悪いことは改めて進む」のが正しいと考えてきました。

担任をした時は、子どもたちの作文や私の考えを載せた『学級通信』を出してきましたが、6年生の『学級通信』の最後には、子どもたちの1年間のがんばりを誉めたあと、私が子どもたちに“望むこと”として、「一つ一つのことをしっかり自分の頭で考え判断しながら、確かな自分をつくっていってほしい。」と、いつも、書いてきました。私自身も、一つ一つ「自分の頭で考え判断」して生きていきたいと、考えていたからです。

そのように考えてきた私にとって、卒業式や入学式に『日の丸』『君が代』が強制的に持ちこまれることは、正しいことなのかどうなのか?「しっかり自分の頭で考え判断」して、絶対に納得のいくものではありませんでした。

なぜなら、『日の丸』はつねに日本の侵略戦争とともにひるがえり、また、『君が代』は教育勅語、御真影=天皇の写真とともに、天皇制国家をたたえる儀式であった四大節で子どもたちに歌わせ、子どもたちを天皇の『忠良なる臣民』にしたてる歌でした。これが歴史の真実です。

「歴史の真実」に反すること、教育基本法が言う「真理と正義」の立場に反することは、人間として、子どもたちの前に立つ教師として、絶対にできません。

教育委員会と校長は、「法律に従うのが教育公務員だ。」と言います。しかし、日本が朝鮮・中国・アジアに侵略戦争をしたこと、それを進めた天皇制国家、また、戦前・戦争中の教師が、天皇制教育の下、子どもたちを「天皇の忠良なる臣民」にしたてる教育を行い、教え子を侵略戦争の戦場に送ったこと、そして、その教育の大きな道具としてあった『日の丸』『君が代』について、また、それが今なおあり、学校に強制的に持ちこまれていること、いや、先頭になって持ちこんでいることを、校長と教育委員会は、如何に考えるのでしょうか?

私は、処分者である大阪府教育委員会に、上の歴史の真実をいかに考えるのか、4点にわたって釈明を求めました。だが、府教委は、歴史認識、歴史観等について、黙して語りません。それらの「歴史認識、歴史観等について釈明する必要性は認められない。」そして、「国旗及び国歌」は「学習指導要領に規定されている」。「国旗及び国歌に関する法律」で定めている。「大阪府国旗・国歌起立斉唱条例」がある。「以上のことから、『日の丸』『君が代』を卒業式に持ち込むことは間違っているとの申立人の主張は失当である。」と書きます。私は、いずれが「失当」か?「真理と正義」の立場に立つのは、いずれか?と問いたいと考えます。

かつて、西ドイツの大統領ヴァイツゼッカーは、「過去に目を閉ざす者は現在に盲目となる。」と演説しました。過去の歴史から学ばないと、未来はありません。また、ルイ・アラゴンは、「教えるとは、希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸にきざむこと」と詩に書きました。教師が歴史の真実を「誠実に胸にきざ」まないと、子どもたちに「希望を語ること」はできません。

侵略と戦争の旗『日の丸』を仰ぎ、天皇をたたえる歌『君が代』を立って歌うことは、「誠実に」「歴史の真実」に立って子どもたちの教育を行おうと考える私や日本の教師にとっては、絶対にできないこと、譲れない一線であります。

そして、私は、日々、子どもたちに「いい、悪いをしっかり自分で考えて発言したり行動したりするように。」と言ってきました。そう言ってきた私が、『日の丸』『君が代』とは何なのか?を考えず、職務命令だからといって、ユダヤ人虐殺の責任者=ナチス・ドイツのアイヒマンのように「私は命令に従っただけだ。」と言うことは、人間として、教師として絶対できません。『日の丸』『君が代』が「真理と正義」に立ったものかどうかを考えて行動するのは、教師としての『良心の自由』であり、『義務』でもあると考えます。

また、子どもたちを人間としての成長に導くべきはずの教師が、戦前・戦争中は、「人の子の師の名において」教え子を侵略戦争の戦場に送りだし、数多の子どもたちを殺してしまいました。私は、それをくり返してはいけない、『教え子を戦場に送らない』という決意で、『日の丸』と『君が代』が卒業式に強制的にもちこまれることに反対を表明し、『君が代』と同時に、毎年、ささやかに静かに座ってきました。『教え子を戦場に送らない』という決意で、『君が代』で着席することは、教師としての『良心の自由』であり、『良心の義務』にもとづくものであります。この『良心の自由』を憲法第19条は保障しています。

次に言いたいことは、「再任用合格取消」に関してです。私は、昨年3月26日、校長より、2011年度の評価・育成シートの評価を受け、それには、『業績・能力・総合評価ともS』と書いてありました。だが、府教委は、その校長の『S』の評価は「不知」として、3月29日、「適格性が欠如しており、勤務実績が良好でないと判断」したと、合格していた再任用を取り消しました。私の「適格性」と「勤務実績」は、何によって決まるのでしょうか?

私は、南平台小学校に12年間勤務しました。4年生、6年生、2年生の担任をした後、『希望の杜』施設内学級に3年間勤務しました。そして、本校に帰り、6年生の担任、児童・生徒支援加配をした後、『希望の杜』施設内学級に4年間勤務して、2012年3月を迎えました。

合計7年間、教育活動に携わってきた『希望の杜』という施設は、情緒障害児短期治療施設の一つであり、大阪府下に3カ所、大阪市内に2カ所、全国に32カ所しかない施設です。

この『希望の杜』には、親に虐待されたり、ネグレクトにあったりした子どもたちが入所してきます。そして、『希望の杜』から施設内学級に通学してくる子どもたちは、わずか6歳から12歳とはいえ、今まで親や継父、継母等に暴力をふるわれ虐げられ疎外されてきたゆえに、大人に対する不信感を大きく持っています。

また、食べること、安心して生活することすら保障されず、愛情もかけられずに、生きてこざるをえなかったがゆえに、学習する習慣がついていない子どもたちがほとんどでした。だからこそ、一番教育が必要な子どもたちであると考え、子どもたちとの信頼関係を築くことを第一に、『学校を作る』ことをめざして、自分で言うのは、おこがましいですが、日々、“格闘”とも言える教育活動を行ってきました。逆に言えば、私が初めて勤務した時は、およそ『学校』ではなかったと言えます。施設内学級を『学校』にする、『学校を作る』これが目標でした。

今までさまざまな境遇と環境のもとで、学ぶこと、まっすぐ成長していくことを疎外されてきた子どもたちが、学ぶことの喜びを取り戻し、少しずつ成長していっていることを自分で確かめ、子どもたちが学び成長する場、『学校』をつくろうと、①基本的な学習の習慣をつくる・・・毎日、机にすわり落ち着いて自分の課題に取り組む。②読み・書き・計算の基本的な力をつける。③やればできることの喜びと自信の獲得・・・その子にあった課題を個別指導し、今、できないことが、少しずつやれば着実にできていく喜びを、あるいは、ゆったりとでも、やりつづければ必ずできていく喜びを実感できるようにしていく。そして、生きていくうえで、人間として「あたりまえのこと」を身につける。また、みんなで一つのことに取り組む。これらを目標としてやっていきました。

しかし、その施設内学級では、教師の指示がなかなかすっと入りません。机に座らず、教室から出て行く等の行動も日々ありました。また、注意すれば、教師に対する反発・暴言・暴力も数多く返ってきました。そういう行動に対応しながら、粘り強く、そして、それらの行為に対して、妥協せず、間違っていることは注意して、子どもたちとの信頼関係をつくりながら、『希望の杜』の施設の職員の方々と連携しながら、7年間、教育活動を行ってきました。

子どもたちの力になれているかと、日々、自問自答しながら、自立するための学力や生きていく力をつけてほしいと願って、教育活動を行ってきました。そして、あと1~2年、『希望の杜』で子どもたちに関わりたいと再任用を申し込み、2月16日に合格通知を受けていました。

だが、その希望の杜施設内学級での私の「勤務」についてはもちろん、「勤務実績」について、『答弁書』は、一切ふれていません。教師としての私の教育活動を見ずして、府教委は何を見て、私の「適格性」と「勤務実績」を判断したのでしょうか?

私の「適格性」と「勤務実績」はすべて、『君が代』の50秒で決めるということでしょうか?

歴史の真実を「誠実に胸にきざ」み、「自分で考え」た結果として、教師としての『良心』、人間としての『良心』に従って、『君が代』を立って歌うことはできないと、静かに座ること。これは、「歴史観ないし世界観」であり、『思想・良心』の内容を形成すると、最高裁も認定しています。そして、宮川裁判官が言われたように、『君が代』不起立は「思想及び良心の核心の表出」であります。この『思想・良心の自由』が、大阪府の教員には保障されないとする、大阪府にしか存在しない「国旗・国歌起立斉唱条例」は、憲法に違反していないのでしょうか?江戸時代のキリシタン弾圧の『絵踏み』のようなことが、大阪ではまかり通るのでしょうか?

そして、「再任用合格取消し」という通知は、最高裁が取り消した「停職1ヶ月」の処分をはるかに越えて、最大・最高の重い処分であります。なぜなら、「再任用合格取消し」は、私の教育活動を断ち切る免職そのものだったからです。最高裁が、「慎重な配慮が必要だ。」としたにもかかわらず、「停職」よりはるかに重い最大の「不利益」である私の再任用合格取消、すなわち、免職は、大きく府教委の「裁量権を逸脱濫用した」ものであります。

また、私の戒告処分は、高槻市の5人の教育委員会議において承認されておらず、その「内申」がないというのは、地教行法に違反する処分です。教育長は「法令の根拠」もなく、教職員を「専決」で「処分」していいと府教委は『答弁書』に書きますが、とんでもありません。

以上のことを鑑み、当人事委員会が、「戒告処分」と「再任用合格取消」の撤回という裁決を下されることを強く要望する次第であります。以上で、冒頭陳述を終わります。  

朝日新聞[2013年8月7日付]         

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