島根県松江市教育委員会が昨年12月「はだしのゲン」の閲覧を制限する措置を取ったことが判明しました。現在、多くの人々がこの問題をゆゆしきことととらえ、マスコミもネット上でも大きな関心事となっています。
信じられないようなことが起こっていると思う一方で、これは氷山の一角でもあり、それを支持する人もそれなりにいるのはないかと言う思いもありました。
悲惨なものを子どもには見せたくはない―その思いはわからなくもありません。しかし、悲惨ではない戦争など存在しません。ならば、私たちが戦争を記憶するということは、その悲惨さにおいて他ならないのです。戦争体験者は、口をそろえて言います。「二度と繰り返したくはない」と。ところが、若い人に聞いてみると、「戦争は嫌だけれど、場合によっては仕方がないと思う」そんな風に答える人が結構します。つまり体験者が戦争を絶対否定することに比して、相対的にしか戦争を考えないのです。私たちは、もっと「悲惨さ」を知らなければならないのです。漫画・映画・書籍等のあらゆる芸術を通して戦争とはいかなるものか伝えなければならないはずです。
また、今回の問題を視点を変えてみると、教育委員会は子どもの知る権利を奪っているとも言えます。子どもが歴史や戦争を知る権利を阻害する権利はだれにもないはずです。教育委員会(教育行政)の権限を逸脱している行為と言えます。
それに、現場の教員は声を発することはできなかったのでしょうか。それも大きな問題です。
最後に、どうも気になるのは、この問題に限らず、「慰安婦」問題をはじめ、戦争の責任があいまいにされ、その一方で子どもたちに「愛国心」教育が必要がという声が一体なぜ起こるのかということです。
戦争の世紀と言われた20世紀を経て、今なお戦争は続いています。誰もが「戦争反対!」と願っているのに。とすると、戦争を必要としている人々が間違いなく存在するということです。それは経済的な利得であったり、政治的な権力志向であるかもしれません。また、ある種の浪漫的な自己実現を願う若者であったり。なぜ、戦争が続いているのか、続けられているか、そのことを捉えない限り、ヒューマニズムだけで戦争を否定しても現実には抵抗できないように思います。
私たちの闘いは、戦争を必要としている勢力の魂胆を明らかにしていく作業を必要としているのかもしれません。
参考 日経新聞web版より
「はだしのゲン」を閲覧制限 松江市の小中学校
市教委が表現を問題視
松江市教育委員会が、原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」を子供が自由に閲覧できない「閉架」の措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことが17日、分かった。
市教委によると、首をはねたり、女性を乱暴したりする場面があることから、昨年12月に学校側に口頭で要請。これを受け、各学校は閲覧に教員の許可が必要として、貸し出しは禁止する措置を取った。
市教委の古川康徳副教育長は「作品自体は高い価値があると思う。ただ発達段階の子供にとって、一部の表現が適切かどうかは疑問が残る部分がある」と話している。
市民から昨年8月、作品の歴史認識をめぐって学校の図書館から作品の撤去を求める陳情があり、市議会は同12月に不採択とした。ただ、市議会で「大変過激な文章や絵がこの漫画を占めている」という意見が出たことから、市教委が取り扱いを検討していた。
はだしのゲンは、昨年12月に亡くなった漫画家中沢啓治さんが自身の被爆体験を基に描いた作品。ロシア語や英語、中国語などにも翻訳されている。〔共同〕