中原教育長の口元チェック通知がマスメディアを通して全国的に物議を醸しています。卒業式で教員が「君が代」を本当に歌っているかどうか、校長が教頭や事務長に命じて口元をチェックさせよと言う通知です。若い友人は、あまりのバカバカしさに笑ってしまったと話していました。しかし、私は笑うことは出来ません。危惧した通りにことが進んでいることに暗澹たる思いです。何を考えているのかわからないとんだお笑い種だと見過ごすわけにいきません。
教員への「君が代」起立強制の次は、必ずや斉唱が強制されるだろう、そしてその次は子どもたちへ斉唱が求められるようになる、私たちが危惧したように事態は進んでいます。処分されることがわかっていながらそれでも「君が代」強制に不服従を貫いたのは、まさにこのような事態を憂えてのことでした。
なぜ、そこまでして「君が代」を子どもたちに歌わせたいのか?そこにこそ、「君が代」問題を解く鍵があります。
学習の自由や権利、働くことの自由や権利が奪われた時、人が最後に依って立つところを求めるのではないでしょうか。人は誰でも自己承認を求めます。日常に生活のなかで、学校や労働の場で自己承認が得られぬ状況において、排外的な思想の元に、「だってボクらは日本人だもの」「それでもワタシら日本人」の括りの中で「お国」への帰属意識が最後の砦となります。「愛国」教育の危険は個々人の自由と権利を犠牲にさえする思考停止状態に人を陥れます。
為政者にとって、「君が代」をはじめとする国家主義的ツールは実に便利な道具というわけです。国民が国家を批判することなく、自ら従属してくれるのですから。しかし、これほど危険なことはありません。歴史を見れば明らかなように、国家は国民を裏切り暴走することがあるのですから。
しかし、そこまでのことを想像しなくとも、人を信ずることが礎にある教育の場で、人間の尊厳を損なうかのごとく、歌っているかどうか口元をチェックすると言う、そのおぞましさに身震いさえして来ます。
下記は本日付(9月21日)朝日新聞天声人語です。
歌い手が録音に合わせて口だけ動かす。俗にいう「口パク」である。オバマ大統領の2期目の就任式で、歌手のビヨンセさんが披露した米国歌がそうだった。北京五輪の開会式での「天使の歌声」もそうだった。音楽業界では珍しくないらしいが、それが学校の入学式や卒業式という場であったらどうだろうか。
大阪府教委が府立高校に通知を出した。式で君が代を斉唱する時、教職員が本当に歌っているかどうか、「目視」で確認せよ、と。去年、府立和泉高で校長が教員の口の動きを監視させ、物議を醸した。その校長が教育長になり、全校に広げる。
式場で教頭らが目を光らせ、歌っていない者がいたら、名前を府教委に報告する。判断の基準は形式的な「口元チェック」ではなく、「公務員として誠意ある態度かどうか」だという。漠然とした話だ。
例えば「感極まって歌えなかった」場合は目こぼしになるかも知れないという。そんなことまで考える情熱があるなら他のことに注いではと思う。自主性が大切と普段から説いてきた先生が、信念を封じて口パクをする。想像したくない光景だ。
起立斉唱を義務づける条例がある以上、守るのは当然と考える人も少なくないだろう。だが、君が代をどう考えるか、歌うかどうかは個人の思想・良心の自由にかかわる。最高裁も去年の判決で教員へのいきすぎた処分に釘を刺している。
先生がお互いに監視しあう。教育の場が荒廃しないか。多感な生徒の心に暗い影を落とさないか。