「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「関ケ原」と「狼の牙を折れ」

2024年05月30日 | 読書コーナー

        

ミステリーもいいが、やはり「ノン・フィクション」は現実味と迫真性があって捨てがたい面白さがある。

☆ 「関ヶ原」(岡田秀文著、双葉社刊)

日本の歴史を大きく左右した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、司馬遼太郎さんの名作「関ヶ原」をはじめ沢山の著書があって枚挙にいとまがないし、あらゆる史実が公にされているので「今さら関ヶ原?」の感はどうしても拭えないがそういう中であえてこの題材を取り上げた著者の勇気に刮目(かつもく)


「よほどユニークな視点からの“関ヶ原”だろう」と、興味を持って読み進んだが期待にたがわぬ内容だった。

戦場の荒々しさを期待すると完全に裏切られるほどの静かな物語といっていい。

とても大きな事件が起こっているようには感じられないけれど、時勢は確実に「どこか」へ転がっていく。その先は誰にもわからない。今でこそ「東軍が勝利する」と後世の人は分かりきっているが、当時の関係者たちはまったく勝敗の予断が付かなかった。

「戦いは実際にやってみないとどっちに転ぶか分からない。果たして、どちらに組すればいいのか、どういう行動をとればいいのか」、自分の生命はもちろん一族郎党の行く末を案じて当時の武将たちの言動は文字どおり必死で命がけの極限状態だった。

徳川家康(東軍)、石田光成(西軍)、寧〃(ねね、秀吉の正室)、西軍を裏切った小早川秀秋をはじめ当時の関係者たちの切迫した心理がまるで実在する人物のように生き生きと克明に描かれている。

さらに、迷いに迷っても思惑通りに事が運んだ人は結局皆無だったという視点が実に鮮やか~。

結局、思惑がはずれながらも挽回する思慮深さと流れを読むに長けた家康の存在感が全編を通して際だっている。


歴史にイフ(IF)は禁物だが、関ヶ原の戦いほどイフの魅力が横溢する事件はないといっていい。

とにかく、戦国物を読むといつも思うのだが敗者への残酷な仕打ちを見るにつけ つくづく平和な時代に生まれて良かった、どんなことをしても
命までとられることはないからねえ・・

オーディオごときに悩むのがアホらしくなりますなあ~(笑)。


☆ 「狼の牙を折れ」~史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部~(門田隆将、小学館刊)

今から50年前の1974年8月30日に起きた三菱重工本社前(東京丸の内)の爆破事件の記憶は年齢からしておよそ70歳以上の方々にはまだ残っているに違いない。

死者8人、重軽傷者376人もの被害を出した大参事だったが、これは11件にも及ぶ連続企業爆破事件の嚆矢(こうし)に過ぎなかった。

本書はこの犯行声明を出した「東アジア反日武装戦線”狼”」の正体に迫る警視庁公安部の活躍を描いたもの。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるが文字どおりそれを地でいく様な内容で、当時の捜査官が次から次へと実名で登場し、地を這(は)う努力のすえに犯人を追い詰めていく模様が、まさにサスペンスドラマを見ているような迫力がある。

皆目手がかりがつかめない中、声明文の内容を細かく分析することにより思想的な背景が明らかにされ、アイヌ問題などを通じてじわじわと犯人の影が炙り出されるわけだが、その “きっかけ” となったのが「北海道旅行をしていた二人組の若者たちの手荷物(爆弾在中)を何気なく触った旅館の女将が(若者から)ひどく叱られた」という人間臭い出来事だったのも非常に興味深い。

また、手柄を立てた捜査官たちの生い立ちなども詳しく紹介され人物像の彫り込みにも成功している。

貧しい家庭に育ち、大学に行きたかったが家庭の事情でやむなく進学を断念して巡査になったという人たちがほとんどで、「同じ人間に生まれて、どうしてこうも違うのか」という世の中の矛盾を嘆きつつ「親の脛をかじりながら学生運動に身を投じる学生たちが許せない存在」に映るのも仕方がないことだろう。


また、容疑者たちの行動や仲間を把握するためグループに分かれて慎重に尾行を繰り返していたものの、絶対に気付かれていないと思っていた尾行が、逮捕後に犯人たちが(尾行には)全て気付いていたと自供したのもご愛嬌。

そりゃあ、脛に傷を持つ人間が尾行に気が付かない方がおかしいよねえ(笑)。

結局、この事件で逮捕されたのは7人。しかし、その後のダッカ事件などで3人が超法規的措置として海外に逃亡、死刑が確定した2人も、海外逃亡犯の裁判が終了していないとの理由で刑の執行ができないでいる。

そして、半年ほど前のこと指名手配されていた「桐島 聡」容疑者が末期ガンで病院に入院して死亡していたことはまだ記憶に新しいですね。

小さな建設会社に勤めながら 気さくな人物 として市井に溶け込んでいたが、結局は長年の心労がたたったせいで病気になったのだろうか・・、「せめて最後は 桐島 聡として死にたい」と病床で素性を明かしたそうだが、いくら若気の至りだったとはいえ言葉が無いですね・・。



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「教師の質の低下」そして「出世を決めるのは能力か学歴か」

2024年05月24日 | 読書コーナー



「こんなに使える経済学」(大竹文雄編、ちくま新書刊)
   

本書は現実のさまざまな社会経済問題(27本のテーマ)を経済学の視点で一般の人にも分かるような記述方法で紹介したもの。そのうち読者の興味がありそうな2本をピックアップしてみた。

☆ 教師の質はなぜ低下したのか

(個々の先生の中には当然のごとく優秀な方もおられるだろうが、あくまでも一般論ということなので悪しからず。)

公立校の教育レベルが下がり、学力低下を心配した親たちが、子供を私学に入れようとして小、中、高等学校への受験熱が高まるばかりという。

≪都会で進む公立不信≫

こうした私学ブームは特に大都市圏に見られるようで、その背景の一つにあるのは「教師の質の低下」である。

わいせつ、万引きなどの問題教師は論外だが、平均的な教師の(教える)レベルも落ちてきているそうだ。

教師の質の低下は実は米国でも大きな問題になってきた。その原因として経済学者たちが指摘してきたのが1960年代から始まった「労働市場における男女平等の進展」である。

どうして、女性の雇用機会均等が教師の質を低下させるのだろうか?

かっては米国の労働市場でも男女差別が根強く存在し、一般のビジネスの世界では女性は活躍できなかった。このため、学業に優れた大卒女性は教職についた。つまり、学校は男女差別のおかげで優秀な女性を安い賃金で雇用できた。

ところが、男女差別が解消されてくると優秀な女性は教師よりも給与が高い仕事やより魅力的な職種を選べるようになり昔に比べて教師になる人がはるかに少なくなった。

ここで、「男性教師もいるではないか」という反論が出てくるが、教師の採用数が一定だとすれば優秀な女性が集中して教師を希望していた時代よりも、
優秀ではない男性が教師になれるチャンスが広がる結果
となり、レベルの低下は否めないことになる。

そして、もう一つの反論。

「教師になる人は子供を教えたいという情熱を持った人ばかりなので経済的動機ぐらいで志望を変えるはずがない」。


これに対しては、高校時代(教師になりたい人は高校時代の終わりに教職系を志望する)の成績と教師になった人たちの詳細な関連データによって経済学的な検証(省略)が行われ、教師といえども収入や待遇などのインセンティブに基づき選ばれる職業の一つであることが証明される。

この分析が日本においてもそっくり当てはまるという。

日本では小中学校の教師の多くが教員養成系学部の出身者である。これらの学部の難易度を調べれば教師の質が変化してきた原因をおよそ推定できるが、90年代以降全国的に平均偏差値がずっと低下してきている


次に、男女間賃金格差と教員養成系学部の偏差値の相関も高いことがわかった。

つまり地方では現在でも優秀な女性が働ける職場の絶対数が都市部に比べて不足しているので女性教員の質の低下、ひいては全体的な質の低下が少なくて済んでいるが、都市部では女性の雇用機会の改善が急速に進みそのことが教員の質の低下を促進している。

結局、「教師の質の低下」は「労働市場における男女平等」に起因しているとみるのが経済学的思考による一つの解答となる。

さらにもう一つのテーマを挙げてみよう。


☆ 出世を決めるのは能力か学歴か

毎年のごとく春先になると、週刊誌がこぞって出身高校別の難関大学合格者数のリストを掲載する。目を通す人が多いのは、やはり大学受験の成否が人生の一大事だと思うからだろう。

ただ、その一方、「実社会においては学歴や学校歴による能力差がさほどあるわけでもない」ということも、多くの人が日々実感していることではあるまいか。

実際のところ、出身大学によって出世はどのくらい左右されるのだろうか。経済学はこうした問題に対しても科学的なアプローチで解明を進めている。

現状分析~学歴と年収の相関~

アメリカ・テキサスA&M大学の小野浩助教授によるサンプル調査(日本人570人)によると、学歴と年収の相関は次のとおりになっている。

サンプルの平均値である偏差値52の4年制大学の卒業生は高卒に比べて年収が約30%高い。次に偏差値62の大学の卒業生は約42%も高くなっており、明らかに両者に相関関係が認められる。

ここで自然に出てくるのが次の疑問。

高い偏差値の大学を出た人の年収が高いのは、「大学名のブランド」のせいなのか」それとも「教育内容や個人の能力が優れていたおかげで高い実力を身につけたためか」。

この疑問に対して本書では具体的に「東大」を例に挙げて検証が進められた結果、
概ね「官庁は学歴主義、民間は能力主義」が裏づけされる形となった。

最後に、ブログ主の感想を言わせてもらうと個々の人生にとって肝要なのは学歴なんぞに左右されずに「幸せ感に満たされているかどうか」に尽きると思うが、実はこれがなかなか難しい(笑)。

ふと、僧侶の玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんの言葉「幸せと楽の違い」が蘇った。

「幸せ」は「お金」「長寿」「愛情」などに左右され、求めてもきりがない。常に目標が上方修正され「幸せ」を感じ取る暇がない。

一方「楽」というのは「安楽な状態」でわかるように身体状況を伴い、「足るを知る」という感情面での基盤も重要となるので限度がある。

そして、僧侶は年をとるほどに深い「楽」を味わい、最も円熟するのは、死ぬ間際なのだと思考している。

結局、煎じ詰めると「身体の健康と心の健康がいちばん」ってことですか~(笑)。



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夢の正体 そして 趣味を楽しみ尽くす

2024年05月12日 | 読書コーナー

明け方近くになって、ときどき おかしな夢 を見る。

たとえば「クルマで坂道を登っているのに逆に下がり続けてブレーキを踏んでも止まらない」という冷や汗が出るシ~ン、さらには「療養を終えて職場に復帰したところ、見知らぬ顔ばかりで自分の机さえもない」、こうなるとほんとうに心臓に悪い・・(笑)。

「どうしてこんなに重苦しい夢を見るんだろう」というのが長年の疑問だったが、それに終止符を打てそうな本に出会った。



期待しながらざっと一読してみたが、専門家向きの内容みたいでとても歯が立たなかった。

とはいえ、分かったことが一つ。つまり「夢に関してはまだ未解明のことばかり」ということだった。たとえば106頁。

1 脳はどうやって夢を生み出すのか

2 夢にはどんな役割があるのか

3 その役割を果たすために、なぜ夢を見なければならないのか

答えはこうだ。「すべて、わからない」。

終わりに男女を含めて「今まで見たことのある典型夢の順番」というのがあった(182頁)。

1 追いかけられるが無事だった夢

2 性的経験の夢

3 学校/教師/勉強の夢

4 落下する夢

5 遅刻する夢(列車に乗り遅れたなど)

6 生きているはずの人が死んでいる夢

7 落ちる寸前の夢

8 空を飛ぶ、あるいは空高く上昇する夢

9 試験で失敗する夢

10 何度も試みるがうまくいかない夢

これらからおよそ類推できるのは「日頃から抑圧された感情」が元になった夢が多いということで、これで「楽しい夢」が少ないことにも頷けそうだ。

そして、次の本はこれ。



読んでいてとてもご機嫌になれる本で一気読みしてしまった。こういう本は極めて珍しい。


小説家、逢坂剛、80歳。

直木賞をはじめ数々の受賞歴を持ち、小説家として第一線で活躍し続ける一方、フラメンコギター、スペイン語、古書収集、野球、将棋、西部劇などの映画に精通し、多芸・多趣味でも知られる。

ユーモラスで温厚な人柄から、敬意と親しみを込めて「剛爺(ごうじい)」と呼ばれる小説家の<上機嫌生活>指南書。

人生100年時代。仕事も趣味も楽しみ尽くして、日々を機嫌よく過ごすためのヒント満載。

次は目次の一部。

第一章 画家の父、母の早世、二人の兄
~探求心は職人気質の父から、勉強は秀才の長兄から、遊びは多趣味の次兄から学ぶ 

「小説家」の原点は画家の父/母の思い出/六畳一間の男四人暮らし/兄二人から教わったこと/好きなことにお金をつぎ込む癖/ふるさとは神保町

第二章 ハメットと出会った十代、開成での六年間、ギターまみれの大学時代
~自主性を学生生活から、創作姿勢をハメットから、修練の達成感をギターから得る

自主性を学んだ開成時代/「文才があるね」。背中を押した教師のひとこと/ハメットという衝撃/英語が上達したわけ/第三志望の男/法曹界を目指しかけるも……/ギター三昧の大学生活/探求の楽しみを知る

第三章 PRマン時代、スペイン
~第三志望の就職先でも、知恵と工夫で仕事は面白くなる

再び、第三志望の男/楽しみを見出す、つくり出す/趣味道楽こそが本業なのだ/初めてのスペイン、一生の出会い/どんな仕事も面白がる

第四章 二足のわらじ、直木賞受賞、サラリーマンと執筆と
~会社員と小説家の兼業をこなす中、生涯書き続ける決心をする
会社員生活の傍ら、小説執筆を再開/プロの感想を聞きたくて/“兼業作家"としてデビュー/無理なく続いた「二足のわらじ」/自分にとって最適なリズムで/オリジナルをとことん楽しむ

第五章 多彩、多芸、鍛錬と開花、幅広い交友
~好きな街に身を置き、リズムとリフレッシュを交え仕事と長年の趣味に没頭する
日常に、文化の薫りを/永遠のマイブーム/リズムとリフレッシュ/趣味はいつでも見つけられる/愛しの古本コレクション/オーダーメイドの楽しみ/逢坂流・語学上達のこつ/五十を過ぎて、野球チームを結成/いつまでも動ける体を維持する/趣味仲間とディープに交流する

第六章 “終活"より“修活"だ!
~断捨離するより愛着品を楽しみ尽くし、争いごとは遠ざけて、上機嫌で過ごす
好ききらいに忠実に/一番の刺激は、がんばる同世代/終活? まっぴらごめん!/シャープの〈書院〉よ、いつまでも/話術はメモから/不便から学ぼう/DIYの楽しみ/夫婦共通の趣味は食べ歩き/まだまだ捨てたもんじゃないぞ、街中の人情/若き編集者に出した“宿題"/調べずにはいられない!/機嫌よくいる。それが一番/争いごとを引き寄せない/年をとったら兄弟仲よく/一生勉強!(いや、道楽気分)/一度きりの人生、好きなことを

以上のとおりだが、母親の早世、人生の岐路となる大学受験、そして就職試験と失敗を繰り返しながら、いっさいめげずに前向きに取り組む姿勢に感心するし、損得を抜きにして「好きなことに一生懸命打ち込む」ことに大いに共感を覚えた。

「趣味を楽しみ尽くす」まさにそのとおり!

「負けてはおられないぞ」と、勇気百倍!(笑)



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事実は小説よりも奇なり~「死に山」~

2024年05月06日 | 読書コーナー

ようやく今日(6日)で長かった連休も終わりです。

温泉観光地・別府の宿命とはいえ、県外ナンバーの車による渋滞も終わるので営業関係者には申し訳ないが内心ではほっとしています。

で、連休に入る直前のブログ「本のお薦め」(4月27日付)の中で紹介したように、この期間中は家にこもって、日頃にもまして「読書三昧でいこう」と、書いてたのをご記憶でしょうか。



このうち、とりあえず3冊を読了したがいちばん面白かったのは「死に山」だった。ぜひ皆様方にもご一読をお薦めしたいので中身に分け入ってみよう。

本書は「ノンフィクション」である。表紙の副題にあるように「世界一不気味な遭難事故」「ディアトロフ峠事件の真相」とある。

概略はこうである。

「1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム九名(ウラル工科大学在学生)はテントから一キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。

氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。三人は頭蓋骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。

最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ――。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。

彼が到達した驚くべき結末とは…!」

どうです! ちょっと興味をそそられませんか・・。

何しろ「全員死亡」しているので、最終的な真相は「憶測」以外の何物でもないが、要は「科学的説明がつくかどうか」の一点に絞られる・・、そして、本書は見事にその着地に成功していると見た。

読者レヴュー(ネット)から一件だけ借用させてもらおう。

「原作タイトルは「dead mountain」。草木が生えていない山という意味。日本語タイトルは売れ行き狙いのひねったタイトル。よくない。

ドキュメンタリーの書き方は素晴らしい。1959年と2012-2013年を一章づつ割り当てて、交互に関連させながら記述していく。冷静な筆致で、そのためにぐいぐいと引き付けられる。日本の本ではこんなきちんとしたノンフィクションはない。実に面白かった。

事件内容
1959年の冬、ウラル工科大学の学生とOBがウラル山脈北部のオトルテン山に登るため出発し、2月1日、ホラチャフリ山(dead mountain)の東斜面でキャンプした。その日の夜、何かが起こり、全員死亡した。

最終的にテントは見つかったが、テントには内側から切り裂かれた跡があり、誰一人、テントにはいなかった。遺体はテントから1.5kmほど離れた場所で見つかったが、それぞれ、ロクに服を着ていなかったし、ほぼ全員が靴を履いていなかった。4人は低体温症、3人は頭蓋骨骨折などの外傷で死亡していた。一人は舌がなくなっていた。一部の衣服からは異常な濃度の放射能が検出された。ディアトロフはリーダーの名前。


様々な仮説
1.マンシ族による攻撃。
事件の起こった頃、マンシ族はそのあたりに居住していなかった。また、ホラチャフリ山には獲物がなく、近寄らなかった。平和な人々で、捜査活動に最初から協力した。この仮説は最初に否定された。

2.雪崩
斜面の傾斜角は16度で、雪崩の起こる確率は非常に少ない。テントは発見された時、立っていたし、この仮説も否定された。

3.強風
一人か二人、外に出た時に吹き飛ばされたので、それを他のメンバーが助けに出た。この仮説ではなぜ全員がテントの外に出たのか、誰も靴を履かなかったのか説明できない。テントを切り裂く必要もない。

4.武装集団
一行の持ち物は後に確認すると、ほとんど何もなくなっていなかった。三人の遺体に激しい損傷があった点は崖(高さ7m)から落ちたことで説明される。舌がなかった点は雪解け水による腐敗現象と思われる。

5.兵器実験
同時期に「光球」が目撃されている。これは2月初めという証言だったが、2月17日と推定されるので、この仮説は否定される。

6.放射線関連の実験
衣服についていた放射能は異常というレベルではなかった。冬の核実験でウラル山脈に到達したことも考えられる。この仮説も否定された。
最後に謎を解くのは、NOAAの気象科学の専門家である。今はポピュラーな現象だが、この当時は知られていなかった。これ以上、書くと良くないので、これで終了。

以上のとおり、簡にして要を得たレヴューです! これでわざわざ本書を読まなくても内容を把握できたことでしょう。

で、問題は最終的な真相(科学的な仮説)をここで明らかにするかどうか・・、ハムレットみたいに悩みますな~(笑)。

そして、これは日頃の個人的な思いだが、他人のブログを読んでいて いちばん腹が立つ のは「肝心なことは明らかにせずに、もったいぶった書き方」をしていることに尽きる!

したがって、このブログもこの轍(てつ=わだち)を踏むわけにはいかないでしょうよ(笑)。

したがって、真相を明らかにしておくことに決めた。

ただし、もし本書を読みたいという方がいらっしゃるのであれば、ここから先は読み進まないようにね~(笑)。

で、その真相とは・・。

何よりもテントの設置場所が悪かった。冬のウラル山脈は想像を絶するほどの強風が吹きつける。周囲の地形(小高い二つの山に囲まれていた)により、何と「超低周波音」が発生し、それがテントにも盛大に押し寄せた。

恐怖に捕らわれた学生たちは取るのもとりあえず、全員が真っ暗闇の雪原にほとばしり出た。そして、あるものは道に迷って雪原の中に埋まり、あるものは崖から落ちて重傷を負った。そして全員が死亡した・・。

というのが、本書による種明かしだった。個人的には納得です。それ以外に科学的な説明はつかないと思う。

周知のとおり、人間の耳の可聴周波数帯域は「20~2万ヘルツ」である。

20ヘルツ以下の「超低周波音」・・、低音の「お化け」ですぞ! 聴いたことはないがやはり不気味ですねえ。

オーディオシステムにも むやみやたら に低音を求めると精神に異常をきたす恐れがあるのでどうかご用心を~(笑)。



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本のお薦め

2024年04月27日 | 読書コーナー

さあ、今日(27日)から胸躍るゴールデンウィークです。とはいえ、ブログ主は 毎日が日曜日 の人間なので、普段と変わりなしですが(笑)。

むしろ、温泉観光地なので県外からどっと観光客が押し寄せてきて、道路が渋滞するのでかえって迷惑・・、そこで、期間中は 読書三昧 で行くことにしました。

さて、ミステリー作家「宮部みゆき」さんは「蒲生邸事件」を読んでからずっと気になっている存在。

その宮部さんが「読売新聞」日曜版(2015~2019)
に連載されていた「お薦め本」をまとめた「中公新書」がこれ。



ブログ主が ぜひ読んでみたい と思った本をメモしてみた。

☆「闇からの贈り物 上下~あっぱれ!新米女性刑事」(ジャンバンコ)

発端は幼い子供を含めた一家4人惨殺というショッキングな事件。しかも捜査が始まるとすぐに不穏な事実が判明する。被害者家族の夫と現場に残された物証から浮上した第一容疑者と彼の雇った弁護士は過去の未解決事三少年誘拐事件の被害者とその遺族だったのだ・・。主人公の女性刑事の人物造形が素晴らしい!

といった調子。

☆ 「音と身体のふしぎな関係」(ホロウィッツ)

「耳とは何かを考えてみよう。耳は分子の圧力変化を感知する器官だ。私たちは耳が音楽や車のクラクションを聞くことを想像しがちだが、耳が真に 気づいている のは振動である」~中略~

たとえば、映画「ジョーズ」のあまりにも有名なメインテーマ。あの低音の心拍のような曲が流れると、映画の内容を知らない人でさえ何か不穏なものが現れそうだと感じるのはなぜだろう。それはね、あの曲が よりにもよってチューバで演奏されるからなのです。

チューバは非常に低い音を出せる楽器で、生体力学的進化論ではより低い音はより大きな音を意味する。生物が つがい の相手を探す場合は大きな声を出せる個体は好ましい対象になる、ただしそれ以外の場合では大きくて低い声を出す動物は、貴方より大きな 何ものか であって、だからあのテーマ曲を聴くと、私たちは本能的な警戒感を喚起されるのだ・・。

ブログ主から

より深い低音の持ち主は女性にもてそうですね・・(笑)、さらにオーディオシステムでも本格的な低音を出そうと思ったら、スピーカー(ユニット+箱)がどうしても大きくなりますよね。他家でも本格的な低音を聴かされると、まず「恐怖心or警戒心」が先に立ちます・・(笑)。

ほかにも、本書には読んでみたい本がたくさん紹介してあって、昨日(26日)図書館に行って「在庫」分を借りてきました。



そして、もう一冊紹介・・。

☆ 「大楽必易(たいがくひつい)~わたくしの 伊福部 昭 伝~」



「大楽必易 大礼必簡(たいがくひつい たいれいひっかん)」とは,中国の古典『礼記(らいき)』の言葉で、「すぐれた音楽がわかりやすいものであるように、すぐれた礼儀は簡素なものである」という意味です。これを常に自身の戒めとしていたのが 伊福部 昭(いふくべ あきら) という作曲家です。」

音楽評論家にして慶応大学教授の「片山杜秀」(かたやま もりひで)氏の、これは たいへんな労作 だと思う。

作曲家「伊福部 昭」(いふくべ あきら:北海道)といえば、何といっても往年の名画「ゴジラ」のテーマ音楽で知られている。

ほら、中高年にとって「ジャジャジャッ、ジャジャンッ・・」と畳みかけてくるような音楽を聴くだけで、途方もない大きな怪獣が現れてくるような予感に襲われます、そうまるで「ジョーズ」のような・・(笑)。

本書は片山氏が若いころから謦咳(けいがい)に接された伊福部氏の音楽家としての生涯に言及したものだった。

音楽好きにとっては興味ある事項が満載。

たとえば・・

「バルトークの近代的自意識は鼻持ちならない、ストラヴィンスキーにはそれがない、そこがいい、バルトークの嫌いな人間はストラヴィンスキーが好きで、その逆も真である。両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」(伊福部氏 談)

といった調子~。

で、調子に乗ってブログ主から・・、

「バッハの線香臭さは鼻持ちならない、モーツァルトはそれがない、そこがいい、バッハの嫌いな人間はモーツァルトが好きで、その逆も真である。両方好きな人間がいれば、その人は虚偽である」 アハハ・・。

著者は「あとがき」の中で、伊福部氏をモーツァルトに比肩しうる作曲家として礼賛されている、だがしかし・・、冷静に見てどうなんだろう?

代表作とされる「シンフォニア・タプカーラ」「日本狂詩曲」を「You Tube」で聴いてみたが、どうも「?」だった。

己の感性が貧弱なのかもしれないが、何だか「映画音楽」っぽいなあ・・(笑)。

ふと「コルンゴルト」(1897~1957)という作曲家を思い出した。オペラ「死の都」のアリア「マリエッタの歌」は絶品だと思うが、幼少のころからモーツァルトの再来と謳われたものの、大戦後に生活のため映画音楽に手を出してから次第に評価が下がっていった。

作曲するときに映像に縛られてしまう癖がつくと、(作曲に)必要なイメージを湧き起こす才能が枯渇していくのではあるまいか。

本格的な 音楽の創造 を目指そうとするなら、作曲家は(映像付きの)「映画音楽」とは共存出来ないと思うのだが、どうなんだろう・・。

「眼と耳の優先順位」にも関わってくる問題だが、広くご意見を求めたいと思います~(笑)。



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「耳トレ!」を読んで

2024年04月15日 | 読書コーナー

どうやらようやく下火になりましたね・・、コロナ。

国際的な交流が容易になり、どういう疫病が蔓延するかわからないご時世では個人ごとの「免疫力」がいちばん頼りになるので「適度な運動とリラックス」は日常生活の上で必須ですね。


リラックスといえば我が家では「音楽&オーディオ」に尽きるが、そういう輩にとって「耳が遠くなる」ことほど悲しいことはない。

自分などは、そうなるともう死んだ方がマシとさえ思うが、悲しい現実として
聴力は20歳ころをピークに徐々に低下しはじめていき、65歳以上の4人に1人、75歳以上の2人に1人は補聴器が必要な状態だ」と、ショッキングな書き出しで始まるのが本書の「耳トレ」である。

                      
 

自分なんぞは年齢からしてよくもまあこんな耳でオーディオを楽しめるものだと我ながら感心するが、いまだにもっと「いい音を」という欲求が尽きないのだからおそらく読者から見ても 呆れかえっている人 が多いことだろう(笑)。

さて、大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に ”ため” になる本だった。

以下、とりわけ興味を引いた点を自分のために忘れないように箇条書きスタイルで整理してみた。

なお、の部分はブログ主の勝手な独り言なのでけっして鵜呑みにしないでくださいね(笑)。

☆ 難聴の大きな要因は「騒音」と「動脈硬化」

先年、日本の国立長寿医療研究センターから「加齢と難聴には相関関係がない」というショッキングなニュースが発表された。主として難聴に関係していたのは「騒音」と「動脈硬化」の二つだという。

「騒音」の原因には「騒音職場」とともに「ヘッドフォン難聴」「イヤフォン難聴」が挙げられ、
一方の「動脈硬化」は言わずと知れたメタボリック・シンドロームである。

この二つは日常生活の中で十分予防が可能だが、比較的若い時期から一人ひとりが心がけていかない限り、近い将来「大難聴時代」がやってくることは必至だという。

☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125~1500ヘルツだが、これが英語ともなると200~12000ヘルツとなって随分違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

 これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。

また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がってくる。


☆ 聴力の限界とは

音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。
 

人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20~2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回~2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。 

ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。

 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。

したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかるが、
音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!

☆ 音が脳に伝わるまでの流れ

耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。

この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。

電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。

また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。

※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。

さらに、直感的なイメージとして述べると、オーディオ愛好家が音楽を聴くときには心が揺り動かされることが多いので主として「感情系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろう・・・。

ほかにも本書には「音楽好きための難聴予防テクニック」など貴重な情報が満載で、末永く「音楽&オーディオ」を楽しみたいと思われる方は是非ご一読されることをお薦めしたい。

 

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眼に蓋あれど耳に蓋なし

2024年04月12日 | 読書コーナー

昔、昔、そのまた昔、日本が高度経済成長を遂げている華やかりし頃の昭和49年(1974年)、神奈川県のとある県営住宅で「ピアノ殺人事件」が起こった。

4階に住む無職の男性(46歳)が階下のピアノの音がうるさいと、33歳の母親と、8歳、4歳の2人の娘の計3人を包丁で刺し殺した実に痛ましい事件である。

被害者の部屋には黒光りした真新しいピアノが置いてあり、その隣の部屋には「迷惑かけているんだからスミマセンの一言くらい言え、気分の問題だ・・・・・・」との犯人が残した鉛筆の走り書きがあった。逃走した犯人は3日後、自ら警察に出頭したが、その後、自首したにもかかわらず死刑判決が確定した。

この事件は”いたいけな”幼児までもが2人も犠牲になるという、あまりの惨劇のためまだ記憶に残っている方がいるだろうが、「騒音」が「殺人」に至るほどの深刻な問題になることを提起したものとして当時、世の中を震撼させ、その後もずっと語り継がれている。

オーディオシステムで毎日音楽を聴いている自分にとっても、広大な家に住んでいるわけでもなし、「騒音問題」はとても他人事では済まされない問題である。

世の中には音楽好きの方もいれば興味のない人もいる。いや、むしろ興味を持たない人の方が圧倒的に多いが、そういう方にとっては音楽は単なる騒音に過ぎない。


そこで、折にふれ、直接、騒音被害を蒙る対象の”向う三軒両隣”に対して、「うるさくないですか?」と訊ねることにしているが、「いいえ、全然~」という返事が異口同音に返ってくる。

ウソをおっしゃいますな・・(笑)

近所付き合いの手前、きっと遠慮されているに違いないと、およその察しはつく。あまり甘えてばかりでもいけないので、早朝と夜はなるべく控えめの音量で聴くことにしている。

組織で働くときの上司と部下、そして自宅の隣近所は残念なことに自分で選択することはできないものだが、たまたま、(隣近所が)”いい人たち”に恵まれて「ほんとうに運が良かった」と胸をなでおろしている。

都会のマンション暮らしでオーディオを楽しまれている方には、両隣のほかに上下の階が加わるので「騒音トラブル」がもっと切実な問題であることは想像に難くない。

したがってオーディオ愛好家は”すべからく”「騒音」に対する加害者、被害者の両方の立場から、日頃それなりの知識を蓄えておくのも悪くはあるまいと思う。

というわけで、「苦情社会の騒音トラブル学」という本を紹介しておこう。冒頭の「ピアノ殺人事件」も本書からの引用である。

                          

本書は、読んで字のごとく「騒音トラブル」に対して様々な角度から分析した学術専門書だった。

図書館で、ふと見かけた「騒音トラブル」の文字が気になって、手に取ってざっと目を通したところタメになりそうだったので借りてきたが、実際に読み出すと想像以上に堅苦しい内容。とても半端な覚悟では読みづらいこと間違いなしなので、けっして万人向けではない。                          

著者の「橋本典久」氏は、大学教授でご専門は音環境工学。

「騒音トラブル」といえば一般的に、二重窓にしたり防音室を作ったり、とかくハード面から考えがちだが、本書では「概論」「音響工学」「心理学」社会学」「歴史学」「解決学」といった、様々な角度から同じような比重で分析されており、視野の広さを感じさせる。

とりわけ、心理学の面から騒音問題を考察している部分がとても面白かった。以下、そっくりそのまま「受け売り」として抜粋させてもらおう。なお部分は筆者が付け足した部分。

 騒音の定義とは音響用語辞典によると、端的には「いかなる音でも聞き手にとって不快な音、邪魔な音と受け止められると、その音は騒音となる」。このことは騒音が極めて主観的な感覚によって左右されることを物語っている。これはまるでセクハラと同じである。

 好ましい異性からのアプローチはセクハラやストーカー行為にはなりえない。同様に、好ましい相手が出す音は当人にとって騒音にはなりにくいというのは大いに注目に値する!

 上記の定義を別の表現で示せば「”うるさい”と思った音が騒音」となるが、なぜ”うるさい”と感じるかは学問的に明らかにされていない。音量の大きさが指標となるわけでもない。

たとえば若者はロックコンサートの大音量をうるさいとは思わないし、また風鈴の風情ある小さな音でもうるさいと感じることがある。複雑な聴覚心理のメカニズムが騒音トラブルを生む大きな要因となっているが、これは今後の重要な研究課題である。 


 明治の物理学者「寺田寅彦」は次のように述べている。「眼はいつでも思ったときにすぐ閉じられるようにできている。しかし、耳の方は、自分で閉じられないようにできている。いったいなぜだろう。」

これは俗に「眼に蓋あれど、耳に蓋なし」と称されるが、「騒音トラブル」を考えるうえで、たいへん示唆に富んだ言葉である。 


 人間の体はミクロ領域の生体メカニズムからマクロ領域の身体形態までたいへん精緻に作られており、耳に開閉機構がない事にも当然の理がある。

これは人間だけではなく、犬や猫などほとんどの動物が基本的に同じだが、その理由の第一は「外敵への備え」である。敵が発する音はもっとも重要な情報源であり、たとえ眠っているときでも常に耳で察知して目を覚まさなければいけないからである。


 騒音トラブルの相手とはつまり外敵にあたる。その外敵が発する音は自分を脅かす音であり、動物的な本能の働きとして否応なしに注力して聞いてしまうものである。こういう聴覚特有の働きが、現代社会に生きる人間の場合でもトラブルに巻き込まれたとき現れてくるのではないだろうか。

 こういう話がある。「ある著名な音楽家が引っ越しをした先で、どこからか子供のピアノの練習音が微(かす)かに聞えてきた。そのピアノは、練習曲のいつも同じ場所で間違うのである。

最初のうちは、また間違ったというぐらいであったが、そのうち、その間違いの箇所に近づいてくると、「そら間違うぞ、そら間違うぞ、やっぱり間違った」と気になり始め、ついには、そのピアノの音が聞えてくると碌に仕事も手につかなくなった。

その微かにしか聞こえないピアノの音はいつしか音楽家にとっては堪えがたい苦痛になり、ついには我慢できず、結局、また引っ越しをする羽目になった」。


 なぜそんなに微かな音を一生懸命聞いてしまうのか。それは普通の人には何でもない音であるが、音楽家にとって間違った音というのは一種の敵だからである。

敵に遭遇すると自然に動物的な本能が働き、敵の音を一生懸命に聞いてしまうのである。これは音に敏感とか鈍感とかの問題ではなく動物としての本能であり、敵意がある限り、このジレンマからは逃れることができない。


 これを読んでふと思いついたのだが、もしかして、常に生の音に接している指揮者や演奏家にとって電気回路を通したオーディオの音とは「不自然な音」として外敵に当たるのではないだろうか。

音楽家にオーディオ・マニアが見当たらないのも、そもそも「聞くと不快になる」のがその理由なのかもしれない。

そして、好きな仲間のオーディオは「いい音」に聞え、嫌いな人のオーディオは「ことさらにアラを探したくなる」のもこの外敵意識が微妙に影響しているかもしれないと思うがどうだろうか・・(笑)。


 一方、敵意がない場合はかなり大きな音でもうるさくは感じない。たとえば先の阪神大震災の折、大阪の淀川堤防の一部が液状化のため破壊された。大雨でも降れば洪水を引き起こしかねないと、昼夜を分かたず急ピッチで復旧工事が行われたが、数週間にわたるこの工事騒音は近隣の住宅にとって大変大きなものだったろう。

しかし、当然のことながら、夜寝られないなどの苦情は一切寄せられなかった。むしろ、夜に鳴り響く工事の騒音を復旧のために一生懸命働いてくれる心強い槌音(つちおと)と感じていたことであろう。


とまあ、いろんなエピソードを挙げればきりがないほどだが、281頁以降の肝心の「騒音トラブルの解決学」を見ると、初期対応の重要性が指摘されており、手に負えないときは公的機関の相談窓口も紹介してあるが、法曹界には「近隣関係は法に入らず」という格言があるように、あまり当てにはできないようだ。

結局、「騒音トラブル」対策の要諦は「その1」の冒頭に掲げた「ピアノ殺人事件」のように、「迷惑かけているんだからスミマセンの一言くらい言え、気分の問題だ・・・・・・」に象徴されるようである。

誰にとっても「人間は不可思議な生き物、この生き物を理解することは一番難しくて永遠の課題」と、何かの本に書いてあった。

そこで、なるべく日頃から仲良くとまではいかないまでも、せめて「外敵と見做されないように」工夫することが、騒音トラブル回避の第一歩のような気もするところ・・。


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ヒューマンエラーを防ぐ知恵

2024年04月09日 | 読書コーナー

悲惨な事故のきっかけになることが多いヒューマンエラー・・、人間の「うっかりミス」による悲劇はいまだに後を絶たない。

たとえば乗り物でいえば、自動車のアクセルとブレーキの踏み間違い、飛行機の整備ミスによる墜落や落下物など枚挙にいとまがない。

地震とか台風とかいった自然災害ならともかく、ヒューマンエラーが原因の事故ともなると、加害者も被害者にとっても悔やんでも悔やみきれないだろう。

このヒューマンエラーをどうやって防げばよいのか。


著者:中田 亨氏、2001年東京大学大学院工学系研究科博士課程先端学際工学専攻終了。工学博士。

本書は次のエピソードから始まる。

「ある男が避暑のために静かな田舎に引っ越してきた。ところが、早朝に近所のニワトリの鳴き声がうるさくて熟睡できない。そこで男は睡眠薬を買ってきて、ニワトリの餌に混ぜてみた。」

一見冗談のような話だが、この話は原因を除去するという発想に立つことの重要性を説明しており、事故分析と事故予防を考えるうえで大切な教訓を与えている。

本書の第6章
「あなただったらどう考えますか」に28の事例があり、興味深いと思ったものをいくつか抜粋してみた。

☆ 医師が書いたメモが悪筆で、部下の看護師が読めない場合どうしたらよいか。

まず、なぜ看護師は読めないメモを医師に突き返さないのかと、素朴な疑問を第一の問題の捉え方とする。

医師と看護師の間で権威の落差(権威勾配)が大きすぎることが問題の原因。これでは、たとえメモの問題が解決したとしても権威勾配を背景にした別の事故が起こりかねない。事故防止のためには、たとえ権威のある人でも行動に間違いがあればそれを正す仕組みを作り出す必要がある。

たとえば偉い人の間違いを正す体験や部下に正される体験をする模擬演習が効果的。
偉い先生が「これから私はわざといくつかミスをするので変だと思ったら質問してください。また、私から「やれ」といわれても、不審な点があったら従わないでください」と宣言し、この訓練を年に1回でも実施する。

(こういう模擬演習に協力してくれるような先生なら、そもそも最初から権威勾配なんて起きそうもないが とはブログ主の独り言~)

☆ 高速道路をオートバイで二人乗りする場合は事故が少ないといわれているが何故か。

緊張感は人間を慎重にさせる。高速道でのバイクの二人乗りは一歩間違えれば危険な状況であり、バイクの運転者は背後の同乗者の命への責任を感じ安全運転を心がける。周りの自動車の運転者も警戒する。

この緊張感に関連して、古典「徒然草」百九段の箇所が有名。「高名の木登り」。

木から下りようとする人を、木登りの名人が監督していた。高くて危ないところでは何も言わず、低いところになってから”注意せよ”と声を掛けた。

緊張のレベルが高い段階では何も言わなくても自分で気をつける、緊張のレベルが下がる局面で油断が生じ、怪我をしやすい。だからそこで声を掛ける。緊張レベルの適正化
は現代の人間工学でも重要事項となっている。

ほかにも、
・自動車の速度計がアナログ方式とデジタル方式のどちらを選択するか
・人気のラーメン店で店頭で順番を待つのとレストランの店内でオーダーをとられて待つのと客の心理はどう違うかなど面白い事例があった。

さて、読後感だが本書の内容は失敗を予防する面からの記述に尽きるが ”失敗は成功の母” という言葉にもあるように、世の中には実際に失敗してこそ成長の糧となるケースも多々あるのは周知のとおり。

卑近な例だが自分も50年近いオーディオ人生の中で数限りない失敗を繰り返し、高~い授業料を払ってきたおかげでどうにか現状の「そこそこの段階」に至った。まあ、けっして自慢できる話ではないけれど~(笑)。

その点、「あとがき」で次のように申し添えてあった。

学 校 → 教えたことを間違えない生徒が有利

社会人 → 間違いをしても原因に気づきその後に生かせるタイプが有利

とあって、「学校での成績が必ずしも社会人としての成功と直結しない」とあった。この辺は実感される方が多いのではあるまいか・・。

そういえば、「輝かしい学歴と経歴」の持ち主たちが仕出かしたとてつもない失敗事例を思い出した。政策的な失敗は多くの人命の損失、国益の損失につながるのだから、とても「ヒューマンエラー」で片付けられる次元の話ではない。

話はあのケネディ政権の時代にさかのぼる。

当時の政権の中枢にいた「ハーバードやエールなど一流大学を飛びっきり優秀な成績で卒業し、光り輝く経歴の持ち主」たちが引き起こした「ベトナム戦争」をはじめとした政策の失敗の数々はまだ記憶に新しい。

これらについて鋭く問題提起した本が「ベスト・アンド・ブライテスト」(ハルバースタム著)だが、結局彼らに欠けていたのは長期的な「歴史観と展望力」だと指摘されていた。



「人間の知力とはいったい何か・・」について深く考えさせられる本である。



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「ギャンブラー・モーツァルト」を読んで

2024年04月01日 | 読書コーナー

「人間の生涯は“真面目さ”と“遊び”から成る。この二つのバランスの取り方を知っている者こそが、最も賢明なる者、最も幸運な者と呼ばれるにふさわしい。」(ゲーテ)

いきなり、こういう文章で始まるのが、「ギャンブラー・モーツァルト」~遊びの世紀に生きた天才~(ギュンター・バウアー著)

                 

ちなみに、ブログ主の人生は心理的にみて「真面目が3割、遊びが7割」といったところかな・・(笑)。

さて、431頁にわたって細かい文字がビッシリ詰まった分厚い本で、よほどのモーツァルト・ファンじゃないととても読む気が起こらないに違いないが、ザットひと通り目を通したがこれはたいへんな労作だと思った。

本書のテーマは「ゲーテが語ったような意味でモーツァルトははたして幸運な人間であったのだろうか、生涯を賢く生きたのだろうか。別の言い方をすれば “音楽への真面目さ” と “遊び” の魔力との間でうまくバランスをとることが出来たのだろうか」に尽きる。

結論から言えば、モーツァルトは35年という短い生涯(1756~1791)において600以上にもわたる膨大な曲を作ったにもかかわらず、あらゆる遊びを楽しんでいたことが分かった。きっと人生を大いに楽しんだに違いない。

たとえば、遊びの種類を挙げるだけでも第一章「射的」、第二章「カードゲーム」、以下「ビリヤードと九柱戯」 「パーティゲーム」 「言葉遊び」 「お祭り、舞踏会、仮装パーティ」 「富くじ」と実に多種多様なものが(章ごとに)詳しく紹介されている。

「構想は奔流のように現れて、頭の中で一気に完成します。すべてのものが皆一緒になって聞えるのです。まるで一幅の美しい絵を見ているみたいです。後で作曲する段になると、脳髄という袋の中からこれらを取り出してくるだけです。」(要旨、小林秀雄著「モーツァルト」)

これは有名なモーツァルトの手紙の一節だが、こういう天性の才能に恵まれた音楽家だからこそ時間に余裕ができて沢山の遊びを楽しめたに違いない。そもそも“仕事”と“遊び”は時間的にみて表裏一体の関係にある。

つまり、“仕事”の処理能力が高い者ほど“遊び”も楽しめるというわけ(笑)。

モーツァルトは手紙魔だったらしく、(当時は唯一の通信手段だったので仕方がないが)、父や妻、姉、友人たちに宛てた膨大な手紙が「モーツァルト書簡集」として残されており、これからの引用が本書の全編にわたって多様に駆使されていて、読んでいくうちに自然にモーツァルトの人間像が浮かび上がってくるところが実に興味深い。

映画「アマデウス」にも描かれていたようにモーツァルトは普通の市井の人間と何ら変わりなかったが、あの神々しいほどの輝きを放つ作品との落差が印象的だった。

さて、本書の中で頻繁に登場するのは教育魔だった父親(レオポルド)だが、姉のナンネル(二人姉弟)も負けず劣らずの頻度で登場する。幼い頃に彼女と一緒に興じた“遊び”はモーツァルトの生涯に大きな影響を与えた。

最後に、最愛の姉ナンネルの結婚に当たり、彼女に宛てたモーツァルトの天真爛漫な手紙を同書の中から紹介しておこう。(298頁)

「それではウィーンからザルツブルグへ、1000回の祝福を送りましょう。お二人が私たちよりも幸せに暮らすことが出来ますように。お、お、おっと、詩でいっぱいの頭の中の引き出しから、ちょっとした文句が出てきましたよ。ではご静聴。

結婚したら沢山のことが分かります。これまで半分謎だったことも経験すればわかるのです。エヴァがその昔カインを産むためにしなければならなかったこと。しかし姉さん、この結婚のお務めをあなたは喜んで果たすでしょう。ぼくを信じて、少しも辛くはないのですから。

でも物事には表と裏が、結婚だって同じこと、楽しみもあれば苦労もある。彼が険しい顔をしていても、心当たりがないならば、勝手に不機嫌になっているだけ。男の気まぐれと思えば良し。そして彼に言いましょう。“旦那様、昼間はあなたのお好きなように。でも夜は私のものよ”」~

あなたの誠実な弟 W.A.モーツァルト~

いやはや・・・(笑)。


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小澤征爾 指揮者を語る

2024年03月29日 | 読書コーナー

日本人というハンディを乗り越えて世界的な指揮者になられた小澤征爾さんだが、つい先日亡くなられましたね。

その出自をごく簡単に紐解くと、中国の奉天(当時、満州)生まれで父親は「小澤開作」といって歯科医師であり、民族主義者として「満州国協和会」創設者の一人だった。

今や完全に死語となった「大東亜共栄圏」・「五族協和」という錦の御旗のもとに展開された満州事変(1931年)の首謀者とされ、当時陸軍(関東軍)の高級参謀だった「板垣征四郎」と「石原莞爾(かんじ)」との親密な交流を通じて両者の名前から1字づつとって「征爾」と命名された。

「大東亜共栄圏」構想の背景には「白色人種は結局、黄色人種を受け入れてくれないのでアジア人だけで団結しよう」という思想が根底にあった・・、気宇壮大な構想だが当時としてはけっして間違っていたとは思えないが、今はどうなんだろう?

アメリカや西欧における中国に対する警戒心は相変わらずだが、日本のイメージは「安定した民主主義」「洗練された高度技術」や「大谷選手」など国際人の活躍などもあってか良くなっているようだが、「ほんとうの仲間」と思っているかどうか・・、計り知れないのがホンネだろう。

ちなみに「五族協和」の五族とは日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人をいうが、もし石原莞爾さんがご存命だったら現在の五族融和の状況についてどういうご感想を洩らされるだろうか。

「日本が中国を御している時代の身勝手な構想だった」と、洩らされる可能性が高い・・。


余談はさておき、小澤さんが指揮した演奏をいくつか聴いたことがあるが正直言って「この曲は小澤さんでなければ聴けない」という極めつけの演奏に一度も接したことがないのが残念。まあ、そういう指揮者が大半なので欲を言うとキリがないが・・。

そういう中、たまたま小澤征爾さんの本をみかけたのでこれ幸いとばかりに借りてきて目を通してみた。

                     

さすがにベテラン指揮者だけあって参考になりそうなことがいろいろ書かれていた。このまま返してしまうのはもったいない気がしてせめてポイントだけでも記憶に留めておこうと箇条書きに整理してみた。

☆ クラシック音楽における東洋人の位置づけ(79頁)

デヴュー当時にドイツの有名な批評家から「(東洋人なのに)あんた、ほんとうにバッハなんかわかるの?」と、随分失礼なことを聞かれた小澤さん。これに関して恩師の斎藤秀雄さんがこういうことを言ってた。(要旨)

「ドイツで生まれ、ドイツで育った人はドイツ音楽の伝統を知っている。フランス人もイタリア人も同様だ。けれどもお前たちは真っ白だ。でも真っ白っていうことは、案外いいことかもしれない。うんと勉強してその真っ白の中に自分の経験を加えていけるから。

ドイツ人がフランスのものをやろうとすると伝統が邪魔してよくできないとか、イタリア人がドイツものをやろうとするとイタリアの伝統が邪魔になる事があるかもしれない。歴史があったり伝統があるとそれがかえって重荷になるかもしれないので、良い伝統と悪い伝統、それをよく見極めろ。」

☆ 指揮台に立ったとき、ふっと手を動かし、みんなが信頼してついてくる指揮者になるためにはどうすればいいのでしょうか?(115頁)

「深く作曲家のその曲を研究してみんなが納得するようなところでエリアをつくってポンと前へ出すと、ついてきますね。それとこんなことがあるんですよ。歌は必ず、息をとらなきゃ歌えない。

音楽の根源は人間の声から始まったと我々は思っているわけ。それから楽器は声の代わりに音楽をつくってきた。だんだんとそれが、声ではとても出ない高い音や低い音をヴァイオリンとかで出せるようになった。

だけど音楽の根源は声だとすると、息を吸うことは絶対必要で管楽器は息を吸わなければいけないけど、ヴァイオリンなどの弦楽器は息を吸わなくても弾ける。しかし、そこのところで、息をみんなにうまく吸ってもらう指揮者もいて、それがいい指揮者だと言われる。

いわば“インバイト”をするんだね。~中略~。カラヤン先生の弟子をしていた頃にはっきりと「インバイトだぞ、指揮は」と仰っていた。歌手とオーケストラの息が合う、そういうことができる指揮者になれたら一番いいんじゃないかと僕は思っている。要するに無理に押し付けないってことで。」

☆ 最後に百年後の皆さんへ(150頁)

「100年前の人たちは僕らが生きている今のことを、どう思っていたのかって考えてみると、こんな変化を想像しなかったと思う。飛行機が出来たり、コンピューターが出来たり、文明は驚くほど変わっているわけで。

そう思うとこれから100年後もうんと違うと思うんです。

そこで二つだけ変わってほしいことがある。100年前の人は100年たったら戦争がもうなくなっているだろうと思っていたと思う、悲惨なときに。けど、まだ戦争はなくなっていない。その戦争のことは、もうほんとに人間の頭の良さを使ってなくしたらいいと思う。

それともう一つは世界はすごく近くなってきている。どこに誰が住んでいるかがわかって、どれくらい貧乏な人がいるかとか、どんな人たちがどこそこにいるとか。

人種問題なんかも含めて、100年後のみなさんには、是非そういうことを解決してほしい。世界が、地球が小さくなったなあと思えるように。みんながわかり合っている地球になってもらいたいと思います。

そしたらいいなあ・・・と、そういうみなさんで、いていただきたいと思います。」
 



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左対右 きき手大研究

2024年03月22日 | 読書コーナー

ようやく「球春到来」・・、熱戦たけなわの「春の選抜高校野球」。

プロ野球にはない球児たちの「ひたむきさ」に、つい引き寄せられてテレビをつけっぱなしだが、それに加えて、オーディオの試聴ソースとしても、観衆のどよめきや場内アナウンサーの声の響きなどがもってこいで、どのくらい奥行き感があって豊かに聴こえるか無意識のうちにチェックしている・・。

常に生活の念頭にあるのが「音楽&オーディオ」というわけで、どうしようもない人間である(笑)。

それはさておき、野球の場合にとりわけ目立つのが左利きの選手が多いことで、野球は左利きが有利のスポーツだと感じさせる。

たとえば、左バッターは打ってから駆けだす方向の一塁に近いので有利だし、左ピッチャーは投げる時に一塁走者に相対するので牽制するのにたいへん有利だ。

このように野球の場合には「左利き」有利は明らかだが、一般的な社会生活では果たしてどうなんだろう?

恰好の本があった。



「左対右・きき手大研究」(化学同人社刊)
    

本書は、古来言われてきた、「左利きは器用」「左利きは怪我をしやすく短命」「なぜ左利きの人が少ないか」「利き手はいつ決まる」「利き手の矯正はよいことか」などの疑問に対して学術的にアプローチした本である。

著者は「八田武志」氏で関西福祉科学大学教授で心理学がご専門。

ひととおり、ざっと目を通してみたが医学的な観点からのアプローチがやや欠けているような気がするが世界各国のいろんな研究データを豊富に集めて考証されているたいへんな労作。

しかし、まだこの分野は未解明の部分が多いようで、著者の意見にも歯切れが悪いところがあって明快な結論が導き出されないのがチョットもどかしい。

とりあえず二点ほど興味のある項目を列挙してみよう。

なお、
人間は「右利き」「左利き」「両利き」の3つに分類されるが、定義というほどのこともないが「左利き」としてのデータの解析対象とされているのは、「書字に使う手」「スプーンを持つ手」「ハサミを使う手」「歯ブラシを持つ手」「金槌を持つ手」にそれぞれ左手を使用することが挙げられている。

☆ 「左利き=短命説」

「左利き」の方にはドキリとするような説だが、1994年に「左利きは危険がいっぱい」という本が出版(外国)され、広く知られるようになった。

これは空軍の兵隊を対象に「スポーツに関連する事故」「作業に関連する事故」「家庭での事故」「道具に関連する事故」「運転事故」の5つのカテゴリーで調査した結果に基づいたもので事故に遭遇した確率が「左利き」の方が「右利き」よりも多かったというもの。

因みに調査対象者の内訳は「左利き」は119名、「右利き」は945名で右ききの割合は89%とおよそ通常の人口分布に占める割合との乖離がない状況だった。

結局、「左利き」が事故に遭遇しやすいというのが「左利き=短命説」の大きな根拠というわけだが、著者の見解によると現代医学では人間が死ぬのは最終的には心臓が止るか肺が機能しなくなるのかのどちらかなので、腕などの怪我(外傷)ぐらいで短命に結びつけるのは因果関係として弱いとの結論だった。

まずはひと安心・・、しかし「左利き」は戦争時の戦闘場面で命を落としやすいことが明白であり、かつ「右利き社会における長い間のストレス」については無視出来ない要因とのこと。

☆ 音楽の才能と左利き

聴くのが専門だが音楽愛好家の自分(右利き)としては非常に興味のあるところ。

音楽の能力には利き手による違いがあり、「左利き」が優れているという指摘が以前からあったが、本格的に「左利きと聴覚機能」に焦点が移ったのは1980年代から。

その結果、言語音は左脳がその処理に優れるが、音の高低の判別や音と音との間、音の大きさ、各種の音の配分など音楽を構成する要素には右脳の方が処理に優れることが次々に明らかにされた。

「プロソディ(韻律)」と呼ばれる音声言語の周辺的要素も右脳の働きであることが立証された。

そこで右脳は左手指の運動と関連が深いので、「左利き」は音楽の才能があるはずだという予測が生まれいくつかの実験調査が行われた。

 イギリスのある小学校(897名)の実験調査では差異は認められなかった。

 
ある学生相手の音の記憶実験によると「左利き」の優位性がはっきりと認められた。「左利き」では音の記憶を左右両方の脳で出来るのに対して、「右利き」では右脳でしか記憶できないためと説明された。

 ドイツの音楽大学でピアノ学科52名を対象に初見演奏の実験を行ったところ「右利き」は「左利き」や「両手利き」よりも劣ることが明らかにされた。

初見演奏とは初めて見る楽譜を指の運動に直ちに変換して演奏したり、はじめて耳にしたメロディを再生する聴音演奏
と同意語で音楽能力に必須の能力とされるもの。

(この初見能力について、幼少期のモーツァルトが門外不出とされた教会音楽を一度聴いただけで、後になってスラスラと楽譜にしたためた逸話を思わず想い出した!)

以上のことから導き出される結果は次のとおり。

「小学生を対象にした調査では利き手による音楽能力の違いが見出せなかったが、成人ではその関係を支持するデータが多い。

ということは左手の手指運動の訓練に困難さを感じる者(右利き)は楽器演奏の練習を途中で放棄するのに対して、それほど困難さを強く感じなかったものは”繰り返し練習”が持続した結果、音楽家への職業につながり、”右利き”の音楽家が少ないという理由につながっている」

結局、「音楽の才能と左利きは関係あり」
で、さらに興味を引くのは音楽専攻生の場合、親に「左利き」がいる場合には遺伝的要素の関与や左手を使うことへの養育者周辺の容認度が高いことなどがあってより成績がいいそうだ。

したがって音楽的能力には「利き手」それも親の世代を含めた「利き手」が影響している可能性が大いにある。

ということでした。

で、読者の方々でご自身を含めて身の回りに純粋な「左利き」がおられますか?


今や生活の主流を成しているパソコンやスマホなどの機器を扱ううえで「両手きき」が、いちばん便利だと思うが、近年は「左きき から発展した 両手きき」が増えているように思えるがどうなんでしょう・・。



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ミステリーの快作

2024年03月14日 | 読書コーナー

気象庁の季節区分によると、「12月~2月」が冬、「3月~5月」が春、「6月~8月」が夏、そして「9月~11月」が秋・・。

つまり、季節の変わり目は12月、3月、6月、そして9月ということになり、オーディオでいえばクロスオーバーということで二つのユニットの音(季節)が混在する節目に当たる~、言い換えると どっちつかずですっきりしない ともいえる(笑)。

で、何が言いたいかというと、現在はれっきとした春だけどいまだに寒くてやたらに太陽が恋しくなる。

つい日光浴をしながら読書三昧~(笑)。

で、たまたま読む機会があったのが「蒼天の鳥」。



令和5年(昨年)の「江戸川乱歩」受賞作だし、装丁も洒落てるし、いやが上にも期待が高まってワクワクしながら読み始めたものの、だんだんと「何じゃこれは・・」、さっぱり面白くないのだ。

読者を引きずり込むような息もつかせぬ展開、そして軽快なリズム感や熱気がさらさら感じられない。

オーディオでいえばまるで「蒸留水」のような味気ない音・・(笑)。

その一方では、「ふ~ん江戸川乱歩賞も落ちたもんだねえ・・」、と何だか悲しくなった。

新人ミステリー作家の登竜門として、過去に幾多の優れた作家を輩出しているし、賞金1千万円も大きな魅力。

たとえば、今や押しも押されもしないほどのベストセラー作家「東野圭吾」さんもずっと昔に「放課後」で受賞されている。

そうそう、東野さんといえば、現在カナダに亡命している香港の民主活動家「周庭」女史を想い出す・・、この人は日本語がペラペラだそう。

彼女が香港警察の獄中にあるとき「東野さんの本を20冊あまり読みました」とのことで、さもありなん・・、とにかくハズレが少なくて、どれもが面白い~。

話は戻って「江戸川乱歩賞」受賞作って、こんなにレベルが下がったのかといささか心配になって近年の受賞作をググってみたところ、図書館の在庫とマッチしたのが「わたしが消える」。

令和2年の受賞作だからまだ ほやほや といっていい。



そして、期待と不安が交々(こもごも)で読み始めるとこれがメチャ面白い!

認知症になりかけの元刑事が、死別した妻との間に出来た一人娘(介護施設で研修中)の依頼をうけて、ある「痴呆老人」の身元を探ると、これがとんでもない過去の持ち主だった。

正体を探っていくにつれ、関係者が次々に殺されていくのだからよほどヤバイ人物のようだ・・。

ハイ、息もつかせず1日で読み切りました(笑)。

同時に「乱歩賞」健在ということでひと安心~。

ネットから「読者レヴュー」を二件ほど拝借。

☆ 「江戸川乱歩賞受賞作という帯を見ると読みたくなる性質で、初読みの作家さんと出会う。訳ありで刑事を辞めてマンション管理人をしている主人公の藤巻は軽度の認知症状が出始めていることを病院で知らされるところから始まる。

離婚した妻と暮らしていた介護を学ぶ大学生の娘から、研修先の施設に置き去りにされた老人の身元を調べてほしいと依頼される。謎の老人について探るうちに事件に巻き込まれていく。認知症進行への不安、距離のあった娘との関係修復、深まるミステリー、一気読みでした。やはり、江戸川乱歩賞に間違いなし。」

☆ 「あまりミステリーは読まないものの、本の検索中に引っ掛かりがあり手に取った一冊。 さすが「江戸川乱歩賞」受賞索引だけあってエンターテインメント性があり楽しく読めました。 何しろ読みながら次の行動の展開を予想しているとその通りになる!期待通りで「ミステリーはこうでなくちゃ」の面白さでした。 唯一裏切られたのは最終章、これで読後感の良さが増したように思います。 佐野広実さん索引は初めてでしたが、また読んでみたい。」

以上のとおりだが、作者の「佐野広実」さんは上から目線の物言いになるが「才能あり」ですね。次作もぜひ読んでみたいです~。


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雑学人間の独り言

2024年03月06日 | 読書コーナー

万事に亘って「広く浅く」の「雑学系人間」だと自認しているので、雑学系の本は大好きで図書館で見かけたら片っ端から借りてくる。

                

本書は私たちの身の回りにある森羅万象の「ふしぎ」の中から313個を選んだユニークな本だった。

以下、興味を引いたものをいくつか抜粋してみた。「そんなことはとっくの昔に知ってるよ。」という方がおられるだろうが、どうか悪しからず~。

☆ なぜ「ご馳走」という言葉に「走」という字が入っているのか?

普段は粗食の禅宗のお寺でもお客が来ると精進料理ではあるけれど何品かでもてなした。しかし常備してある食材には限りがある。

そのため、食材集めに「まかない」が方々を「走り回って」(=馳走)集めた。そこから客をもてなす特別な料理のことを「馳走」と呼び、それが今の「ご馳走」につながった。

禅宗には今も台所に「韋駄天」(いだてん)を祭っているところがある。これは走り回る神様である。


☆ 女性や子供の「甲高い声」をなぜ「黄色い声」というのか?

黄色い声というのは仏教のお経から来た言葉である。お経といえば眠くなるような単調な響きだが、中国から伝わってきたばかりの飛鳥時代にはもっと音楽的な高低強弱の響きがあった。

そして、どの箇所を高くし、どの箇所を低くするかはお経の文字の横に色で印が付けられていた。その色のうち「一番高い音」が黄色だった。そこから「甲高い声」を「黄色い声」というようになった。

今のように高低をつけず一本調子でお経をあげるようになったのは平安時代以降である。

☆ ひどく嫌うことをなぜ「毛嫌いする」というのか?

「毛嫌いする」というのはただ嫌いというのではなく、徹底して相手を受け入れないという意味合いが強い。しかも女性が特定の男性を嫌う場合に使われる。

それもそのはず、これは競馬の世界で血統馬の雌に種牡馬をかけ合わせるとき、オスがメスにどうしても受け入れてもらえない場合に「毛嫌いされた」と言っていたものだからである。だから、毛嫌いの毛とは栗毛、葦毛、黒毛などの馬の毛のことだ。

☆ 裁判官はなぜ黒い衣装をまとっているのか?

近頃は女性裁判官もちらほら見かけるようになったが、男女を問わず全員黒い衣装を身にまとっている。この衣装は法服と呼ばれ最高裁判所規則の中で制服ということになっている。

制服だから全員が着用しているわけだが、その色が黒なのは「どんな色にも染まらない」「どんな意見にも左右されない」という意味が込められているのだそうである。

☆ なぜ「匙を投げる」が諦めることになるのか?

匙(さじ)を投げることがなぜ諦めることになるのかと不思議に思わないだろうか。

この匙は昔、医者が薬を調合するときに使った「薬さじ」のことである。つまり、「どんないい薬を調合しても治る見込みがない病気」と医者が見立ててついに匙を投げたのである。

この医学用語が一般でも諦めるという意味で使われるようになった。

☆ なぜ「女心と秋の空」といわれるのか?

女心は秋の天気のように目まぐるしく変わるというのが「女心と秋の空」だが、秋は運動会や遠足が行われ晴天続きでそんなに目まぐるしく天気が変わるという印象はない。

むしろ春のほうが霞がかかったり満開の桜に雪や雨が降ったりと変わりやすい。しかし、この言い回しはやはり秋でなくてはならないのである。なぜなら「秋」と「飽き」をかけ、女心は飽きっぽく変わりやすいと言いたいからだ。

☆ 歌舞伎界のことをなぜ「梨園」というのか?

中国・唐の時代といえば「楊貴妃」とのロマンスで知られる玄宗皇帝がよく知られている。この皇帝は音楽に興ずるだけでなく宮廷音楽を演奏する人々の子弟を庭園に集め、音楽を教え、舞を習わせ、芸能活動に力を入れたことでも有名である。

その庭園に梨が植えられていたことからこの子弟たちは「皇帝梨園の弟子」と呼ばれた。

この故事から芸能のことを日本でも梨園というようになったが、江戸時代になると歌舞伎が盛んになり「梨園」といえば歌舞伎界を指すようになったとのこと。

以上のとおり、身近な生活の中で何気なしに言ったり使ったりしていることに意外と深い意味が込められているようですよ。

最後に「甲高い声と黄色い声」について触れておこう。過去のブログで次のようなことを述べていたことをご記憶だろうか。

「聴覚芸術」と「視覚芸術」との間でいったいどういう芸術論が戦わされたのか、まったく想像の域を出ないが、たとえば「音楽」につきものの音響と「絵画」につきものの色彩の共通点を「波長」という視点から探ってみよう。

音響の場合、低音域は波長(波の高点と低点との距離)が長く、一方、高音域は波長が短いのは周知のとおりだが、色彩だって「可視光線」のもとで波長の概念を当てはめてみると、長い順に<赤~オレンジ~緑~青~紫>の順番になる。ちなみに赤外線は波長が長すぎて、そして紫外線は波長が短すぎて目には見えない。

そういうわけで、「音響」を「色合い」で表現すれば低音域は赤色のイメージとなり、中音域は緑色、高音域は紫色のイメージとなる。

「低音域~赤色・オレンジ色~暖かい」 VS 「中高音域~青色や紫色~クール」という印象を受けるし、オーディオも低音域が豊かだと暖かい気分になり、高音域が優った音はクールな気分になるのもそれだ。中音域だと緑色に該当するので何となく安心感がある。

ただし、これはここだけの極めてユニークな ”珍説” なのでけっして真に受けないようにね~(笑)。」



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脳は何かと言い訳する

2024年02月29日 | 読書コーナー

        

本書は脳にまつわる知識や考え方を述べた本、といえばややかた苦しそうだが従来の「脳の本」には載っていないような新しい知見が紹介されている。興味を引いたものを2項目紹介。

☆ 脳はなにかと錯覚する~ヒトも動物も、なぜか「赤色」が勝負強い~

あの有名な「ネイチャー」誌に掲載された科学論文に英ダーラム大学の進化人類学者ヒル博士の研究成果として「赤色は試合の勝率を上げる」という話題。

たとえば、ボクシングやレスリングなどの格闘競技では、選手のウェアやプロテクターに赤色と青色がランダムに割り当てられる。

ヒル博士がアテネ・オリンピックの格闘競技四種の試合結果を詳細に調査した結果、すべての競技について、赤の勝つ勝率が高いことが分かった。赤の平均勝率は55%というから、青よりも10%も高い勝率になる。実力が拮抗した選手同士の試合だけを選別して比較したところ、赤と青の勝率差はなんと20%にまで拡大した。

赤は燃えるような情熱を、青は憂鬱なメランコリーを暗示する傾向は民族を越えて普遍的であると考えられている。

自然界においても赤色は血や炎に通じるものがあるようで、サルや鳥類、魚類でも一部の体色を赤色に変えることで攻撃性を増したり異性に強くアピールしたりする種がある。

ヒル博士は赤色が相手を無意識のうちに威嚇(いかく)し、優位に立ちやすい状況を作るのではないかと推測している。

筆者:もしかしたら
「真っ赤な顔」
で怒るというのもそれなりに意味のあることなのかもしれないですね(笑)。

☆ 脳はなにかと眠れない~睡眠は情報整理と記憶補強に最高の時間~

何かを習得するためには、ひたすら勉強すればよいわけではない。睡眠をとることもまた肝心であるという話。

「ニューロサイエンス」誌に掲載されたチューリヒ大学のゴッツェリッヒ博士の論文は、睡眠による「記憶補強効果」を証明した。

ある連続した音の並びを被験者に覚えさせ、数時間後に音列をどれほど正確に覚えているかをテストしたところ、思い出す前に十分な睡眠を取った人は軒並み高得点をはじき出した。

ところが驚くことに、目を閉じてリラックスしていただけでも、睡眠とほぼ同じ効果が得られることが分かった。つまり学習促進に必要だったのは睡眠そのものではなく周囲の環境からの情報入力を断ち切ることだった。つまり脳には情報整理の猶予が与えられることが必要というわけ。

それには、ちょっとしたうたた寝でもよいようで、忙しくて十分な睡眠が得られなくても、脳に独自の作業時間を与えることが出来れば、それで十分なのである。

これは不眠症の人や、重要な仕事を明日に控えて緊張してなかなか寝付けない人には朗報だろう。眠れなくともベッドで横になるだけで、脳にとっては睡眠と同じ効果があるのだから。

そう、眠れないことをストレスに感じる必要はないのだ。ただし同博士によるとテレビを見ながらの休憩は効果がないとのこと。あくまで外界から情報を隔離する
ことが肝心。

以上のとおりだが、これは自分自身も体験して思い当たる節がある。というのは、ときどき夜中にバッチリ目が覚めてしまい以降なかなか寝付けないことがあるが、眠れなくてもいいと開き直って目を瞑って横になっているだけでも随分と違う。

逆に途中で起き上がってゴソゴソやったりするのが一定期間続くと耳鳴りとかいろんな体調不良を覚えた経験がある。生体リズムが狂って自律神経(?)がおかしくなったのかもしれない。

作家:吉村昭さん(1927~2006)の本に出てくる話だが、吉村さんは若い頃結核だった時期がありそれも手術を要するほどの重症患者で、長期間、日中でも絶対安静にしてじっと寝ていたそうだが「意識は覚醒したまま横になって体を休めておくというのも慣れてしまうとなかなかいいものだ」という記述があった。

自分に言わせれば死んだ方がマシともいえるこういった退屈な時間をそう思える境地になるのはなかなかできないことだと思う。吉村さんの作風には他の作家にはないゆったりとした時間の流れを感じていたのだが、若い頃にそういう体験が背景にあったのかと思わず頷いた。

これを読んで以来、寝付けなくてもあまり苦にならないようになったが、逆にこの頃では
外界の情報を遮断して冷静に考えるには1日のうちで最も適した思考の時間
ではないかと思うようになった。

眠れなくてあれほどあせっていた人間が今度は逆に不眠の時間を楽しむようになる、ほんとうに人間は気持ちの持ちようで随分と変わるものである。

とはいえ・・、やっぱり熟睡できるのが一番!

これも結局、自分の「脳がなにかと言い訳をした」結果だろうか(笑)。



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中国古典の魅力とは

2024年02月27日 | 読書コーナー

若いときに読んだ本でも、人生経験を経て再度読むと新たな発見に出会うことがある。本好きの方にはきっと思い当たる節があるに違いない。

「人生に二度読む本」(講談社刊)


城山三郎氏と平岩外四氏という稀代の読書家2名により、「あらすじ→対談→作者解説」のスタイルで12冊の名作を紹介した本である。

城山三郎氏:直木賞受賞、「落日燃ゆ」「毎日が日曜日」など著書多数

平岩外四氏:元経団連会長、国内外で活躍、蔵書3万冊以上

両氏とも故人。

で、その12冊とは次のとおり。


夏目漱石「こころ」 アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」 太宰治「人間失格」 フランツ・カフカ「変身」 中島敦「山月記・李陵」 ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」 大岡昇平「野火」 ジェイムズ・ジョイス「ダブリンの市民」 ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」 リチャード・バック「かもめのジョナサン」 吉村昭「間宮林蔵」 シャーウッド・アンダーソン「ワインズバーグ・オハイオ」

ご両名の豊かな人生経験、読書経験、博識に裏付けられた書評が実に興味深かった。これは是非読んでみなければという気にさせられるから不思議だ。

たとえば、「老人と海」は若い頃に一度読んだが、さして感銘を受けなかったもののおそらく人生経験が未熟だったせいかなあ~。

城山氏によると「この年齢でしか書けない作品で感激して読んだ。棺桶に入れたい一冊」、平岩氏が「非常に完成度が高い素晴らしい小説」と絶賛されているので、そのうち再読してみたい・・。


そして、本書の後半に平岩さんの読書好きに因んで
さりげないエピソードが紹介されている。

1980年代に日米間の貿易摩擦の折衝に伴い、平岩氏が財界代表としてアメリカ側との交渉の席でアメリカの販売努力が足りない例の一つとしてジョイスの「ユリシーズ」の原書をアメリカから取り寄せて読まれたことを披瀝したところ、「日本の財界人があの難解なユリシーズを原書で読んでいる」にびっくりしてしまって、それまでワアワア言っていたアメリカ側の出席者(経営者、政治家、官僚等)たちがシーンとなって黙り込んでしまったそうだ。(現場に居合わせた城山氏の言による)。

読書が少なくとも教養の一端を顕す万国共通の尺度だという好例だが近年の政界、財界人で平岩さんみたいな読書好きの話はあまり聞かない。

で、自分の知っている範囲で挙げられるのは「斎藤 健」氏(現経済産業大臣)ぐらいかな~。

たまたま現役時代の仕事が縁で、いまだに「後援会報」(千葉県第七区)が送られてくるが、いつぞやの会報の中で「近年の政治家の質が劣化しているのは中国古典に通暁していないからだ」とのご指摘があった。

通暁(つうぎょう)・・、夜を通して暁に至ること、詳しく知り覚ること(広辞苑)。

「中国古典」の魅力とは・・、以下ネットからの引用です。

簡潔な表現でありながら、ずばり人間や人生の真実に迫っていく名言の数々にあります。

「以心伝心」、「温故知新」、「大器晩成」、「四面楚歌」を始め中国古典に由来する四字句をよく使いますが、どの言葉もそれぞれ深い意味をもっていて、その由来を知ると感動することが多いものです。

かつて日本の先人たちは、中国古典に学び、それらの名言を心に刻むことによって、人間を理解し、人生を生きる指針としてきたわけです。

社会は激しく変化していてもその底には、変化しない部分が厳として存在していることがわかります。

人間のもつ本質的な性格や行動を示す人間学は、変化しない部分の代表的なものと言えます。

二千五百年前に書かれた『論語』を始めとする中国古典の人間学は、もっぱら原理原則を説いています。原理原則なるがゆえに、時代の変化にほとんど影響されていないので、現在の我々が読んでも新鮮な魅力に富んでいるし、うなずける面が多いものです。

変化の激しい時代だからこそ、なおさら原理原則に立ち返ってみる必要があると言えます。

と、ありました。現代中国と比べて古代中国は人知の宝庫みたいな感じがします。

斎藤氏は壮年時代に読破した「失敗の本質」に感銘を受け、著者の「野中 郁次郎」さんを直接訪問され、謦咳(けいがい)に接されたほどの方だから説得力がありますね。

ちなみに、この拙いブログでも「巧言令色、仁あること少なし」「糟糠の妻は堂より下さず」など、中国古典から引用したタイトルをときどき使っていますからね~、どうかお忘れなきように(笑)。



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