「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

独り言~身の回りのことであれこれ~

2008年09月15日 | 独り言

この4月からお世話役のメンバーの一人となった地元自治会によって開催された「敬老会」がこの13日(土)にやっと終了した。

式典(大げさ?)と祝宴の二部構成で91名(70歳以上)のうち37名の出席を見、そのうちでは久しぶりに出席した91歳になる母が最高齢者だった。帰宅後に感想を聞いたところ祝宴のときの余興が面白かった、いろんな人と話が出来ていい思い出になったと喜んでいた。

出席者の人たちも最高齢者の母に気を使っていろいろと声を掛けてくれて随分とありがたかった。自分で言うのもなんだがささやかながら親孝行が出来たと思っている。

それにしてもたいへんだったのがいろんな余興のお世話。何しろ乏しい予算のもとでの手作りの敬老会なので「謝礼なし、弁当だけ提供」の条件下で出演交渉。

今年は自分の発案で地区内のコーラス・グループ(女性:7名)に依頼し、歌ってもらったのだが会場の片隅に置いてあるグランド・ピアノが使用できると分かり、事前のリハーサルの段取りなどに手間がかかったが、おかげで当日は大好評だった。

自分もほんの目の前で聴かせてもらったが、やはりグランドピアノの会場全体に広がる低音域の地を這うような豊かで自然な広がりは思わず驚くほどで胸を揺さぶられた。

こういう音を聴かされるとオーディオ装置のような電気回路を通して出す音がなんとも貧相に聞こえて、どんなにお金を掛けても所詮は人工的な音に過ぎず結局は五十歩百歩みたいな感覚を一瞬覚えた。部屋の広さ、高さも大きな違いのひとつ。

当然のことながら自宅のオーディオでは(こういう音には)とても敵わないと思った。やっぱり音楽とオーディオは低音というか、ファンダメンタルな部分が極めて重要だなあ~。


 


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愛聴盤紹介コーナー~ピアノ・ソナタ32番追加試聴♯4~

2008年09月12日 | 愛聴盤紹介コーナー

たしか以前のブログで、クラシック音楽を本格的に鑑賞するには聴く側に”心のゆとりと静謐感”が必要だと書いたことがある。もちろん一般論としての話。

さて、これらがいったいどこからやって来るかといえば、人間の精神的な内面の話なのでなかなか難しいが、ひとつ言い切れるのはそのときどきにおかれた個人的な環境や体調によってもたらされるものと無関係ではないということ。

たとえば取り巻く環境ががうまくいっているときや前夜に十分睡眠をとって何となく体調が”いいな”と感じるときは、精神活動が活発になって音楽を聴く気にもなるし曲趣にも深く没頭できようというもの。

一方、なにか悩み事があったり前の晩に十分睡眠が取れなかったときなど気分・体調がいまいちのときは、なかなか音楽を聴く気にならないもの。

また、聴いたとしてもそういうときに限って音質にいろいろと不満を持ってしまい「こんなはずではない」とオーディオ装置のどこかをいじってしまう(クロスオーバーや線材など)のが落ちで、最後にはわけが分からなくなってしまうのがパターン。

というわけで、体調不良のときは聴覚の方も普通ではないのだからできるだけ音楽鑑賞を避ける、そして止む得ない場合でも「オーディオ装置は絶対にいじらない」というのを自分のささやかなモットーにしている。

さて、前置きが長くなってしまったが夏場はどうも音楽鑑賞には適さない環境。寝苦しさに伴う睡眠不調、それに日中の暑さも手伝ってなかなか本腰を入れて音楽を聴く気にならない。

先日、たまたま思い立って小泉純一郎氏激賞のイタリア歌劇「アンドレア・シェニエ」(DVD)を視聴してさっぱり良さが分からなかったのも体調不良のせいかもしれない(笑)。

しかし、不思議に最悪の体調のときでも聴ける曲目が在ってそれが
ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ32番(作品111)。

この32番はとにかく理屈抜きにメチャクチャに好きな曲目で自分にとって精神安定剤のような役割を果たしてくれるソナタ。第二楽章を聴くたびに「至福の時間~生きていてよかったなあ~」という気に(一時的にではあるが)させられる。

現在バックハウスを筆頭に8枚のCD盤を持っているが、つい最近これに新たに下記の4枚を加えてみた。いつまでもバックハウスばかりにこだわるのも進歩がないだろうとの殊勝な心がけ(?)。

1ヶ月ほど前に仕入れて、いよいよ寸暇を見つけて9月11日(木)午後にこの4枚の聴き比べをやってみた。

☆ 1 スティーブン・コヴァセヴィッチ(1940~ ) 1973年録音
   第一楽章:9分28秒   第二楽章:17分27秒

☆ 2 ユーラ・ギュラー(1895~1981) 1973年録音
   第一楽章:10分26秒  第二楽章:18分36秒 

☆ 3 ルドルフ・ゼルキン(1903~1991) 1987年録音(ライブ)
   第一楽章:9分18秒   第二楽章:19分1秒 

☆ 4 イェルク・デムス(不明) 1998年録音
   第一楽章:8分34秒   第二楽章:16分45秒

       
    1             2              3             4

ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタとなったこの32番はちょっと変わっていて二楽章しかない。第一楽章は「闘争と平和」第二楽章は「孤独な魂の歌」とも言うべきもので、重厚感から軽いスウィング風のノリ(リズム感)まで、極めて幅の広い表現力が求められるとあって、ピアニストにとっては弾きこなすのが難しく、幾多の名ピアニストがあえなく轟沈している超難曲だ。

早速4名の演奏について感想に移りたいがあくまでも私見であることを最初にお断りしておく。

誰にでも好き嫌いがあるので多様性を前提としつつ、これまでバックハウス、リヒテル、内田光子、アラウ、ケンプ、グールド、ミケランジェリ、ブレンデルをじっくりと聴き込んで比較した上での自分勝手な感想です。それに再生装置だってそれぞれに違うし・・・。

☆ 試聴後の感想

は全体的にスケール感に乏しく小粒でこじんまりとしている。リズム感に乏しい演奏で一音一音が間延びしていてそのあいだが空っぽになっている。途中から退屈感を覚えた。自分なら下位グループそれも末尾に分類する。

も1と大同小異。第一楽章の滑り出しはなかなかで「これはいい」とファースト・インプレッションが働いた。「直感は正しい、誤るのは判断だ」とはゲーテの言葉だが、残念なことに一転して後半から間延びしてしまって二楽章もこれの延長でリズムに乗り切れないまま終わってしまう印象。とにかく聴く側に退屈感を覚えさせてしまう演奏は失格だ。これも下位グループの末尾に分類。

は極上品。全体的に叙情味と包容感があり何といっても音楽に神々しさがある。一音一音を丁寧に紡いで磨かれた演奏の奥から音楽の神が語りかけているような印象を受けた。

さすがはゼルキン、やはり大家だなあ~。掛け値なしに久しぶりに深い感銘を受けた。もちろん上位グループに分類だがもしかするとバックハウスを上回っているかも。


は好演だが全体的にまとまりすぎた印象でイメージの広がりに乏しいと思った。中位グループに分類。ゼルキンの演奏を聴いた直後ではやはり物足りない。

最後にゼルキンと比較する意味でバックハウスのCD盤を引っ張り出して聴いてみたが、「剛毅で端正で堂々とした演奏」の一言に尽きる。
一方ゼルキンは「やさしさと包容力に満ち溢れた演奏」で第二楽章が前者と比べて6分も長いが散漫な印象を受けない。

録音はゼルキン盤のほうが明らかにいい。ライブなので大ホールに溶け込んでいくピアノの音の美しさが筆舌に尽くしがたいし、一発勝負という真剣さと音楽の自然な流れもプラス要素。

もし、ベートーヴェンが生きていたら、バックハウスとゼルキンのどちらに軍配を上げるんだろうかと想像するだけでも楽しい。

最後に小林利之氏の「ステレオ名曲に聴く」(東京創元社)にこの32番のソナタの名解説があるので紹介しておこう。(296頁)

「アリエッタと題し、深い心からの祈りにも通ずる美しい主題に始まる第二楽章の変奏が、第三変奏でリズミックに緊張する力強いクライマックスに盛り上がり、やがて潮の引くように静まって、主題の回想に入り、感銘深いエンディングに入っていくあたりの美しさは、いったい何にたとえればよいか。

ワルトシュタインやテンペストなどが素晴らしくて親しみ深いと言っても、まだこれだけの感銘深い静穏の美しさに比ぶべくもないことを知らされるのです。」

 


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音楽談義~イタリア歌劇「アンドレア・シェニエ」~

2008年09月06日 | 音楽談義

今年の4月から安請け合いをして地元自治会のお世話を引き受けたところ、何と想像以上の忙しさ。毎月の定例会が2回もあってその準備に追われるし、早朝交通安全、夜の防犯パトロールにもしょっちゅう駆りだされる。

おまけに、来る13日(土)には「敬老会」があってその段取りに走り回らされているという始末。一番年少だし新人なので仕方がないと諦めているが、社会の第一線を退くとこういうボランティアも恩返しのひとつだし、他人との接触の機会が増えるのでボケ防止には”まあいいか”と自分自身を慰めているところ。

さて、日中は残暑の名残があるものの、ようやく朝な夕なに初秋の雰囲気がそこはかとなく漂い随分と過ごしやすくなった今日この頃。

気候もだいぶよくなったので寸暇を縫ってようやくこれまで購入したまま放っていた次のDVDを聴いてみた。

☆ イタリア歌劇「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーニ作曲)
  1961年10月1日東京文化会館でのライブ 

以前のブログ
「小泉純一郎氏の音楽遍歴」で紹介した不世出のテノール歌手デル・モナコ主演の「アンドレア・シェニエ」。

小泉さん曰く『メロディーの美しさ、詞の素晴らしさに感動した。~ このオペラを観て感動しない人はもうオペラを観なくていい。』どうやら大変な入れ込みようである。この言葉に釣られて(?)購入したのだが、これが自分にはサッパリ良さが分からなかった。

まず音質が悪い。モノラルであり第一声が出たときに何というチャチな録音なのかというのが第一印象。これで聴く気を半分そがれてしまった。こういうときはボリュームを挙げて大きな音で聴くに限るが、幾分良くなったものの、今度はどうも肝心のオペラの方に溶け込めない。

画面も白黒だし、指揮者(フランコ・カプアーナ)、NHK交響楽団もいまいちで感心できない。ないないづくしで悪いがどうも良くない。他人が激賞しても、自分にとっては必ずしもいいとは限らないという好例。自分のこれまでの経験則からすると他人の推薦盤で自分のツボにはまる確率は1/3~1/4程度だから何も不思議なことではないが。

もしかすると何回も聴いているうちに良さが分かるのかもしれないが、目下の自分には聴くべき曲目が沢山あってそういうゆとりというかヒマがない。残念だがこれはお蔵入りの可能性大。

モーツァルトのオペラに比べるとイタリア歌劇はわざとらしさが鼻についてどうも馴染めそうにない。

音楽のみならずオーディオ装置が奏でる音もそうだが、どんなにもっともらしい理屈をつけてみても、結局、最後は個人的な
「好き、嫌い」に尽きるように思う。好みに合わないものはあまり無理をせずにそっと蓋をしておきましょう。

 


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音楽談義~音楽がタダになる日~

2008年09月04日 | 音楽談義

ひと口に音楽鑑賞といってもコンンサートなどの生演奏を楽しむ人、あるいはオーディオ装置を中心にCDソフトを楽しむ人などさまざまだが、自分を含めて後者に属する人は結構多いと思う。

オーディオ装置への投資額に比べるとCDソフトなんて微々たる割合だと言いたいところだがそれでも300枚近くとなると平均2000円として60万円ほどになるからばかにならない。約30年の長期間に亘っての出費だから目立たないだけ。

これからも好みのCDソフトが発売されれば買わざるを得ないところだが、2008年7月29日号(「エコノミスト」誌)の特集記事
「音楽がタダになる」(18頁~38頁)によると、CDを中心とした音楽鑑賞もどうやら大きな変革の時代に入りつつあるようだ。

とにかくCDの出荷額が激減している。過去最高を記録した98年の5879億円から9年連続で減り続け、2007年は3272億円とほぼ半分に縮小という有様で、これまでCD販売を最大の収益源として潤ってきた音楽業界が大変革を迫られている。


身近な現象では都会、地方を問わずCDショップがゾクゾクと廃業ないしは売り場面積の縮小などの一途をたどっているのを既にお気づきのことと思う。

 CD販売の絶対数の激減

 ネット通信販売への移行

 携帯電話の「着うた」による楽曲のダウンロードや米アップル社の「iPod」などの携帯プレーヤーの普及

などによるものだが、そもそも最大の被害者はレコード会社だろう。

CDが売れない要因の一つにはデジタル技術の進歩によるコピーーが簡単にできるようになったことが挙げられパソコンの「ファイル共有ソフト」によって多数の利用者間で「音楽闇市」が形成されている影響が大きい。

もうひとつの要因はネット上の音楽配信市場の急速な伸びで現在1曲200円程度、アルバムが1500円程度というが音楽の低価格化、・無料化の波が業界全体を襲ってきている。

同誌34頁には、いずれ
「音楽がタダ」になる日を見越して新たなビジネスモデルの再構築とともに世界的な業界再編の動きが始まっているとたいへん興味ある記事が掲載されていた。以下、要約しながら追ってみよう。

『あらゆる音楽が丸ごとタダで聴ける、しかも合法的に!』

会員制交流サイトの最大手、米「マイスペース」が近く常識を覆す音楽配信サービスを開始する。世界の4大レコード会社のうちEMIを除いて大手3社と提携しその音楽のすべてをサイトからユーザーに無料で聴かせるというもの。

無料の音楽で消費者をサイトに惹きつけ、サイト上に広告を掲載しアーティストのコンサート・チケットなどを販売して、これらの収入をレコード会社と分配しようとする新たなビジネスモデル。

これは、レコード会社側から見ると
「音楽ファイルがコピーされるのは仕方がない」との諦めを背景に、自社の音楽を水道やガスのように安くあまねく供給し、それをベースに創造性に富むIT企業が斬新なビジネスを編み出し、それに乗っかって新しい分け前を受け取ろうという狙いだという。

こういう新しい動きを見ると、消費者側としてもうまく利用しない手はない。とにかくCDを購入する必要が無くなるのだからたいへん喜ぶべきこと。

自分の場合、コストの削減と高音質の確保を両にらみに、CDを主体とした音楽鑑賞から軸足を「配信音楽 → iPod → ワディア170iトランスポート → ワディア27ixDAコンバーター」へと移そうかなあ~と考えているものの、当分の間は既存のCDプレーヤーとの並立になるだろう。

しかし、iPodの活用でさえも手ぬるいと思う人がいるのは当然で、パソコンに直接取り込んだ配信音楽をそのままデジタル信号としてUSBポートからオーディオ装置(DAコンバーター)に送り出すことも当然考えられる。

むしろこちらの方がストレートにデジタル信号を引き出せるので音質が良さそうだし主流になる可能性を秘めている。オーディオ機器としての能力を持った、たとえば駆動音が静かでプリアンプとチューナー感覚を備えたオーデイオ専用パソコンが発売されるのも時間の問題だろう。(自分が知らないだけでもう発売されているかもしれない。)

いずれにしろ「パソコン」がオーディオの主役とはいかないまでも重要な脇役になるのは目に見えているが、あとは何といってもクォリティが一番の課題で再生される音質と使い勝手の良さがカギを握っていると思う。 


 


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番組視聴コーナー~「七人の侍」誕生の軌跡~

2008年09月02日 | 番組視聴コーナー

音楽への熱気に比べると映画の方はいまいち気が乗らないが、それでも興味がないことはない。

「映画とは映像と音だ」と喝破したのはゴダールだそうだが、モーツァルト曰く「音楽に映像(演劇)が加わったのがオペラ」だとすると、映像に音が加わったものが映画ということになるから音楽と映画とがまったくすれ違うというわけではなさそう。

さて、これまで観てきたいろんな日本映画のうちで一番記憶に残る作品はと問われたとすると、真っ先にアタマに浮かぶのは
”七人の侍”(監督:黒澤 明)。


自分が小さい頃に製作されたものだから、もちろん当時は分かりようがないが、後年成長するにつれ、そして中高年になった今でも相変わらず観るたんびに何らかの発見があり価値を見出す映画である。

今年は黒澤監督没後10年になるとのことで、何かと黒澤作品が話題に上っているがこれほどの傑作になると製作の経緯とかいろんなエピソードについては折にふれ関係者によって語り継がれてきたし、関係書も多いので大体のことは知っているつもりだったが先日のNHKBSハイビジョンによる番組ではかなり新鮮な情報が得られた。既にご覧になった方も多いと思うが、自分の個人的なライブラリーとして残す意図で整理してみた。

放 映 日    2008年8月28日(木)21時~22時16分

チャンネル    NHKBSハイビジョン2

タイトル      没後10年 黒澤 明 特集 「脚本家 橋本 忍が語る黒澤作品」
           ~「七人の侍」誕生の軌跡~

出   演     脚本家「橋本 忍」  インタビュアー「小野文恵」

聴 講 生     シナリオ作家協会シナリオ講座の皆さん
           日大芸術学部、早大生、全体で75名の映画を研究している方々

                 

NHK小野文恵アナウンサー(「ためしてがってん」のレギュラー)のインタビューのもと、「七人の侍」の脚本を書いた橋本忍氏(90歳)が思い出話を語るという趣向で番組が始められた。

冒頭に「弱い脚本から絶対に優れた映画は出来ない。~ 映画の運命はシナリオが握っている」(黒澤監督の言葉)により脚本の重要性と合わせて橋本忍氏が紹介される。

橋本氏は黒澤監督の代表作「生きる」「七人の侍」を始め8本の映画の脚本を共同執筆し、今日まで全部で71本の脚本(ほかに「砂の器」など)を執筆された方である。

盛り沢山の内容だったが、以下3点に焦点を合わせてみた。

☆「七人の侍」の題名の由来

「これまでの日本の時代劇は歌舞伎の延長に過ぎない、今度は徹底的なリアリズムに基づいた大型時代劇を製作したい」との黒澤監督の意向のもとに当初の企画では題名「ある侍の一日」を取り上げたが、当時の時代考証の裏づけ資料が足りず没となり、次の企画がオムニバス形式の「日本剣豪列伝」だったがこれも起承転結のストーリーの展開が欠如していたため没となる。

雑談の中で、昔の侍の「武者修行」はどうやっていたのかが話題となり、「道場破り」から話が発展して、「寺院で施しを受ける」そして
「お百姓に雇われて夜盗の見張りをする」へと続く。

ここにきて、黒澤監督「出来たな」、阿吽(あうん)の呼吸で橋本氏「出来ましたね」、「侍の数は何人にしますか?」「3~4人は少ない、8人は多すぎる、7人にしよう」「それでは
”七人の侍”ですね」

☆ 「七人の侍のうち誰を生かし、誰を死なせるかはどの段階で決まっていたのか」

映画では結局のところ、野武士との戦いで七人の侍のうち四名が戦死するがその生死については、当初から一切決めていなかった。その場になっての状況で一番効果的なタイミングを計った結果によるもの。ただし、強いて言えば主役の勘兵衛(志村喬役)だけは生き残るのが前提だった。

☆ 脚本の共同執筆で相互にぶつかり合ったときはどちらのアイデアを取り入れるのか

これは聴講生からの質問によるもので出来上がった脚本が映画の成否を握っている以上、非常に重要なポイントだと思った。橋本氏の回答は、ずばり、それはリーダーの判断にすべて一任したとのこと。

当時、脚本は黒澤明氏、橋本忍氏、小国英雄氏(故人:おぐにひでお)3名が熱海の旅館に3ヶ月篭って書き上げたもの。

黒澤氏と橋本氏がそれぞれ同じ箇所を執筆し小国氏はいっさい執筆せず、そのかわりに「いい」「悪い」を判断して選択するというもので、リーダーは「小国旦那」(橋本氏言)の役だった。

「いい」「悪い」の理由は一切問わず語らずで、両名ともに理屈抜きでひたすら「小国旦那」の言うことを素直に聞いて書き直したそうだ。

この方式で出来上がった作品が「羅生門」「生きる」「七人の侍」などでこれは黒澤監督の珠玉の作品とされるもの。

一方で晩年の作品になると、黒澤監督は共同執筆の形態をとり続けるも自分が「リーダー」となって最終の良否を判断するやり方に至ったが、衆目の一致するところこれらの作品に精彩が失くなってきているのは明らかである。

どうやら
「プレーヤーは審判を兼ねない方がいい」ようで橋本氏からも、だから「生きる」と「七人の侍」は良い作品に仕上がったと、その辺の機微を伺わせるような趣旨のご発言があった。

とにかく、この映画は何度観ても面白いが幸いにもNHKがBSハイビジョンで黒澤監督没後10周年に因んで全30作品を9月に入ってから放映中である。

今後、もう出現しそうにない空前絶後の傑作、日本映画の
不滅の金字塔といってもいい「七人の侍」の放映日は次のとおり。何と黒澤監督のご命日に最高の作品をぶつけてきた。NHKもなかなか味(あじ)なことをする。

NHKBS2チャンネル 2008年9月6日(土)20時4分~23時32分(3時間28分)                  

 


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