「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~Axiom80のエンクロージャー交換~

2011年11月25日 | オーディオ談義

先日の試聴で少なからずショックを受けた湯布院のAさん宅でのウェスタンの「555+15Aホーン」の音。

その点、我が家の「Axiom80」は繊細な表現力が売り物で
ウェスタンにはない良さがあり、そっくり真似しようとは思わないし、もちろん真似もできないが、ああいう「野太い音」に少しでも近づけるようなチャレンジはやってみたい気もする。

そこで、数日後「Axiom80」を収納しているエンクロージャーをもっと容量の大きいものに入れ替えてみるとどんな音がするんだろうかと試してみることにした


SPユニットはエンクロージャー次第で音が激変するのは、
オーディオマニアならご存じのとおり。それに、使いだして4年ほどになるがいまだにこの「じゃじゃ馬ユニット」を十分に乗りこなしている気がしないのも(エンクロージャー交換の)動機の一つ。

           

この「Axiom80」(イギリス)については大半の方がご存じないと思うが、今からおよそ50年ほど前の真空管アンプ全盛時代に作られたユニットで当時のオーディオ専門誌でも好評を博し、オーディオ評論家の瀬川冬樹氏(故人)が愛用されていたことでも有名だった。

             

「本領を発揮したときの繊細で、ふっくらした艶やかな響きは絶品!」とあるのだが、同時に「使いこなすのには相当の力量が必要だ」とある。

「相当の力量」という言葉には、ちと耳が痛いが
自分にとってはやはり今でも両肩にずっしりとのしかかる、ちょっと重荷に感じるユニットである。

具体的に言うと「繊細さ」には満足しているものの、「ふっくらした艶やかな響き」を十分手に入れている感じがどうしても持てず、とても本領発揮とまではいっていないのが実状


今回のチャレンジはこのあたりへのアプローチでもある。

幸い、以前に「リチャードアレン」用のエンクロージャーを自作していたので、今回はそれに収納して鳴らしてみることにした。したがって「リチャードアレン」は当分の感「お払い箱」である。

相変わらずネジを開けたり、締めたり、「ハンダ付け」などの作業が2時間ほどで終了して、ワクワクしながら「音出し」したところ悪くはないが期待したほどではなかった。

ど真ん中に来る絶好球みたいな録音のCD盤を2日間ほど聴いてみたが全体的にのびやかな響きではなく窮屈そうな印象がする。ボックスの容積も大きくなり吸音材として詰め込んだ「羽毛」の量も増えたのにあまり功を奏していない。

やはり「Axiom80」は密閉エンクロージャーだと「呼吸不全」に陥るようで、背圧をうまく逃がしてやる工夫が必須。

市販のエンクロージャーだってバスレフにしたり、バックロードホーンにしたりといろいろ背圧を逃がす工夫をしているが、やはりこの辺が吸音材の使用と併せて自家製エンクロージャーをうまく使うポイントである。


そこで再度チャレンジということで、今度は裏蓋に1㎝口径の穴を沢山開けてみることにした。市販のボックスだと、とてもこんな思い切ったことはできないが、なにしろ自作なのでうまくいかなければ同じサイズと材質の板を買ってくればいいだけの話なので随分と気が楽である。

次の写真のように左右両方の裏蓋に124個の穴をドリルで開けてやった。

         

これで聴いてみたところ、全体的にごく自然な雰囲気になり「ふっくら」感が以前よりも増したのには驚いた。

もっと裏蓋の穴の数を増やすとどうなるか、試してみたい気もするが今回はこの辺で打ち止めして、今後の楽しみ事項に取っておくことにした。

「まあ、これでひとまず成功」と
いきたいところだが、最近、オーディオ仲間の奈良のMさんから「システムの一部をいじったときは2週間ほど時間をかけて、じっくり判断をすべきですよ」というありがたいメールをいただいたことを思い出した。

これは日頃、(自分の)ブログをご覧になってお気づきになったことなんだろうが、どうも自分は「気ぜわしい性格」なのか性急に結果を求める癖があるようだ。

今回はしばらく慎重に様子を見て判断することにしよう~。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~「野球にときめいて」~

2011年11月22日 | 読書コーナー

今年のプロ野球「日本シリーズ」は戦前の予想どおり、「ソフトバンク」の勝利に終わった。

「4勝3敗」という星数だけからすると「中日」の善戦ということになるが全体的な試合内容では
ソフトバンクが明らかに星数の印象以上に勝っていた。

とにかく、中日はまったく打てない!

野球ファンのカミさんが、あんまり打てないものだから(テレビで観戦中)「まったくスリルに乏しい、眠くなってしようがない」とこぼしていたが、勝った3試合などはすべて「2対1」だから、よくもまあこんな貧打線で日本シリーズに出てこれたものだと思うが、逆に言えば野球は「投手力+守備力」だけでかなり勝ち進めるんだということが分かったのも今年のプロ野球の大きな収穫だった。

本年から導入された「統一球」(飛ばないボール)の影響もあるのだろうが、各球団の関係者にとっては、これからの「チームづくり」に大いに参考になった一年だったといえよう。

野球の要素は「マネジメント」を別にして、投げる、打つ、守る、走るの4つしかないが、このうち「しっかりしたエース級を少なくとも3人そろえる」、「守備練習を徹底的にやる」、「盗塁を含めて全力疾走する」これだけで対策は結構いけそうである。

となると、「”打つ”ことの意義は一体何だ」という話になる。


プロ野球ファンとしてもう50年以上経つが、「打つ」ことに関してはいまだに不思議に思うことが多い。

たとえば、どんな強打者でも「10本のうち3本の確率しかヒットが打てないのはなぜ」「練習量が成績に素直に反映しないのはなぜ」「打球を遠くに飛ばす能力の差はどこに由来する」「打撃に限っては選手の好不調の波が極端に激しいのはなぜ」「40歳前後といえば一般社会では働き盛りなのに大半の選手の打撃寿命が尽きるのはなぜ」といった具合に、なぜなぜの連続。

そういう奥深い「打撃」について、自分の半生とともに率直に語ったのが「野球にときめいて」~王貞治、半生を語る~(2011年5月)である。

                    

なにしろホームラン数868本の世界記録を持ち、実際に超一流の打撃技術を極めた人物の言だから説得力がある。

野球に少しでも興味のある方は是非ご一読をお薦めしたい本である。

たとえば、次のような話。

「引退するのが3年早すぎた。900本を超えるのが目標だったのに、技術的なミスを40歳という年齢から来た衰えと勘違いしてしまった。自分の人生を書き換えたいくらいです。」にはちょっとショック。

ほかにも、「打者は10本に3本打てばいいと思うようでは駄目なんです。毎回、毎回、目をつり上げて打つ。打てなければ、なぜ打てなかったのかと考えるようでないと、10本に3本は打てない」

「当時(全盛時)の僕は真っすぐで打ち取られるのが嫌だった。変化球で三振したり凡打になったりするのは何とも思わないのに、直球で打ち取られると悔しくて恥ずかしくてね、それこそ穴に入りたくなるんです。江夏さんには真っすぐで空振りさせられてしまう。僕らの間で江夏投手の評価が高かったのはそういうところにあるんです。力負けするというのは、打者として一番嫌なのです。調子がいい時には特にね。」というバッター心理も面白い。

最後に、オーディオに”こじつけた”話をひとつ。

王といえば長嶋だが、両者の打撃術は正反対である。

王さん曰く「長嶋さんは天性の対応力がありましたね。どんなに体勢が崩れていても、球をバットの芯でとらえることができる。これは打者であれば誰もが欲しがる才能です。百年に一人の天才でした。その一方で、とんでもなく甘い球を空振りしたりして相手投手からすれば攻めにくい打者だったでしょうね。

僕はといえば相手の失投を見逃さずに打つタイプの打者です。捕手が”あっ!”と言った球は必ず打ってみせると考えていた。したがってストライクゾーンの4つの隅に来た球は打たなくていいという説です。その代り、真中に来る球は逃がしてはいけない、空振りしたり、ファウルにしたりするのは駄目です。それが僕のバッティング哲学かな。バッティングは単純に考えないとね」

王さんが述べるストライクゾーンの真中に来る「まともな球」と、4つの隅に来る「変則的な球」とをきちんと振り分ける考え方はなかなか面白い。

たとえば我田引水になるがオーディオもストライクゾーンの球をすべてヒットにしようと思うから難しくなるのではあるまいか。

各自のオーディオ装置にもいろんな癖があってやはり曲目によって向き不向きがある。

たとえばクラシックは明るめの音でスピーカーの後方に広がるのが理想だし、ジャズは暗めの音で前に出てくるのが理想とされている。両方うまく鳴らそうなんてどだい無理な話。

さらにオーディオマニアは様々な試聴盤(CD)を聴いて一喜一憂しながら再生状況をつぶさに判断しているが、ご承知のとおりその試聴盤の演奏の録音状態がレーベルごとに違うしそれぞれ臨場感とかに優劣の差がある。

クラシックを主体に考えると、さしずめ1980年代以降のデジタル録音されたCD盤がストライクゾーンの真中あたりに来る球とすると、4つの隅に来る難しい球というのは1970年代以前のSPやレコードから焼き直したCD盤だと言えよう。先ず周波数レンジが狭い。

したがって、これらの再生が”たまたま”うまくいかないからといって悲観してオーディオ装置をあれこれ”いじり回す”のは見当違いの源かもしれないと、王さんのコメントを読んで思った次第。

どうやら「長嶋型」よりも「王型」で行く方が効率的のような気がしてくる。

とはいえ、クラシックの場合、指揮者や演奏家の高い芸術性を求めるとなると、正直言って近年のものはちょっと物足りない。どうしてもフルトヴェングラーなどが活躍した1950年代を中心とした黄金期に求めざるを得ず、簡単に「変則球」を切り捨てるわけにもいかない。

そういう演奏はレコードで聴くという奥の手もあるが、最新のデジタル録音による演奏に限ってはCD機器に頼らざるを得ないのが現実。

「芸術性とテクノロジー」が両立していれば本当に言うことなしだが、そういうのは滅多にない。果たして、どちらを優先させようか、結局簡単に結論は出せそうにない問題である。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「凄い音」~

2011年11月19日 | オーディオ談義

先日、カミさんに付き合わされて買い出しに行ったときに車の中で次のような会話をした。

「おい、別府には大きな旅館やホテルが沢山あって全国からの観光客も多いが、中にはオーディオマニアも結構いると思うんだ。そこで経営主と契約してそういう連中を我が家に引っ張り込むってのはどうかな。もちろん有料だぞ!」

何だか自分の趣味を副業にしようという”さもしい根性”が透けて見えるようだが、お客さんの喜ぶ顔を見たいという気持ちも一部にはある。若い頃に「クラシック音楽喫茶」をやりたかった夢の名残(店名まで「アマデウス」と決めていた!)が時折ひょいと顔を出す。

すると、カミさん曰く「ダーメ、ダメ。この世の中にオーディオマニアがどれだけ居ると思ってるんですか。ほんの微々たるもんですよ。それに、マニアの方は自分の音が一番いいと思っている人ばかりです。我が家に聴きにくるお客さんだって、失礼になるから”あからさまに”欠点を指摘しないだけです。自分の音が人よりも”いい”なんて思うのは幻想に過ぎないと思います」とピシャリ。

「う~ん、なるほど、そんな考え方もあるのか」

さすがに”生き馬の目を抜く”保険業界で30年以上も鍛えられてきただけあって、物事を客観的に見る目と人間観察はなかなかのものがあると、ちょっぴり感心した。

オーディオマニアが「よそ様のお宅」で音を聴かせてもらうというのは、まあ”そういうこと”に近いような気もするところ。

五味康祐さんの著書「西方の音」にも似たような記述があって「自分の奥さんとひそかに比べているようなもので、結局、最後は自分を納得させて安心して帰って行くのだ」という。

ところがである。そういう通念をぶち破るような衝撃的な体験をつい、この間してしまった。

このブログにもオーディオ仲間として「湯布院のAさん」という表現でたびたび登場している方だが、実名でも構わないということなのであえて挙げさせてもらうと「秋永祥治」さんのお宅での体験である。

秋永さんは音楽とオーディオの趣味以外にも以前からずっと古代史の研究をされており、11月の初旬から「息長氏は秋永氏である」とのタイトルで研究成果をブログに搭載されている。

こと、ブログに関しては当方が先輩でありプロバイダーが同じ「gooブログ」ということもあって細かな打ち合わせに行った時のことだった。

とにかくオーディオでは有名な方で、数年前にオーディオ専門誌「無線と実験」(月刊)の巻頭で「リスニングルームの特集」が組まれたことがあるし、全国津々浦々、様々なマニアの音響を実際に試聴されて多くの場数を踏まれ、それに応じてオーディオ機器も充実した3系統のシステムを活用されている。

1階のメインの部屋にウェスタンの「555+15Aホーン」を中心としたシステムが置いてあり、二階にはヴァイタボックスの「クリプッシュホーン」と「JBLの3ウェイ」の二系統のシステムが置いてある。

            

はじめにウェスタンのシステムを聴かせてもらったが、我が家とはまったく次元の異なる音に心底から衝撃を受けた。

試聴盤が「ダークダックス」のコーラスだったが、野太いスケール感豊かな声のもとに一人一人の声が実に明瞭に聴こえ、細かい音も実によく拾っている。

こういう高い次元の音を聴かされると、もう、どんな音だって五十歩百歩のような気がしてくる。

「とてもこんな音は我が家では出せません」とあっさり兜を脱いだところ、「この前、宮崎県から試聴に来たマニアの方も同じことを言ってました」と秋永さん。

個人的な意見だが、つくづく
オーディオは500ヘルツ以下の中低音域が勝負だと思った。中高音域はどんな装置でも”そこそこ”出せるが、中低音域の重量感と分解能を両立させるのは至難の業である。

秋永さんが、ただ中高域が澄んだだけのスッキリした音を「箱庭のようなきれいごとの世界」と言われて全然評価されないのもこれでよく分かる。

とはいえ、人それぞれで好き好きの世界なのだが。


とにかくシステムはそのままなのに、以前聴いたときの”ちょっと気になる点”もすっかり改善されている印象を受けたので「どこをどう変えたんですか?」と率直に訊いてみた。

「気心の知れた○○さん(自分のこと)だから明かしますが」、と前置きされてネットワーク関連の工夫を2点挙げられた。

「たったそれだけのことですか」と二度びっくり。

オーディオは本当に「ノウハウのかたまり」だと改めて思い知らされたが、やっぱり土台となるシステムの方もちゃんとしておかないとねえ~。

帰途、これから我が家の音を聴くたびにどう自分を慰めようかとつらつら考えたことだった。

「知らぬうちが花」という言葉があるが、こういう身近な「凄い音」に鍛えられるなんて、果たして自分は運がいいのか、それとも運が悪いんだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独り言~「人生後半の生き方」」~

2011年11月17日 | 独り言

こんなに人間の平均寿命が長くなると、やはり最後には自分の人生を納得しながらニッコリ笑って死にたいもの。

去る9月に94歳と11か月の長寿をまっとうした母を振り返ってみると、やっぱり「現在」というのが一番大切みたいで、「今さえ良ければ過去は全て帳消し」のような印象を受けた。

あるテレビ番組で「晩年は人生の総決算」で、マラソンを人生にたとえるとヤマ場は後半にありラストで勝負が決まるようなものと言っていたが、
その重要な50歳代以降の人生の指針を36名の著名人が記載している本がある。

  「一個人主義」(2008.4.25、KKベストセラーズ刊) 

                 

それぞれに読み応えがあったが、作家などの自由業が多いためか「人生後半は楽しく遊んだ人の勝ち」
みたいな論調が多かった。

たとえば、浅田次郎(作家)
さん
「定年まであと何年」と考えるから苦しくなる。「100歳まで生きる」と思い込めば、人生が楽しくなるんです。

次に、大前研一(経営コンサルタント)
さん
「50歳になったら成仏して、好きなことだけをやる生き方に目標を変える。」

という具合。

たしかに共感を覚える部分もあるが、後半期になっても人それぞれの環境が違うので、こういう自由人たちの意見を紹介しても意味がなさそう。もっと精神的に指針となる生き方を問いたいものだ。

さて、36人の中で一番印象に残ったのは、「鎌田 實」(医師:諏訪中央病院名誉院長)
さんだった。

「どん底の人生でも、投げ出さない人が幸せになれる」
と題した小文。ややシリアスな内容だが自らの体験を率直に綴っただけにズシリと心に響いてくるものがある。

~以下引用~。

『人間の中には”獣”
がいるって僕はそう思っているんです。実際、僕は18歳のときにオヤジの首に手をかけているんです。

親父はタクシーの運転手をしていて、心臓病を患った女房を抱えて少しでもいい治療を受けさせたい、医療費を稼ごうと苦労して毎日15時間くらい働いていた。家も貧しかった。

高3の春に親父に「大学にいかせてくれ」と言ったら「うちは大学なんかにいかなくていい、いく必要はない」とつっぱねられた。泣きながら何度言っても、ただ「ダメだ」とだけ。理由すら説明してくれない。反対されるなんて考えてもいなかったからたいへんなショック。

だけど夏休みになっても、どうしても進学をあきらめきれなくて・・・。自分の人生だから投げ出すわけにはいかない。もう1回泣きながら、親父と対決するんです。「どうしても大学にいきたいんだ」と言いながら首に手をかけた。でも、締めあげなかった。首をゆすりながら、泣き叫んだんです。

そしたら、親父も泣き出してふたりで床にへたりこんだ。そのあとで親父に言われたんです。「好きなようにしろ。だが、何もしてやれないぞ」「うちみたいな貧乏人、弱い人のための医者になれ」と。

昨年の秋、関西で16歳の子が父親の首を斧で切断した事件がありましたがほんのわずかな差なんです、18歳の僕とその16歳の子と・・・。僕にはいまも18歳のときに現われたその獣
が潜んでいるんですから。

は16歳の子だけじゃなくて、誰にも潜んでいると思うんです。人間の中の獣を暴れさせないために、感動するような音楽や小説、素晴らしい絵があり、いい家族が必要なのではないか。

その獣
を暴れさせないための仕組みがもともと日本には豊かにあったのに、地域社会が壊れたし、成果主義を前面に押し出してからますます社会がギスギスしてそのうえ家族までもがうまくいかなくなった・・・。

世の中の獣
が暴れださない仕組みがものすごく弱まっていると思うんです。』 

~以下略~。

※ 鎌田さんが両親の実子でなかったことをはじめて知るのは35歳のときだった。

さて、「誰にも潜んでいる”獣”」で連想するのが、どなたの記憶にも残っている先年の秋葉原の通り魔殺人事件。7人の犠牲者が出た大惨事である。

加害者は派遣社員で年齢は30歳前後、背景にあるのが家族との断絶、現状に対する不満、将来への不安、ハケ口のなさなどで現代の世相と見事に織り重なっている。

「一体どういう育て方をしたんだ」と親に対する非難の目を向けることはたやすいが、一方では我が子でさえも、置かれた状況によっては心の中に潜んでいた獣性を一気に爆発させる行為をおこす可能性だってなきにしもあらずと、戦慄を覚える向きだってあるかもしれない。

この種の犯罪によって無辜(むこ)の被害者をこれ以上増やさないためにもこういう「人間の中の獣」
を暴れさせないための何らかの妙案がないものかとつい考えてしまう。

芸術、文化、スポーツ、読書など何か一つでもいいから熱中できる趣味を持つのが一番ではなかろうか。

昨日(16日)のNHKの人気番組「ためしてガッテン」では誰もが悩む腰痛の原因は意外にも腰ではなくて脳の「側坐核」がストレスで機能しなくなるのが大きな原因だと報じていた。

犬を飼い始めるとストレスが緩和して腰痛が良くなった実例が紹介されていたが、犬の飼育と同様に音楽やオーディオの趣味もけっして無意味ではなく実は体調維持に非常に効果があると分かって、まさしく「我が意を得たり」の思いだった。

ただし、あまりに趣味が高じるとかえってストレスになるようで「ほどほど」がいいようだが、果たして「凝り性」の自分はどうなんだろう?


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「七転び八起き」~

2011年11月15日 | オーディオ談義

これまで長い間、散々(オーディオの)実験を繰り返してきたが、たった一回でうまくいくことは滅多にないので、期待は出来るだけ抑え気味にして「七転び八起き」の精神で行こうというのが自分のモットーである。

聴いた当初は何となく良くなったように聴こえるものの、時間の経過とともにいろんな不満が出てくるものだ。

そもそも、試聴盤の録音状態だってそれぞれにマチマチなのですべての曲目を一つのスピーカーシステムでうまく鳴らそうなんてどだい無理な話。結局
ホームランを狙う一発屋になるか、クラシックもジャズなども平均的に鳴らす方向に行くかの話になるが、自分はシングルヒットを狙うアベレージヒッターでいいと思っている。

新たにチャンデバを導入した「ウェストミンスター」だがもっと可能性を秘めているような気がして
出来るだけのことはしてみようと実験をしてみた。

果たして吉と出るか、凶と出るか。ダメなときは元に戻せばいい。

☆ タンノイの中高域ユニットの交換

何だか粗探しをするようだが「レクイエム」(モーツァルト)の混声合唱を聴いていて、もっと中高域が豊かに鳴ればという気がした。

何せ使い始めて20年近くなるので経年劣化しているのか、それともタンノイ独自のネットワークの”つくり”の中にその辺をうまくコントロールするカギが隠されているのかもしれない。

これに関連して今回の一連のタンノイにかかる記述について、たいへんお世話になっているオーディオマニアの方からメールをいただいた。

○ タンノイ・ネットワークのコイルの巻き線が細いからといって見た目だけの判断は危険です。最終のスピーカーボイスコイルを考えてみてください。非常に細い線です。

ロールオフ、エナジーの接点の排除と電解コンデンサーの容量確認、あるいは高音質フィルムコンデンサーを交換してみてはいかがですか

 新たなシステムの試聴のときには「合唱曲」を選ぶといいですよ

実にありがたいアドバイスで、オーディオは奥が深くて即断は禁物だと深く反省。


ただ、オリジナルのネットワークを復元しようにも120㎏ほどの重さがあるウェストミンスターの大きな図体を部屋の隅にピッタリ貼り付けているので、大人が3人がかりほどで動かさないと裏蓋を開けるのはとても困難。

したがって、今回は手軽な手段として中高域ユニットをJBLのLE-85ドライバー(以下「85」)に替えてみることにした。もちろんウッドホーン付。

             

☆ 周波数レンジのクロスオーバーの変更

この「85」はタンノイの高域ユニットが1000ヘルツ以上で設定されているのに比べて500ヘルツ以上と低い周波数までカバーできるようになっているので、とりあえずチャンデバを外してこれまで使い慣れてきたコイルとコンデンサーを使って500ヘルツ付近で低域と中高域をクロスさせたネットワーク(6db/oct)で聴いてみた。

ウェスタン社製の鉄芯入りコイルやオイル・コンデンサー(10μFを3個パラで接続)の端子とSPコードの「ハンダ付け」がたいへんだったが、1時間ほどで完了してさっそく音出し。

ウ~ン、なかなか悪くはないが手放しで良くなったと喜ぶほどでもない。表現のしようがないが、何だか”すんなり”割り切れる音ではない。

ここにきて、ようやくタンノイが40~1000ヘルツまでの(人間の耳にとって)一番大切な周波数レンジを、なぜ1個の低中域ユニットでカバーしているのか、それなりの意味があることを教えてくれた。

人の声はバス(男性低音)からソプラノ(女性高音)まで倍音を含めておよそ100ヘルツ~10000ヘルツの周波数レンジに収まるが、基音は「100~1000ヘルツ」である。

このレンジは人間の耳が一番敏感に感じ取る部分とされており、生きていくうえで絶対に必要な「他人の声を明瞭に聴き分ける」ことができるのもそのお蔭だが、タンノイはこのレンジの中に違うユニットを持ってきて、いたずらにクロスさせて混ぜ合わせ不自然な響きをしないようにという奥深い配慮をしているわけだ。

やっぱりタンノイの低域ユニットの受け持ちは設計どおり1000ヘルツあたりまで持たせてやるのがベストのようで、おそらくボックスの”つくり”もそれに合わせているのだろう。

というわけで再び1000ヘルツでクロスさせた「チャンデバ」の復活。やはりこちらの方が圧倒的にいい。

結果的には、周波数レンジのクロスオーバーはそのままにしてタンノイの中高域ユニットをJBLの「85」に替えただけになったが、慎重に中低域のユニット(HPDー385)と「85」のボリューム調整をした後に「レクイエム」を聴いてみると合唱の人数も随分増えたような印象がして実にバランスよく聴けた。

中低域ユニットがタンノイ、高音域のユニットがJBLと、まるで水と油みたいな組み合わせに思わず苦笑が出るが、「85」のウッドホーンのゆったりとしたまろやかな響きが中和剤の役割を発揮しているようだ。

もちろん、人それぞれでオリジナルのウェストミンスターを好む人も沢山いると思うが、自分はこちらの方がどちらかといえば好き。

タンノイファンに一度聴いてもらって判定してほしい気がする。

もっとも、低域の重量感と解像度がもっと欲しい気もするが、レンジよりも音像定位とハーモニーを重視するスピーカーだからこの辺が年貢の納め時だろう。

とにかく、これでやっと一段落。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽談義~モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」~

2011年11月12日 | 音楽談義

11月8日(火)の午後、オーディオ仲間のMさんが珍しく久しぶりにお見えになった。前回のご訪問から少なくとも半年以上は経っているはず

この間の我がオーディオシステムの変遷もかなりのもので、チャンデバの導入やパワーアンプ2台(真空管)の改良などで以前よりもずっと良くなっていると自負しているので、”ご意見拝聴”の丁度いい機会。

はじめに、ご所望があったのはベーム指揮の「レクイエム」(モーツァルト作曲)。

去る9月27日に逝った母に捧げる「鎮魂歌」というご配慮があったのだろうと、こちらで勝手に推察している。

ご承知のとおり、この「レクイエム」はモーツァルト(1756~1791)が亡くなる直前に作曲に取り掛かったがとうとう未完のままに終わった作品で、最後のパートは弟子のジェスマイヤーによって補筆されているもののいまだに傑作の誉れが高く、レクイエム(鎮魂歌)の中では最高峰とされているもので、まあ、モーツァルトの遺作といっていい。

第一システムの「Axiom80」で聴いていただこうか、第二システムの「ウェストミンスター」にしようかと迷ったが、最近新たに導入したチャンデバのこともあって、まずウェストミンスターからスタート。

じっと黙って聴いているMさんは音質についてどういう感想をお持ちなんだろうかと考えるうちに終盤のジェスマイヤーの補筆のパートに差し掛かったところで、Mさんから「ここまででいいよ」との一声。

これからの展開は天才(モーツァルト)と凡人(ジェスマイヤー)の才能の差が歴然としているので”聴くに及ばず”といったところだろう。

モーツァルトの天才ぶりについては、今さらの話だがついこの間も思い知らされたばかり。

先日(11月2日)のNHKのBSハイの番組「名曲探偵アマデウス」でモーツァルトの「クラリネット五重奏曲」が流されていた。

若い頃に夢中になった想い出深い室内楽曲だが、”もう、とっくの昔に卒業した”と思っていた曲目なのに、テレビ音声ながら改めて聴いてみてクラリネットのふっくらとした響きと典雅、気品、愁いに満ちた旋律に深い感銘を受けた

「やっぱり、いいなあ~」と思わず”ため息”が出て、急いで手持ちのCDを引っ張り出して聴いてみた。

     

歴史的名盤とされる「ウラッハ」盤(モノラル)と「プリンツ」盤(ウィーン室内合奏団)がそれで、やはりウラッハ盤は演奏そのものはいいものの1950年代初頭の録音なので響きの豊かさに不足を感じて、途中からプリンツ盤に切り替えた。

(ウラッハ盤は)明らかにデジタルへの焼き直しの失敗で、原盤のレコードで聴くと絶対的な強みを発揮するだろうとおよそ推測がつく。

この両盤ともにカップリングされているのがクラリネット五重奏曲の双璧とされるブラームス作曲のもので、結局これも合わせて続けて聴いてみたわけだが、さすがのブラームスでさえもモーツァルトの才能の前には完全に色褪せてしまうとつくづく痛感した。

モーツァルトの豊かな楽想のもとで滔々と流れていく調べに対して、ブラームスの作品は不自然さと窮屈感をどうしても拭えない。この差は小さいようで非常に大きい。

以上のような話をMさんにしたところブラームスのクラリネット五重奏曲だってたいへんな名曲だよと援護されるのだが、結局「モーツァルトが凄すぎる」という結論に落ち着いた。

ちなみに「クラリネット五重奏曲」の演奏者はほかにもカール・ライスター(ベルリン・フィルの元首席クラリネット奏者)が有名だが、何回(たしか4回くらい)も録音していてちょっと食傷気味。

個人的な意見だが演奏家は同じ曲目を何回も録音すべきではない。以前に録音した演奏がそんなに不満だったのかという話になるし、コンシューマーだってどの盤を購入していいのか迷うのが関の山で、まあ、せいぜい2回までくらいなら許せるところ。

たとえばグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」(バッハ)はデヴュー当時と最晩年に2回録音しているが、別物かと思うほどの演奏でたしかにそれなりの必然性を感じる。

一方、カラヤンはオペラ「魔笛」(モーツァルト)を何回も録音しているが、一番いいのは最初に録音した1952年盤(テノール:アントン・デルモータ)で、あとは十把一絡げ。


なお、Mさんに
この曲目の決定盤をお訊ねすると近年は「シフレ」演奏のものが人気があるのこと。はじめて聞く奏者だがHMVのネットで「まとめ買いの割安セール」のときに本命盤と抱き合わせで購入してみようかな。

さて、再び話はオーディオに戻って、次に同じ「レクイエム」を今度は第一システムの「Axiom80」で聴いてみた。

音の佇まい、奥行き感、伝わってくる浸透力などなかなかいい面もあったが、ハーモニーとか音のまとまりについては明らかにウェストミンスターに軍配が上がってなかなか甲乙つけがたしだった。

果たして、どちらをメインにしようか・・・。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~「世に棲(す)む患者」~

2011年11月10日 | 読書コーナー

中井久夫氏の著書「世に棲(す)む患者」は精神科医の視点から興味深い事柄が書かれてあったので2点ほどピックアップしてみた。

              

☆ 医療における人間関係

○ 頼りになるのは母方の”おじ”(緑色の部分は引用)

精神科の治療では患者の家族や親族の協力が絶対に欠かせないが、そういうときに誰に見当をつければいいかという話である。

家族に協力を頼むときに一番話を聞いてくれる人、これはまず母方の「おじ」を探せというのが私なり、私の友人たちの合言葉なんです。

これはどういうことかと申しますと、だいたいにおいて父方のおじさんの頭には「何とか家」という、家のことがどうしてもあるわけです。どっちかというと、建て前的な世間の社会通念をそのまま押しつけるという側に回ることが多い傾向があります。

ところが母方のきょうだいというのは、妹なり姉さんも「何とか家」に行って苦労しているだろうという思いがあるわけです。

ことにその子どもさんが病人になると、特にそういう思いがあるんでしょう、何とかしてあげたいと、それで、声をかけましたら「私どもでできることなら何でも」と言ってくれるのは母方のおじさんが一番なんです。

そんな話を精神科の中でしますと、「自分も進学とか、就職とか、あるいは恋愛とかいうときにいきなりオヤジにぶつけると頭からダメと言われる可能性が高いので、”おじ”あたりにまずちょっと聞いてもらった」というような経験の人が多うございまして、なるほど、これが世間一般の隠れた智恵なんだなあと思いました。

むろん、おばさんでもよいわけですが、おばさんの家には身体や気持ちを休めに行くことが多いようですね。

以上のようなご指摘だが、これまで別に意識したことはなかったが自分に照らし合わせてみると心情的にまったく附合するので驚いてしまった。

自分は三男の末っ子で、長兄と姉にはそれぞれ3人の子供がいる。

その子供たちにとっては自分は同じ「おじさん」にあたるわけだが、自分からすると長兄の子供たちと姉の子供たちに対しては距離感がかなり違うのである。

長兄の子供たちには「ちゃんと、しっかりしてくれよな」という意識が常に潜在的にあって叱咤激励するような見方をしているものの、姉の子供たちには何だかいつも不憫な思いが先に立って「何かあったら出来る限り加勢してやりたい」という気持ちがあるのだが、そういう訳だったのかとようやく合点がいった。

もうひとつ、長兄との男同士の関係よりも、「姉と弟」という関係で小さい頃から仲良く育ってきたという背景もあるような気がする。

皆さんの場合はいかがだろうか?

○ 「ホウー」という合いの手の使い方

人間というのは、だれか一人でも話を素直に聞いてくれる人を持っていると随分と精神健康によいそうで、精神科医の究極の役割は「患者の話を聞いてあげること」にあるという。

私の年来の友人で非常に精神療法がうまいということで、若いときは日本のフロイトではないかと言われた男がいます。彼は今、大学をやめて故郷の精神病院で働いております。

彼のような面接の達人と言われている人が、私に「君、患者さんとの話の中で一番大切な言葉というのは何と思うか」ということを訊かれたわけです。私はウーンとしばらく考えていますと、彼の方がそれは”ホウー”という言葉だと。

”ホウー”というのは合いの手なんですが、患者さんが何か話すときに、それをホウーと言って聞くというんですね。

このホウーという声の出し方が何十通りもあるんだそうでありまして、「あっ、ホウ」とか「ホウー」とか、いろいろあるわけで、適切なときに適切な口調でホウーと言うと患者さんの話がだんだんまとまってくるものなんだと。

実に成る程と思ったわけです。

自分独りで考えていると振り子のように考えが行きつ戻りつしてまとまらないとき、親友なり話のわかる”おじさん”というようなところに話をもっていきますとフン、フンと話を聞いてくれている段階でだんだん自分の考えが分かってきた経験がきっとおありだと思います。

人生決断の時にはこういうことが非常に大事だったんじゃないかという経験が私にもございます。

そういう簡単なことで人助けになるのなら、これからはできるだけ相手の話を「ホウー」「ヘーッ」「そうですか」「成る程」といった調子で、適切に合いの手をうちながら「聞き上手」に徹することにしよう。
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「二束三文のオーディオ機器」~

2011年11月04日 | オーディオ談義

亡き母の四十九日の法要(10月29日)が済んだ翌日から、泊まり込みでやってきた姉(福岡在住)と家内によって遺品の整理が始まった。

衣服類が大半で、もはや時代遅れの地味なものばかりなので廃棄処分が妥当なのだが、「思い出」という大切な付加価値があるものだから結局ほとんどを捨てきれず5個の段ボールに詰め込んで福岡行きとなった。

中でも「着物」の処理が厄介で箪笥の奥深く丁寧に直されていたものばかりでいずれもほぼ新品に近いものだが、○○万円したものでも業者が引き取るときは千円単位だという。

ウ~ン、何ともはや!

こういうことを現実に見聞すると、縁起でもないが我が家のオーディオシステムも自分に”万一”のことがあったときは似たような運命を辿ることだろうと、つい考え込んでしまった。

オーディオシステムは衣類などとは違って大きなスペースを占めるのが難点である。

我が家の場合は「6m×7m」の一部屋すべてがそうだが、すべての機器を処分してこの部屋がまるまる空くとなると家人にとってはモノも片付くし部屋の余裕もできてさぞや快適に過ごせることだろう。

もちろん、しばらくは「思い出」との綱引きが続くことになるだろうが、それも時間の問題でいずれ処分の憂き目にあうことは間違いなし!

業者がホクホク顔でやってきて「二束三文」でひとまとめにして引き取っていくシーンがまるで目に浮かぶようだ。

う~ん、口惜しい!

とはいえ、「お前は他のマニアの垂涎の的になるような魅力的なオーディオ機器を持っているのか」と問われるといささか自信がない。

いずれも一昔前の古い機器ばかりである。

いまや、音楽配信を主体とした「PCオーディオ」の時代となり、手軽にいい音質を楽しめるようになっている。

デジタルの世界は日進月歩なので、むかし「清水の舞台から飛び降りる」思いで購入したワディアのCDトランスポートやDAコンバーターにしても、もはや時代遅れの産物に過ぎず、あまり欲しがる人もいないことは容易に想像がつく。

まあ、オークションでも簡単に手が入らず、一般的に通用しそうなのはWE300BやPX25などの古典管やSPユニットの「Axiom80」、改良に改良を重ねた真空管アンプくらいのもの


こういうものはせめて価値が分かって大切に使ってくれる人に引き取ってもらえればいいという程度で、もう十分楽しんだのだから、あとは「二束三文」でも仕方ないと思うのが”まっとう”な考え方というものだろう。

さて、これに関連して以前、ある人から次のような話を聞いたことがある。

もの凄いオーディオ愛好家がいて、噂にたがわず高価な機器(すべて合わせると軽く1千万円以上!)を買い揃えて楽しんでいたが突然、遺言する暇もなく心筋梗塞でポックリ逝ってしまった。

残された家族は、その時はもちろん悲しみにくれたがそのうち月日が過ぎ去るとともに故人の部屋で大きなスペースを占めている機器群が次第に疎ましくなってきた。

もちろんオーディオについてはまったくの無知で、どの機器が高価かそうでないかも含めて遺族の誰もがさっぱり見当がつかない。

そこでとうとう、すべてひっくるめて200万円で誰か買ってはくれまいかという話になり、故人と生前からお付き合いのあった”とある愛好家”が購入したという話。

こういう成り行きはまずオーディオ愛好家が亡くなったときに大なり小なりどこの家庭でも繰り広げられる光景だろうがホントに身につまされてしまう。

ただし、購入した方もお得な買い物のようにみえるが、長い目で見ると決してそうではあるまい。

こういう機器を購入するぐらいだから、これまでそれなりの機器で楽しんできたことだろうし、どんなに高価なものでも自分の好みに合わなければ無用の長物にすぎないので、結局、宝の持ち腐れとなってしまう可能性大である。

第一、使わないままに置いておくそのスペースがもったいない。音響空間には余分なものを置かない方がいいに決まっている。

余計な不動産と同じで年を取ってから不要なものを持っておくと”ろく”なことがないので、程よい年齢になると使ってないオーディオ機器の始末をアタマの片隅に描いておいたほうがいいのかもしれない。

こういうたぐいの話を知り合いのオーディオ愛好家に聞いてみると、亡くなった後の話どころか、むしろ現在でも「使っていない機器の置き場所が邪魔でしようがないので早く処分してください」と奥方様に言われて”困っている”とこぼしている方もいる。

まったく我が家とそっくり。

ところが一方ではそうは簡単に処分できない事情もある。

オーディオ機器はちょっとした改良や他の機器との組み合わせによって見事に「生き返る」可能性があるので、現在使っていなくてもそう簡単には手放せないというのが愛好家としての実体験から出た本音である。

自分の場合もこれまで不要だと思った機器からどれだけ助けてもらったことか枚挙にいとまがないほどで、「手放すか否か」ほんとうにその辺の見極めが実に難しい。

まあ、耳の機能も考え合わせるとあと10年くらいは楽しめそうなのでゆっくり考えるとするかな!?


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~江戸川乱歩賞受賞作品「東京ダモイ」~

2011年11月01日 | 読書コーナー

「読書」は「音楽&オーディオ」と並んで、ずっと続いている趣味。たっぷりとした時間をいいことにミステリーを中心にジャンルを問わず手当たり次第に読みまくっている。

ただし(本を)購入すると、置き場所に困るのでもっぱら図書館通い。もちろん、お金もないことだし~。

現在、県立図書館をはじめ周辺の3つの公立図書館から貸出限度いっぱいの5冊づつ借りているが、貸出期限が2週間となっているので1か月にするとおよそ40冊ほど読んでいる勘定になるが、そのうち5冊も当たればいい方。

行き当たりばったりでは気に入った本に出会う確率が低いので、新聞の新刊書紹介欄や新潮社、講談社、角川書店の書評誌(月刊)には必ず目を通して興味を持った本の表題をこまめにメモしてから(図書館に)出かけているがそれでも好みに合った本にはなかなか巡り会えない。

やはり人間は生まれも育ちも違うので好みは千差万別、プロの書評家が推薦するものでもめったに一致しないのが残念。この辺は音楽や音質の好みが各人でそれぞれ違うのとよく似ている。

いずれの本も初めから5分の1程度までは我慢して読むものの、フィーリングに合わないと思ったらすぐに見切りをつけて放り出すことにしている。面白くもない本を読み続けるほど退屈かつ時間が無駄なものはない。

ただし、江戸川乱歩賞受賞作品に限ってはこれまでの経験上、まず外れたことがないから感心する。

これまでの受賞作品の9割がたは読んでいると思うがいずれも水準を突き抜けた作品ばかりなので、図書館で未読の本を借りられたときは胸を弾ませて帰宅するなり真っ先に読んでいる。

「江戸川乱歩賞」(賞金1千万円)とはご承知のとおり新人推理作家の登竜門として1954年に創設されたもので5名の推理作家(審査員)によって厳しい審査が行われ、毎年1~2作が選定されている。

本年で57回目を迎えており、「東野 圭吾」氏をはじめ「池井戸 潤」氏など歴代の多くの受賞者たちがこの受賞を踏み台にして現在でも大活躍しており、日本のミステリー界に与えた影響は計り知れない。

第52回(平成18年)江戸川乱歩賞受賞作の「東京ダモイ」もその例にもれず実に面白かった。”寝食を忘れるほど”という形容を使っても過言ではないほど一気に読ませてもらった。

              

著者は「鏑木 蓮」(かぶらぎ れん)氏。「ダモイ」とはロシア語で「帰郷」という意味。

内容は戦後すぐのシベリア抑留兵の実態を描きつつ、強制収容所内で発生した不可解な殺人(電光一閃による斬首)の謎を60年後の現代から解き明かそうという壮大な構想。

これでもかと展開される俘虜収容所での人間の矜持の限界が試されるシーン(筆致)が秀逸。

シベリア抑留から戻って戦後の財界で活躍された方に「瀬島隆三」さん(1911~2007)がおられ、「不毛地帯」(山崎豊子著)の主人公のモデルとしても有名だが、
陸大を首席で卒業したほどの逸材で、伊藤忠商事の会長をはじめ政府の要職を務められたものの、シベリア抑留時代については非常に口が重かったという。さすがに今さら思い出したくもない記憶に満ちているのだろう。

著者によると厳寒のシベリアで劣悪な栄養状態のもと強制労働させられた捕虜たちは60万人(うち死亡者は6万人)にも上るという。原爆被害にも匹敵するようなシベリア抑留問題を風化させてはならないという著者の意気込みが全編から伝わってくるのが何よりも印象に残る。

「まだ多くの抑留者が、人知れず冷たい地中に残されている。」という一文で本書は結ばれているが、ミステリーでもこうした骨太いテーマが全編を貫いていると、ズッシリとした重量感が伝わってきて読後もずっと尾を引いていく。


肝心の謎解きについては収容所内で作られた捕虜たちの「俳句」の意味が解き明かされることにより、ようやく真犯人と殺人の動機が白日の下にさらされるが、マイナス47度の厳寒の中で使用された凶器の意外性もなかなかのもの。

もちろんデヴュー作ともいえる長編なので60年の恩讐への緊迫感が今一つ伝わってこない点などやや気になるところがあるものの、まだ未読の方がおられたらぜひお薦めしたい本である。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする