「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~「デッド or ライブ」

2011年08月28日 | オーディオ談義

つい先日のブログ「レコードはCDよりも優れているのか?」の中で紹介した「響きの科楽」(2011.6、ジョン・パウエル著)。

            

音楽好きの物理学者が書いたというこの本には、もうひとつの〔自分にとっては)重要な事柄が記載されてあった。

それは
「部屋の音響効果」。

オーディオマニアなら、改めて「部屋」〔音響空間)の重要性について述べる必要はなかろう。

自分の記憶に留めておく意味で本書の要旨を記載してみた。

部屋の大きさと、壁や天井を覆う材質によって、その部屋の音響的な「生気」が決まる。

家具がたくさん置かれ、分厚いカーテンを引いた小さな部屋では、響きはほぼすぐに消える。そういう部屋は、音響的に「死んで」いる。

壁の固い広い部屋では、音が壁に数回反射してから響きが消える。こうした部屋は「生気」があると形容される。

音が部屋中に反射して響きが長く持続することは好ましいが、それぞれの音が反射してできた響きが重なり合い、ひとつの長い音として耳に届くことがもっとも望ましい。

部屋の壁どうしが遠く離れていれば反射と反射の間に時間がかかりすぎて、長く持続するひとつの音として聞えず、音の聞えた後に間が空き、それからまた音が聞える。これは、こだま(エコー)という好ましくない効果だ。

コンサートホールの設計者は、聴衆がエコーではなく快い残響を十分に楽しめることを目指しているが、どちらの効果も壁や天井や床に反射することから生じるものであるため、バランスを取るのは難しい。

コンサートホールのような大きな空間には壁と壁とのあいだの距離が遠いという避けがたい特徴があり、反射した音が長い距離を移動しなければならない。

たとえばヴァイオリンから出た音は遠く離れた壁まで行き、またもや長い距離を移動して耳の鼓膜に到着するが、楽器から直接耳に届く音は遠回りせずに真っ先に到着する。

そのため、二つの音が別々の事象として、一方がもう一方のエコーとして聞えるのだ。

小さな部屋では、音が壁まで行って帰ってくる距離と、直接届く距離との差があまりないため、反射した音波と直接届いた音は、ほぼ同時に耳に到着する。

直接やってくる音のほうが先に到着するが、反射した音もすぐ後から追いかけてくるからだ。

二つの音の到着する時間の差が四万分の一秒以下なら、人間の聴覚は、どちらも同じひとつの音であると認識する。

時間の差が四万分の一秒を超えるのは反射した音の往復距離がヴァイオリンから耳の鼓膜までの直線距離よりも12m以上の場合に限られる。

巷間、よく耳にする話として音響技術の専門家の意見を入念に取り入れて作ったNHKホールは代表的な失敗事例のひとつで、佐治さんの主張によって海外の著名なホールをそっくり真似たサントリーホールは成功事例となっているそうだ。

ことほど左様に、大きな空間の音響効果をうまく実現するのは専門家でも至難の業とされているが、問題はオーディオマニアにとっての「小さな部屋」。

まあ、人それぞれだが家庭で聴く部屋の大きさとしては概ね6畳~20畳程度ではなかろうか。

上記の説によって、その音響空間を検証してみると次のようになる。

聴取位置がスピーカーから4mはなれた場所とすると、ほぼ同時に聞える四万分の一秒以内に収まる往復距離は16m(4m+12m)となる。

このことはスピーカーから壁の距離までが8m以内であればスピーカーから出た音は直接音と反射音とが同時に聞えることを意味している。

つまり「小さな部屋」で聴くときは「デッド」よりも、圧倒的に「ライブ」の状態で聴いたほうがいいということになる。(第二次以降の反射音も無視できないところ)

本書を読んだ直後に、高校時代の同級生だったO君〔名古屋在住)が
1週間ほどの日程で実家のある福岡に滞在するとのことで、丁度いい機会と45年ぶりに再会することになった。

昨日の27日(土)がその予定の日で、丁度思い切って取り組むのにいいタイミング。

お客さんに少しでも「いい音」で聴いてもらおうと、前日の26日に我がオーディオ・ルームの「ライブ」化にみっちり取り組んだ。

すなわち、窓に吊り下げた厚地のカーテン4枚を撤去してレースのカーテンだけにする、天井からぶら下げた「羽毛の吸音材」を外す、不要な荷物を部屋から出す、床に置いた敷物を取っ払うといった調子で、すべて反射を念頭においた対策。

     

       〔外したカーテン)

これで早速試聴してみると、実にいいねえ!まるで生気が蘇ったような瑞々しい音になったのでビックリ。

準備万端整って当日の午前中、福岡から高速バスでやって来た懐かしい限りのO君としばし交歓。

一区切りしてアンネ・ゾフィー・ムターの映像入りのヴァイオリン協奏曲(モーツァルト)を聴いてもらった。

初めにタンノイのウェストミンスターで聴いてもらい、次に本命の「アキシオム80」。

どちらのほうが「良かった?」と訊いてみると、
「後の方が聴きやすいと思った」。

やっぱりO君も分かるのである。

後は、場所を移して別府湾を一望するホテルでの昼食、入浴〔温泉)となったが、大会社の企業戦士として八面六臂の活躍をしたO君の話は実に面白かった。

それに役員を含めて40年余の勤務の中で病欠が一日も無かったというのには、ただただ感心するばかり。

夜になって、福岡に無事帰り着いたO君から
「筋金入りのオーディオ・マニアだとよく分かったよ~」と連絡が入った。

ありがたい言葉だが「オーディオ」に注ぎ込む程の情熱をO君のように「仕事」に振り向けていたらとチョッピリ複雑な気分になったことだった・・・。



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読書コーナー~江戸川乱歩賞受賞作品~

2011年08月26日 | 読書コーナー

暑苦しかった夏もようやく終盤に差し掛かったようで、朝晩、かなりの涼風が吹き抜けるようになった。

このまま「秋」へと、すんなり移行してくれれば言うことなしだが、そう簡単には問屋が卸さないことだろう。

とにかく体力不足を自認する自分にとって「夏」は鬼門で、日頃あれほど熱心だった音楽やオーディオにも根気が続かずやや”へばり”気味。

しかし、どうやらこれは自分だけのようで、このところ音信が途絶えて久しい杵築のMさんに連絡を入れてみたところ相変わらず音楽鑑賞に熱中されていて、「現在はショスタコに夢中だ」とのこと。

「ショスタコ」とは周知のとおりロシアの作曲家「ショスタコーヴィッチ」のことで、「ベートーヴェン以降ではマーラーと並んで最高の作曲家だねえ。交響曲4番、5番、8番が特にいいね。オーディオは程々にして早く音楽に専念したほうがいいよ」。

よくもまあ、この暑いときに”かた苦しい”クラシック音楽を鑑賞できるものだと感心するものの、自分は「芸術の秋」の到来を期して、現在は専ら読書にまい進。

それも難しい本はなるべく避けてミステリー中心。

ミステリーといえば昨日、千葉のメル友のSさん(「アキシオム80」を譲ってくれた方)
から次のようなメールが届いた。

「家内が内田康夫の浅見光彦シリーズに嵌ってしまい、方々の図書館から借りまくって読み耽ってます。

あらすじを解説してくれるのはいいのですが、食事の後片付けをしないので自分がやってます。たしか○○さん〔自分のこと)も、お好きでしたね」
と苦情〔?〕がらみの内容。

「そうでしょう。いずれの作品も他愛のないものですが一旦ハマルと、もうだめです。自分は100冊以上にもなる同シリーズを全て読破してます。読書好きの奥様によろしくお伝えください」とエールの交換。

まるで奥様の熱中振りが目に見えるようだが、最近は質の高いミステリーになかなか出会うことがないので仕方なく昔の「江戸川乱歩賞受賞作品」をひも解いている。

この「江戸川乱歩賞」というのはご承知のとおり推理作家を志す人たちの登竜門とされるもので、副賞の賞金1千万円というのも大きな魅力。

なにせ新人の作品ばかりなので作風は粗けずりだが、そこに込められた情熱には、ただただ引き込まれるばかり。

そう、「作家として身を立てよう」、「一攫千金」といったエネルギーに満ち溢れている。

たとえて言えば、甲子園の高校野球の「ひたむきさ」ともいえるもので、「勝っても負けても明日が約束されたプロ野球」の世界とはえらい違い。

こう自信を持っていえるのも、これまで乱歩賞受賞作をかなり読破しており、いずれもハズレのない作品ばかりだったから。

ざっと読んだ作品は次のとおり。

昭和40年  西村京太郎 「天使の傷痕」
〃 42年   海渡英祐 「伯林ー1888年」
〃 44年   森村誠一 「高層の死角」
〃 48年   小峰 元  アルキメデスは手を汚さない」
〃 51年   伴野 朗  「50万年の死角」
〃 54年   高柳芳夫 「プラハからの道化たち」
〃 55年   井沢元彦 「猿丸幻視行」
〃 57年   中津文彦 「黄金流砂」
〃 58年   高橋克彦 「写楽殺人事件」
〃 60年   東野圭吾 「放課後」
〃 62年   石井敏弘 「風のターンロード」
〃 63年   坂本光一 「白色の残像」
平成 2年   鳥羽 亮 「剣の道殺人事件」
〃  5年   桐野夏生 「顔に降りかかる雨」
〃  6年   中嶋博行 「検察捜査」
〃  9年   野沢 尚  「破線のマリス」
〃 10年   池井戸 潤 「果つる底なき」
〃 11年   新野剛志  「八月のマルクス」
〃 13年   高野和明  「13階段」
〃 14年   三浦明博  「滅びのモノクローム」
〃 17年   薬丸 岳  「天使のナイフ」
〃 19年   曽根圭介  「沈底魚」
〃 20年   翔田 寛   「誘拐児」
〃  〃    末浦広海  「訣別の森」

この中から、個人的に特に好きな作品を挙げると「猿丸幻視行」「写楽殺人事件」「検察捜査」「果つる底なき」「13階段」「沈底魚」といったあたりが浮かんでくる。

また、読みながらこれら新人の「作家としての将来性」を占うのも楽しい。

本賞受賞後に新天地を切り拓いた作家として、ほんの一例を挙げれば西村京太郎、森村誠一、井沢元彦、高橋克彦、東野圭吾、桐野夏生などの錚々たるメンバーが上げられる。

余談になるが平成10年受賞の「池井戸 潤」氏〔慶応大学卒、銀行マン出身)はつい最近「下町ロケット」で念願の直木賞を受賞されたが、好きな作家なのでメデタシ、メデタシ。

この「下町ロケット」もこのブログで以前、取り上げたことがあるが
受賞に恥じない傑作だった。

さて最近読んだのは昔の作品を2本づつ文庫本〔講談社)に収めたシリーズもの。

     

いずれも未読で次の6作品。

☆ 昭和38年 藤村正太    「孤独なアスファルト」
☆ 昭和39年 西東 登     「蟻の木の下で」
☆ 昭和45年 大谷羊太郎   「殺意の演奏」
☆ 昭和47年 和久 峻造    「仮面法廷」
☆ 昭和52年 梶 龍雄     「透明な季節」
☆    〃   藤本 泉     「時をきざむ潮」

すべて30年以上も前の作品で、当時流行った社会派風ドラマのもと、人間の怨念とか動機を丹念に描くパターンで、まだ戦争の面影を色濃く引き摺った作品もあり、やや泥臭いところがあるが行間にほとばしる熱情は相変わらず。

二階の窓をすべて開放し、海からの爽やかな涼風の中での読書はエアコン要らずのもってこいの避暑だった。


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オーディオ談義~「レコードはCDより優れているのか?」

2011年08月24日 | オーディオ談義

従来の音楽のソース(レコード)にCD(デジタル)が加わってからおよそ30年あまりとなる。

その間、常に話題となってきたのが「レコードはCDより優れているのか?」。

この問題〔議論)はいまだに尽きることがなく、これから先もずっと公の結論を得られないまま、個人ごとの胸のうちで大なり小なり「自問自答」が繰り返されていくことだろう。

我が家ではワディアのDAコンバーター「27ixVer3.0」とCDトランスポート「ワディア270」を購入してから、レコードプレーヤーとフォノイコライザー(「マランツ7」)を追放したが、爾来、後悔をしたことは一度もない。

元々、ズボラな性格なので音質よりもコンパクトな収納とか、音楽を聴くときの手軽さを優先したこともその理由の一つだが、音質にしても両方ともに「一長一短」という気が今でもしている。

数ヶ月前に、湯布院のオーディオマニアのお宅で聴かせてもらったときも、この方はレコードとCDを同じようなウェイトで聴かれていたが、レコードは高域が自然でソフトに聴こえたが、低域がややボンつき気味、その一方、CDは高域が冷たくて硬いように聴こえ、低域は締まって解像力もいいといった具合。

とまあ、そういうわけで表題の回答にしても、あえて言わせてもらうと結論は不要で「個人ごとの好き好きの範疇」というのが今も昔も変わらぬ自分の持論。

ところが、つい最近これを裏付けるような内容の本を見つけた。

「響きの科楽」(2011.6.15、ジョン・パウエル、早川書房)

       

「音楽を耳にすると、どうして踊ったり泣いたりしたくなるのだろう? 楽器が奏でられると、どんな現象が起きるのか? そもそも音楽とはいったい何なのだろう?」との問いに、ミュージシャンとして作曲と演奏をこよなく愛する物理学者が科学とユーモアを駆使して妙なる音楽の秘密に迫る」という触れ込み。

ざっと目を通してみたが、音楽的な理論はまったく持ち合わせていないので、内容のほうはさっぱり理解できなかったが、最終章の「音楽を聴く」でようやく興味ある事項が出てきた。

317頁に「レコードはCDより優れているのか?」とあって、詳細に解説がしてあった。

要旨を記載してみよう。

結論からいえば、「レコードが完全な状態にあり、両者ともに性能の高い機器を使う場合を前提にすると二つの違いがわかる人はとても少ない」。

このことは1993年に二人の音楽心理学者によって証明された。

彼らは音楽の再生方式に関心が高く、CDとレコードについて確固たる意見を持つ160人を対象に、両方の技術で音楽を再生したものを聴かせる実験を行った。

その結果、CDを聴いていると正しく判定できたのは、160名のうちたったの4人しかいなかった。

実験前には、レコードの方が優れていると主張する人はひとり残らず、レコードの音は「温かみ」があるが、CDの音は「かん高く死んだような音」だという見方をしていたというのに。

しかも、この人たちが平均的な聴き手ではなく、この問題に熱心で、とうとうと持論を展開するような人たちだということも忘れてはならない。

平均的な聴き手のうち、CDの音とレコードの音を聞き分けられる人は100人にひとりもいないだろう。それにこれは1993年の話で、それ以降の技術の向上によりその数は間違いなく減り、両者を比較することが無意味になっているに違いない。

「CD対レコード」の議論の大部分はテクノロジーヘのノスタルジアに原因があるのではないだろうか。

あなたが上記の160人中の4人に該当するという自信があれば別だが、レコードとCDの違いは概ねこういうものである。

本書によると、表題の行き着くところは「ノスタルジア」という言葉になるだが、「音楽を聴く」という行為は自分の血となり肉となった極めて個人的な経験と向き合うようなものだから、なかなか頷ける話のように思える。

余談になるが本章の最後に筆者から読者に次のようなアドバイスが捧げられていたので紹介して終わりにしよう。

「あなたの好みが何であれ、もしも親しむ機会があれば、たくさんの喜びが得られるような音楽のジャンルがたぶん何種類もあるはずだ。

音楽を聴くいつものパターンを少し変えて、新しいジャンルの音楽をまっさらな気持ちで試してみよう。これが私からのアドバイスだ。

もしもヘビーメタルが好きなら、フォークミュージックも聴いてみよう。モーツァルトが好きなら、ドリー・パートンも聴いてみよう。

音楽のジャンルは排他的なものではない。鑑賞する音楽のジャンルを広げることは、人生の喜びの量を増やす簡単な方法のひとつなのだ。」


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音楽談義~「音楽こぼれ話」~

2011年08月23日 | 音楽談義

たまには肩の凝らない話ということで音楽家についてのエピソードや笑い話をいくつか紹介。

いずれも実話で、たわいない話のかげにも芸術家のちょっとした人間性が伺われるところが面白い。
 

「休止符のおしゃべり」(渡辺 護著、音楽の友社刊)  
             
                   

 
ドイツの大ピアニストであるウィルヘルム・バックハウスが中米のある町で演奏したときのこと、客席に一人の女性が幼児を連れて座っていたが、その子が笑ったり、ガタガタ音を立てたりしてうるさくてしようがない。

バックハウスはマネジャーを通じてその夫人に立ち去るよう要請した。彼女は立ち去り際に、憤慨した様子で聞こえよがしにこう言った。

「ふん、一人前のピアニストとはいえないね。私の妹なんかは、この子がそばでどんなに騒いでいても、ちゃんとピアノが弾けるんだよ!」

 名指揮者カール・ベームは友人とチレア作曲のオペラ「アドリアーナ・ルクヴルール」を見に行った。しかし、ベームはどうしてもこのオペラにあまり感心できない。

見ると客席の二列前にひとりの老人が気持ち良さそうに眠っていた。ベームは連れの友人に言った。

「あれを見たまえ、このオペラに対する最も妥当な鑑賞法はあれだね!」

「しっ!」友人は驚いて、ベームにささやいた。「あの老人はほかならぬ作曲者のチレアなんだよ!」

 
1956年6月、ウィーン国立歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」がカラヤン指揮で上演された。

その総練習のとき、イゾルデ役を演じるビルギット・ニルソンのつけていた真珠の首飾りの糸が切れて、真珠が舞台上にばらまかれてしまった。

みんながそれを拾いはじめたが、カラヤンもまた手助けして数個を拾いあげた。

「これは素晴らしい真珠ですね。きっとスカラ座出演の報酬でお求めになったのでしょう」と、当時ウィーン国立歌劇場総監督の地位にあったカラヤンが皮肉を言った。

ニルソンも負けてはいない。
「いいえ、これはイミテーションです。ウィーン国立歌劇場の報酬で買ったものです。」

 「あいつがぼくよりギャラが高いのは、いったいどういう訳なんだ!」音楽家の間でのこういう”やっかみ”
はよく聞かれること。

作曲家ピエトロ・マスカーニはあるとき、ミラノのスカラ座から客演指揮を依頼された。

「喜んでやりましょう」、彼は答える、「ただその報酬の額についてだが、トスカニーニより1リラだけ高い額を支払ってくださることを条件とします。」

スカラ座のマネジメントはこれを承知した。マスカーニの指揮が成功のうちに終わったあとスカラ座の総監督は彼にうやうやしく金一封を捧げた。

マスカ-ニがそれを開けてみると、ただ1リラの金額の小切手が入っているばかり。「これは何だね?」、総監督は”
ずるそう”に笑って答えた。

「マエストロ(トスカニーニ)がスカラ座で振って下さるときは、決して報酬をお受け取りにならないのです。」

☆ 新米の指揮者がオーケストラから尊敬を得るようにするにはたいへんな努力が要る。ある若い指揮者は自分の音感の鋭さで楽団員を驚かせてやろうと一計を案じた。

第三トロンボーンのパート譜のある音符の前に、ひそかにシャープ(♯)を書き入れておいた。

そして、総練習のとき強烈なフォルティッシモの全合奏のあと、彼は演奏を止めさせ、楽団員に向かって丁寧に言った。

「中断して申し訳ないが・・・、第三トロンボーン、あなたはDから八小節目で嬰ハ音を吹きましたね。これはもちろんハ音でなければならないのです。」

そのトロンボーン奏者はこう返した。

「私は嬰ハ音を吹きませんでしたよ。どこかの馬鹿野郎がハの音符の前にシャープを書き入れたんですが、私はそうは吹きませんでした。だってこの曲を私は暗譜しているんですから」 


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オーディオ談義~「CDの音をよくする方法」第2弾~

2011年08月21日 | オーディオ談義

前回のブログで「CDを洗うと音が良くなる」との記事を載せたが、真偽の程は別として通常「洗う」といえば衣服とかの汚れたものが対象で、買ったばかりのきれいなCDを洗うなんて発想は、”まさか”のひと言。

CDプレス過程で付着した油を落とすというのが主な理由だが、人間の手脂(あぶら)なども見落とせないのでまあ、半分は頷けるところ。

文中で、実際に”洗う”実行者として紹介されている「中野 雄」氏は東大(法学部)を卒業された後、ケンウッドの社長などを歴任され、「モーツァルト・天才の秘密」の著作などもある”まとも”な方なので実験してみる価値はあると思う。

さて、これを第1弾として前回に続いてのシリーズ「第2弾」は次のようなもの。例によってそのまま引用。

☆ CDを高音質で再生するための裏ワザがあるらしいけど・・・・

タダで出来る、CD音質向上の必殺技をご紹介しましょう。「二度読み法」です。

まずは、一度CDを入れて再生し、「何もしなければ、こんな音」と確認してみてください。

そして「オープン/クローズ」ボタンでCDを取り出し、そのままもう一度挿入し、再度、再生ボタンを押す・・・・。

必要な動作はたったこれだけです。

一回読み込んだものを取り出して、再度読み込んだだけなのに、その音質は誰でも分かるほどハッキリと向上します。

一回目は硬い音がするのに、二回目はキンキンしたところがほぐれて、しなやかになり、音に芳醇さが出てくるのです。

私個人の感触でいうと、そのCDプレーヤーの実力を”倍の価格くらい”にアップさせてくれますね。

とりわけ効果が分かりやすいのはクラシック系です。

クラシック音楽は、基本的に直接音と間接音のバランスで成り立っています。「二度読み」をすると、直接音が、よりしなやかに浮き上がってくると同時に、間接音、それまではあまり聴こえてこなかったホールトーン、場の響きや空気感などが豊潤に出てきます。

「なるほど、こういう環境で演奏されていたんだな・・・」という想像力を掻き立ててくれます。

ポイントは、一回読み込んで取り出し、さらにもう一度読み込むことですが、一回目では再生する必要はありません。

CDをプレーヤーに挿入するとしばし、キュルキュルッと言う回転音があって、やがてディスプレイに収録時間や曲数などが表示されます。

その状態になったらすぐに取り出し、またボタンを押して再挿入すればOKです。

多少面倒かもしれませんが、「オープン/クローズ」ボタンを二回多く押す手間さえ厭わなければ、簡単かつ効果的にCDの音質向上を果たせます。

これぞ究極の”エコ的”音質向上法といえるでしょう。

ただし、三回以上はダメです。極端に音質が悪くなります。

さまざまなメーカーがその理由を検証し、私たち評論家も推論を立てました。

有力な説は、メモリー効果です。

デジタルメディアには「この中にはこういう内容が入ってます」というメタ情報が、あらかじめ書き込まれています。

これをもとに、一度メディアをスキャンしておくことで読み取りの精度が高まったり、エラーの出現率が抑えられたりするのではないかという考え方です。

ぶっつけ本番だとプレーヤーが慌てふためいて対応しきれず、本来の力を出し切れない。

しかし、メモリーが既に経験した情報であれば信号処理にも余裕が出て、結果、より良い音質になんるのではないですかね。

ウーム、デジタルの世界でも”いくばく”かの余裕が必要とはちょっと驚くが、簡単に退けるには惜しい理論のような気がする。

よ~し、実験あるのみ。

同じ曲目のCDが2枚あると便利なので探してみると、クラシックは見当たらず、見つかったのが「サキソフォン・コロッサス」(ソニー・ロリンズ)。

     

左側が「DSDマスタリング」〔以下、DSD)盤、右側はさらに複雑な製造工程を経た「XRCD」盤

時期をずらして購入したもので、いわずと知れたジャズの名盤中の名盤、ジャズは滅多に聴かないがたいへん”ノリ”がいいのでこれだけは別格扱いで、ときどき耳を傾けている。

それに1曲目の「セント・トーマス」の冒頭に登場するシンバルの音がどれだけ豊かになるかがハイライトで、オーディオ装置をいじったときは必ずといっていいほど、高域の出具合をテストするための大切な試聴盤でもある。

まず「XRCD」盤を石鹸水で軽く洗浄し、トイレットペーパーで念入りにふき取ってから室内で乾かす。

一方のDSD盤は洗わずにそのまま。

これで比較試聴したところ明らかに違って聴こえた。

DSD盤は刺激的というか粗削りな面が随分目立つが、一方のXRCD盤はまるで「絹の光沢」のような滑らかさ。

しかし、どちらがいいかは単純に比較できないと思った。

自分には上品に聴こえるXRCD盤のほうが好みだが、本当のジャズ・ファンはどちらを選ぶのだろうかとちょっと判断がつきかねる。

XRCD盤特有の音質の個性も無視できないので「洗う、洗わない」の良否は即座に結論が出せなかった。

次に「二度読み」についてはちょっと実験が難しい。

心理的作用が大いに働くからで、結局、まるっきり効果を疑わずに日常、これを習慣にするのがいいのかもしれない。

ほら、「鰯(いわし)の頭も信心から」という諺もあることだし~。

 


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オーディオ談義~CDを洗えば音がよくなる?~

2011年08月18日 | オーディオ談義

オーディオ装置の音質とCDソフトの録音状態は、音楽鑑賞に当たっての「クルマの両輪」みたいなもの。

しかし、オーディオ装置のほうは「血〔お金)と汗と涙」を流せば何とか良くなるが、CDソフトのほうはいかんともしがたく、ただ録音元から与えられるままである。

不合理極まりない話だが、録音状態はそのままでもCD盤そのものに加工を施すことで何とか「聴きやすい音」にする工夫もあるようでこれまで自分もいろいろやってきた。

以前のブログでも記載したことがあるが、
CD盤にレーベル面から薄くカッターナイフで一直線にキズを入れる、これは「江川カット」と称されオーディオ評論家の江川氏が発案されたもの。

またCD盤の外周のエッジの角張った部分を丸くする方法もある。これは1枚500円で請け負う専門の業者もネットで見かけた。

両方とも決して迷信ではなくて立派に科学的根拠に基づいており、前者は「洩れ磁界」による迷走電流を断ち切るものだし、後者は信号を読み取る際のレーザー光線の乱反射を少なくするというのが理由だった。

そして、これらに加えて最近新しい情報を仕入れたので2点ほど紹介してみよう。

既に読んだという方もいるかと思うが「大人のオーディオ大百科」(2011.6.8)という本に「Q&A方式」で載っていた。

猛暑の時期は要約するのも億劫なので、ソックリ引用させてもらおう。

         

☆ CDを洗うと音がきれいになるって話があるけど本当?

1980年代、CDが生まれた当初は音の変化がないといわれたがそんなことはない。プレスによっても違うし、会社によっても違うし、使用した回数によっても違う。

したがって、CDそのものを使いこなしてより良い音にしようというアイデアはこれまで沢山考案されてきた。

最も分かりやすいのは、プレス工場でCDの表面についた油の皮膜を洗い流すという方法。

買ってきたままでも十分聴けるのだが、それを普通の石鹸で洗って、水で流して、水分を丁寧に拭き取って暗いところで乾かしてあげると音がすごく違ってくる。

洗っていないディスクは、音にとげとげしいところがあって、くっきりしすぎで、輪郭がちょっと強すぎるという感じがある。

それが、洗われることでもまろやかになって、しなやかに音楽が奏され、みみにとって心地よい麗しい音になる。

私の師匠である音楽評論家の「中野雄」先生はNHKFMの「ラジオ深夜便」でクラシックを担当している。

もともと、レコード会社の出身なので、そのときの経験から、新品ディスクを必ず洗ってかけている。

あるとき、リスナーから投稿があって「同じCDをもっていますが、ラジオで聴いたほうが音がいいのですがなぜでしょうか?」と。

CDを洗わずにそのままかけるというのは、油や垢がたまった状態だから、それをすっきり流してあげると本来の音が出てくるというわけ。

これは人間も同じですね、何日もお風呂に入らないと気持ち悪いが洗うとすっきりする。CDだって、気持ちよく再生してあげよう。

以上のとおりだが、単純に「信用する人」、あるいは「信用しない人」など様々だろうが、やってみても手間がかかるだけで別にお金がかかるわけでもなし、騙されたつもりで実際に試してみるのも一つの方法。

CDの音を良くするもう一つの方法と、実験結果は次回ということで。



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独り言~「音の静かな扇風機」と「映画鑑賞」~

2011年08月16日 | 独り言

今年の夏はどうやら「節電」一色のようで、エアコンに比べてあまり電気を食わない「扇風機」が「大売れ」だそうである。

自分も現在、専用の扇風機を3台駆使している。

いずれも小さな卓上型のもので、うち1台はパソコンをいじるときに脇に置いて使用しており、もう1台は音楽やテレビを視聴するときの応接椅子の横に、そして最後の1台は真空管アンプの冷却用である。

そう、少なくとも我が家では真空管アンプはせめて夏ぐらいは涼しく快適に過ごしてもらおうと、人間様と同等の扱いなのである。

とまあ、これは冗談だが周知のとおり真空管が熱を発するのは当たり前の話だが、素人考えながら少しでも風を当てて冷やしてやると寿命が長持ちするかもしれないという淡い期待があるのは言うまでもない。

昨今の近代菅とは違って1950年代前後に製造された「銘管」ともなると、ペアで軽く10万円以上するのだからユメユメ粗末には扱えず、見かけや面子にこだわってはおられないといったワケで、まあ、結構”みみっちい男”と言われればそれまで。

たしかに、真空管アンプの正面に扇風機を据えて音楽を聴く姿は他人様が見てあまり見栄えのするものではなかろう。

それに、音楽を聴いているときは”まったく”といっていいほど気にならないが、ふと(音が)鳴り止んだときとかピアニシモのときに、扇風機のモーター音と風切り音がイヤでも耳に届くのがちょっと難題。

したがって、お客さんが見えて一緒に試聴するときはさすがに”扇風機はやむなく使用せず”の状態に至っている。

そういうことから、これまでず~っと、もっと
「音の静かな扇風機」がどこかにないものかと、気にかけてきた。

ところが先日、パソコン用印刷機のインクが切れたので近くの量販店に行ったところ出入り口の付近で見かけたのが「静音」が売り物の小さな扇風機。

       

「ほぅ~」と、興味を引かれすぐにスイッチを入れてみたところたしかに「静か」である。

「これはいい」。

捜し求めていた扇風機にやっと巡りあえた感じで、すぐに購入を決めた。

カミさんに”ばれる”と、「モォ~、扇風機を4台も購入して」と散々イヤミを言われそうなのでもちろん内緒。

梱包したダンボールも扇風機の文字が隠れるように、きれいに分解して紐で縛ってうまく纏め上げた。

さあ、試聴である。雑音に満ちた店内のSN比の悪い場所と違って静寂そのもののオーディオ・ルームではどうだろうかと若干の不安もあったところ。

第一印象はこれまでの扇風機と比べると風力も強いのにやっぱり静かだった。

とはいえ完全無欠の無音ではなかった。

モーター音は完璧に聞こえないが、風切り音はかすかに「サーッ」という音が聞えるがまあ、これくらいなら十分合格の範囲内。

よ~し、これからお客さんが来てもスイッチを切らなくて済みそうだし、冷やし効果も向上して長時間の連続使用にも(真空管が)十分耐えてくれそうである。

おまけに、扇風機の角度をうまく上向きに調整すると真空管の背後の電源トランス、その後ろの真空管式チャンネルデバイダー、そのまた後ろにあるDAコンバーターまで冷やせて、これはまことにうれしい悲鳴。まるで一石四鳥。

           

とにかく、これからは音楽を聴いた後に引き続き同じアンプとSPでテレビの視聴が可能になったのが大きな収穫。

これまでテレビ視聴用には別のシステムを利用していたのだが、いくらテレビの音とはいえ、映画などでは画質に加えて音響効果のほうも無視できないのは映画ファンなら先刻ご承知のとおり。

おかげで最近は日頃あまり観ない洋画を録画することが多くなったが、NTTの「ひかりTV」〔何と36チャンネル!)で録画した西部劇は久しぶりに見応えがあった。

題名は「リバティ・バランスを射った男」。

1962年製作で監督はあの「ジョン・フォード」。

主演はジョン・ウェイン(トム)、ジェームス・スチュアート(ランス)、ヴェラ・マイルズ(ハリー)、リー・マービン(リバティ)といった錚々たる役どころ。

公開当時は地味すぎてパッとしなかったそうだが、今ではジョン・フォード監督の代表作の一つになっているほど。

ずっと昔、一度観たことがあってなんとなく記憶に残っていたので録画して再度じっくり鑑賞したわけだが、若い頃には気付かなかったさりげないシーンの一つひとつに深い意味が込められているのがよ~く分かった。

録画した映画は一度観てしまうと十中八九、消去するのが常だがこの映画だけは別格で「永久保存」決定。

「銃と暴力」が支配する古い西部への訣別と「法と秩序」に拠って立つ新しい西部の到来との対比が興味深く、結局「ペンは剣よりも強し」(これ、たしかどこかの東大受験校の校是のはず)となる。

それに男の勇気や美女をめぐる三角関係、決闘シーンなどがあって山場には事欠かない。

これまで観た西部劇の中では文句なしにダントツ、ナンバー1のお気に入り。まあ、J・スチュワートのファンでもあるから仕方ないか。

ネットでもこの映画に関するレヴューが沢山寄せられていたが一番共感した「アルメイダ」さんのものを無断で引用させてもらおう。

西部劇苦手な私がはじめて全体的に面白いと思った作品です。脚本もさることながら先が読めるのにそれでもまた面白い。  

この時代の作品として白黒ではどうなのかは疑問ですが、見てゆく途中で違和感もなく見られたのは画質も向上しているからか。

西部劇というよりも人間ドラマ西部劇風とでもいえましょうか。見終えたあとにまた冒頭を観てみたいなぁと思える作品です。  

この作品の面白さは(誰がリバティ・バランスを殺したのか)ということなのですが、正直見ていてオチがわかったのにそのオチの切り出しがうまいのです。 

だからあとに考えるものがあり単純な西部劇ではないと。J・ウェイン演じるトムの気持ちがよくわかります。この役は役得というかいい役ですよ~  でもJ・ウェインだからこそとも思います。 

無骨で不器用な硬派・・日本では高倉健さんのような。トムにしてみれば急に現れたような、J・スチュワート演じるランスの存在とは・・  両方適役といっていいでしょう。  

無骨なトムはハリーを愛しているのに、ハリーは知的なランスに一目ぼれ状態。リバティ・バランスに襲われてランスは運ばれて来ましたが、またこの街にバランスが現れるのは間違いはない。 

 銃社会を非難し法で悪を裁こうとするランス。しかし脅迫のような成り行きで決闘という形で銃を使うことに・・  銃を練習しているランスをからかうトムに伏線が見られます。 

なぜそんなに腕が立つのに自分で撃とうとしないのか・・  決闘の日にランスの選択眼はふたつしかありません。つまり素人同然のランスが銃で決闘するか、この街から去るか・・  トムが助けてくれるんじゃないか? 

ところが素人のランスは奇跡的にバランスとの決闘に勝つのです。しかし彼は弁護士の立場であります。 映画の演出もなかなかいい。 

冒頭からトムの棺とサボテンの謎、 (妻となったハリーとともに)街に帰ってきたというランスは上院議員・・  そこから回想シーンとなり本編の始まりです。  

キスも抱擁もないのに恋愛ドラマとして切ない味わいがあるし、銃社会に対する批判もそれだけではない描き方。  

愛する女性が一番幸せな道を選んだトム。それは西部では名誉なのかトムにはどうでもいいこと。単純明快なようでいて複雑な人間ドラマでもあります。 

まったく、”簡にして要を得ている”素晴らしい「レヴュー」だが、まだご覧になっていない方には 是非お薦めしたい映画である。

 


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読書コーナー~「イギリス社会」入門ほか~

2011年08月12日 | 読書コーナー

☆ 「イギリス社会」入門

世界には、いろんな国があるが今のところ自分が一番興味を持っているのは「イギリス」。

結局、オーディオがらみになってしまうのだがイギリス発のスピーカーにしろ真空管にしろ自分の相性に合う製品が一番多い。

その音質の特徴を一言でいえば「決して出しゃばることなく、付き合えば付き合うほどに味が出てくる、まるで”いぶし銀”のような渋い音」。

あの五味康祐さん〔作家:故人)も名著「西方の音」で、「西方」を「イギリス」と位置づけてブリティッシュ・サウンドについて比類なきオーディオ論を展開されている。

もともと、イギリスは日本と同じ島国なので国民気質が似ているのかもしれない。

そういうイギリスも昨今〔2011.8月)は若者による暴動が起きているようで伝統ある文明国でもこんなことがといささかビックリ。

経済不況が原因のようだが、知っているようで知らない「イギリス」の最新事情を知りたくなるところ。

「イギリス社会」入門~日本人に伝えたい本当の英国~(2011.7、NHK出版新書)と題したこの本はそういうイギリスの実情を赤裸々に伝えてくれるものだった。

            

著者のコリン・ジョイス氏は1970年イギリス生まれでオックスフォード大学卒、92年来日し高校の英語教師やジャーナリストを経て10年帰国。

「女王のことをみんなどう思っているの?」「階級社会は今も続いているの?」といったベーシックな話題を中心にイギリス人なら誰もが共有している習慣や感覚をユーモアたっぷりに解説していて、一気に読ませてもらった。

中身のほうは「1 階級」から「6 王室」を経て「19 品格」まで項目ごとに分けてイギリス人の気質が浮き彫りにされているが、ここでは「階級」について取り上げてみよう。


何といってもイギリス人気質を手っ取り早く理解できるのは「階級意識」が一番だと思うから。

「みすぼらしい上流、目立ちたがる労働者」という副題のもと、冒頭に提示されるのが次のテーマ。

「二組の夫婦がクルマに乗り込む。さて、誰がどこに座るだろうか。」

これがイギリス人の階級を見分ける方法の一つだそうだ。

○ 労働者階級

男性二人が前に座ってサッカーの話をし、女性二人が後に座ってショッピングの話をする。

○ 中流階級

それぞれのパートナーを大切にするので一組の夫婦が前に、もう一組の夫婦が後に座る。

○ 上流階級

夫婦がばらばらになる。前の座席には男性のひとりが、別の男性の妻と一緒に座る。後ろにはもうひとりの男性と、別の男性の妻が座る。

つまり、社交の場ではふだん話さない相手と出来るだけ話さないといけないと考えるのが上流階級。

このさりげないエピソードに接しての個人的な感想だが、「社会」を優先させ、「個人」と「家族」の安楽を後回しにするのが上流階級なのだと何となく得心させるところがある。

ただし、著者によるとたしかにイギリス社会で階級は一定の重みを持っているものの、その意味合いは外国人が思っているものとは大きく違う。

どうも階級意識が誇張されて伝わり過ぎているようで、決して上流階級はお上品ぶって威張っているわけではない。

階級意識を鼻にかけることを警戒してか、ことさらにそれを隠したがっており、時代に合わせるのが一番と心得ている。

たとえば上流の気取ったアクセントで話し、卒業した名門校のタイを締めている人などめったにおらず、もし、いたとしたら笑いものになるそうだ。

生活スタイルも質素、倹約を旨としていて、この辺の「自己韜晦」が、わが国の古典「徒然草」〔兼好法師)の精神につながってくるところで、あのオーディオ製品に見られる「渋さ」とも共通するところだと思う。

ほかにも王室一族は民族的にいえば「ドイツ系」であり、そのことが国民に与える影響などが記されており、ことイギリスに関しては興味満載の本である。

☆ 「フェルマーの最終定理」

17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」。

以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが~。

イギリスの天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動のノンフィクション!

表紙の裏にこう記された解説につられて読んだのが「フェルマーの最終定理」。

ご存知の方も多いと思うが2000年1月に本書の単行本が出版され大きな反響を呼んだが、これはその文庫版である。

            

ちなみに、フェルマーの最終定理とは、

Xn+Yn=Zn

この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。(XnとはXのn乗のことで、Yn、Znも同様)

この証明は簡単なように見えて実はたいへん難しく、3世紀もの間、幾多の数学者が挑戦し、なかには精神に異常をきたしたり、数学者としての生涯を台無しにされた者もいる超難問である。

天才数学者アンドリュー・ワイルズ(ここにもイギリス人が出てくる!)が1993年にこの定理の完全証明を行って後世に偉大な足跡を刻んだが、本書はそれにまつわる話である。

一言でいえば、根気とインスピレーション〔閃き)がいかに大切かが延々と語り継がれるわけだが、「万物は数なり」で、数と自然とのつながりが面白かった。

たとえば、次の逸話。

あるとき、鍛冶屋の前を通りかかったピタゴラスはハンマーが一斉に鉄に打ち下ろされる音を耳にした。さまざま調和音が響いてきたが、あるひとつの音が加わったときに限って音が調和しなくなった。

そこでハンマーの重さを調べてみると互いに調和しあう音を出すハンマー同士は重さの比がたとえば1/2や2/3となっていたが、不調和な音を出すハンマーは簡単な重さの比になっていなかったことが判明した。

もうひとつ、自然現象から「数」がひょっこり顔を出す話。

ケンブリッジ大学のステルム教授はいろんな川の曲がりくねった実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比を求めてみた。

その比は川ごとに異なっていたけれども、平均すると3よりも少し大きい値になることが分かった。実をいうとこの比はほぼ3.14なのである。

これは、π(パイ)、すなわち円周と直径の比の値〔円周率)に近い。

端的にいえば川は常に曲がろう(カーブ)とする傾向を持っており、カオスと秩序とのせめぎ合いの結果、πの値に近くなるのである。

特に顕著なのはシベリアのツンドラ地帯やブラジルのような非常になだらかな平原を流れる川の場合だという。

これらはほんの一例だが、たとえば「リーマン予想」(素数の並び方の法則性)が明らかにされると宇宙の神秘が解明されると言われており、何だか「数」には不思議な力が込められている気がする。

ひとつ「暑気払い」に、本書を読んで「数」のミステリーに挑戦されてはいかが。

なお、本書によると「フェルマーの最終定理」の証明は日本の「谷山~志村予想」が決定的な役割を果たしており、日本人として実に誇らしくなる。

 


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オーディオ談義~「ルーム・チューニング」~

2011年08月10日 | オーディオ談義

昨年に比べると今年の夏は幾分かは凌ぎやすいものの、それでもこんなに暑いと何をするにも億劫になってエンジンのかかりが悪くなるのは自分だけだろうか。

好きな読書にもなかなか身が入らないし、正直言ってブログの更新にも熱が入らない。先週は”ちゃっかり”たった二つの記事で1週間を乗り切らせてもらった、しめしめ。

ブログとはおかしなもので、2~3日おきの更新が「情報発信が出来てうれしい」と張り切るときがあるかと思えば、「もう更新か、イヤだなあ」と思う時期とがある。

現在は確実に後者であるが、何だか生活スタイルのリズムみたいになっているので止めるわけにもいかないところ。

というわけで、何もかも気乗り薄になりがちなこういう猛暑の時期にオーディオ装置をあれこれ”いじりたがる”人間とはよほどの「きじるし」だろう。

そういう「きじるし」の一人が間違いなく自分である。

中高域用のスピーカー「アキシオム80」用のアンプとして、どれが最も「ウーファー4発」の低域にマッチしたアンプか毎日のように3台の真空管アンプを入れ替えながら、試してきた。

 PX25シングルステレオアンプ

 WE300Bシングルアンプ(モノ×2台)

 VV52Bシングルステレオアンプ

いずれも一長一短ながらも度重なる試聴を経てようやくトップの座を射止めたのが「VV52B」アンプ。

        

前々回のブログで「ようやくオーディオも一段落」と記載したが、それは「VV52B」アンプがエースとして固定したことを意味している。

何といっても中域の分厚さが決め手で低域とのつながりが自然なのがいいし
、加えて低域用のアンプとゲインのバランスが取れていてアッテネーターを使わなくて済むのもメリットのひとつ。

とはいえ、例によって「粗探し(あらさがし)」をするという長年の癖がつい出てしまう。

☆ もっと奥行き感が欲しい

オペラなどを聴いていると、ステージの上でそれぞれの歌手の位置の立体感がもっと欲しい

☆ もっとまろやかに鳴って欲しい

中高域の音がちょっと出しゃばりすぎてやや耳障り。もっとふんわりとした雰囲気を出して欲しい

この二点の粗(アラ)に尽きるが、さあ、どこをどういじったらいいのだろうか。

100%解決は無理としても一歩でも二歩でも前進したいもの。

出来るだけお金を使わない主義なので、その範囲での対策となると、「ルーム・チューニング」に尽きる。

この方面の大家で、先日のブログ「オーディオ訪問記」でも取り上げた大分市のEさんに相談したところ、即座に回答が返ってきた。

ちなみにEさんはこの7月に我が家のオーディオを試聴されており、そのときに気付いた点をすぐに指摘されたもの。

☆ 中高域ユニットの周囲のバッフルに吸音材を貼り付ける

  

左が元の状態で、右が(手持ちの)吸音材の分厚いフェルトを貼り付けたもの。といっても、SPユニットの部分をくり抜いただけだが。

低域はともかく、中高域ユニットについては直接音と、周囲の硬いバッフルに当たって跳ね返った音とが交じり合って、音がきつくなることが多いのでバッフル面に吸音材を貼り付けたほうがいいとのこと。

もちろんケース・バイ・ケースだろうが。

☆ 二段天井になった箇所の定在波を防ぐ

      

我が家のオーディオ・ルームは10年ほど前に改造して現在の広さになったものの、そのときに当初の建築設計上、やむなく天井に段差が出来てしまった。

Eさんは7月の試聴時に鋭い視点でそれに気が付かれていたようで、天井の段差が後方の壁と平行になっているので定在波が起きる可能性があり、音が濁ってくるので吸音材を貼って防いだほうがいいとのアドバイス。

そこで余分に在った手持ちの「羽毛の吸音材」〔木綿袋入り)をズラリと段差の箇所に貼り付けてみた。

どうやら「叩けよ、されば〔扉は)開かれん」〔新約聖書マタイ伝)のようで、こちらが相談を持ち掛けてはじめてEさんは乗ってこられる方。

まったく「意地が悪い」のか、「奥ゆかしい」かのどちらかだが、おそらく後者だろう。

「オーディオはやってみなければ分からない」が口癖で、「個人の好みが大きな要素を占めるので、できるだけ本人の自主性に任せて他人があまり口をさしはさまないほうがいい」という考えの持ち主である。

さあ、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」。

9日〔火)の午前中に「釘と金槌」を持って思い切って脚立に載って危なっかしくフラフラしながらもEさんが指摘した上記の高所作業を無事やり終えた。

すぐに試聴した「春の祭典」(ストラヴィンスキー作曲:ゲルギエフ指揮)の結果となると・・・・。

いや~、変われば変わるもんです!

一番の収穫は、ふと、音が鳴り止んだときの音響空間の静けさがまるで違うことで、これにはほんとうに驚いた。


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読書コーナー~アメリカで犯罪が減った理由~

2011年08月09日 | 読書コーナー

 「ヤバい経済学」(2007年5月10日、東洋経済新報社刊)    

                           

著者:スティーブン・J・ダブナー

ニューヨーク市在住の作家・ジャーナリスト。「ニューヨーク・タイムズ」紙などの記事を執筆。著作「さまよえる魂」は全米ベストセラーになった。

さて、標題「アメリカで犯罪が減った理由」だが、序章「あらゆるものの裏側」に、こう書かれてあった。

1990年代の初めごろのこと。アメリカでは犯罪が増える一方で、クルマ強盗、麻薬の密売、窃盗など日常茶飯事だった。「まだまだずっと悪くなる」専門家は皆そう言っていた。

1995年、犯罪学者フォックスは司法長官に報告書を提出し、ティーンエイジャーによる殺人が急増すると重々しく予測した。楽観的観測で10年の間に15%増、悲観的観測では100%の増加。

同様に他の犯罪学者や政治学者たちも恐ろしい未来を予測していた。

それがである。実際には犯罪が増え続けるどころか逆に減り始めてしまった。それも減って、減って、まだまだ減った。どの種類の犯罪も、またアメリカ中どこをみても減っていった。

ティーンエイジヤーによる殺人率は5年間で50%以上の減少となり、犯罪の減少を予測できなかった専門家たちは、今度はものすごい勢いで言い訳を始めた。

狂騒の1990年代経済のおかげ、銃規制のおかげ、ニューヨーク市が導入した画期的な取り締まり戦略のおかげなどだった。つまり、人間の前向きな取り組みのおかげで犯罪が減ったという論調が主流を占めた。

ところがこういう説は皆ウソっぱちだった。犯罪が激減した原因は別にあった。

結論からいえば禁止されていた
妊娠中絶が1973年に合法化された
ことによるものだった。

さて、そこで、そもそも妊娠中絶と犯罪の減少の因果関係とは何か?

犯罪に関する限り、子供は生まれつき平等ではない。家庭環境の悪い子供はそうでない子供に比べて罪を犯す可能性がずっと高い。

妊娠中絶の合法化によって中絶に走った沢山の女性は貧しい未婚の未成年であり、まるで絵に書いたような家庭環境の悪さを伴っていた。

彼女たちの子供こそ、生まれていれば普通より罪を犯す可能性が高い子供たちだったのだが、中絶の合法化によってそんな子供たちは生まれてこなくなった。

この強力な原因が犯罪減少の劇的な効果をもたらすことになった。何年もののち、生まれてこなかった子供たちが犯罪予備軍になっていたはずの時代になって、犯罪発生率は激減したのだった。

アメリカの犯罪の波をやっと抑えこんだのは、銃規制でも好景気でも新しい取締り戦略でもなかった。他のことにもまして、犯罪予備軍が劇的に縮小したというのが真相だ。

さて、ここで問題。犯罪減少専門家たちがマスコミで自分の説を吹聴しているときに、中絶の合法化を何回原因として挙げたでしょうか。

答えはゼロ。

「アメリカで犯罪が減った理由」の回答は以上に尽きるが、この話は、問題が問題だけに、序章だけに終わらず、本書の第4章「犯罪者はみんなどこへ消えた?」で再度詳細に検証されている。

まず、中絶と犯罪の結びつきの因果関係の証明だが、

☆ 最高裁判決の前から中絶が合法だった5つの州、ニューヨーク、カリフォルニア、ワシントン、アラスカ、ハワイは2年前から中絶が認められていたが、他州よりも確実に早く犯罪が減り始めている。

☆ 中絶率と犯罪発生率との関係にも各州とも相関関係が認められた。

さらに続く。

アメリカで犯罪を減らした史上最大の要因が中絶だなんていうのはもちろん嫌な話だ。そもそも中絶自体が犯罪だと考えている人は沢山いる。

とはいえ、この取り扱いは人種問題や貧富の格差などアメリカのアキレス腱ともいえる根が深い問題を孕んでいるだけに誰もが表立った論調を控えているようで、どうやら「触らぬ神にたたりなし」。

たとえば、ある州知事に立候補した元警察幹部は「わが国が採用した犯罪対策の中で有効だったのは唯一中絶だ」と本に書いただけで支持率が急落し落選の憂き目をみているほど。

さて、そこで中絶が増えれば犯罪が減るとして、私たちは中絶と犯罪のどんな
交換になら応じるのだろう? こんな難しい取引に数字を当てはめるなんてできるのだろうか。

そして、ここから、「ヤバい経済学」
のユニークな視点で数値による検証が始まる。(168頁~171頁)

以下、長くなりすぎるので省略するがこの問題は「生まれていた場合の社会保障基金の積み立て増加の問題」、「黒人の赤ん坊を全部中絶すれば犯罪発生率は下がる」などの議論がさらに考察されていく。(336頁~350頁)


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音楽談義~久しぶりに「魔笛」~

2011年08月04日 | 音楽談義

最近、オーディオの方もどうやら一段落して、久しぶりにモーツァルトのオペラ「魔笛」をじっくり腰をすえて鑑賞する気になった。

3日〔水)の午後のこと。

とにかく”狂”と名がつくほどの30年来の「魔笛」ファンである。おそらく日本有数といっても過言ではあるまい。

指揮者と歌手の違う「魔笛」のイメージを追い求めて現在の手持ちCDが23セット、CDライブが11セット、そしてDVDが14セットで計48セットという有様。

何も沢山持っていることがその曲を理解しているとは限らず、そのことはよく分かっている積もりだが、何せ大切な身銭を切って購入するわけだからこの曲目に対する愛情のひとつの証にはなるだろう。

いつぞやの記事でベートーヴェンの名曲「ピアノ・ソナタ32番」について100枚以上の試聴盤を網羅したブログを紹介したことがあるが、それには及びもつかないものの、魔笛〔二幕)の場合はいずれも2~3枚セットで演奏時間も2時間半を越える大曲なので量的には匹敵するかと思う。

そもそも5年ほど前にこのブログを始めたのも全国の「魔笛」の愛好家と広く知り合いになって「魔笛倶楽部」(同好会)を設立しようというのが動機だった。

また、「魔笛」をもっと「いい音」で聴いて感動をより一層深めたいばかりにオーディオにも深入りしたというのも当時の偽らざる心境。

そのうち、御多分に洩れず音楽を聴く手段に過ぎないオーデイオが何だか目的みたいになってしまい、「荒野を彷徨」したもののようやく腰を据えて「魔笛」を聴く気になったという次第。

早くオーディオを忘れて音楽に没入しなければという意識は常に頭の片隅に持っている積もり。

さて、「魔笛」を隅から隅まで熟知し、もう卒業したとも言えるこの時点で改めて聴くとなると、それこそ名盤目白押しだけれども自ずから絞られてくるところ。

それはコリン・デービス指揮(1984年録音:ドレスデン・シュターツカペレ)とウィリアム・クリスティ指揮(1996年録音:レザール・フロリサン)の2セット。

     

     

(ちなみにDVDでは現在クリーブランドの常任指揮者のフランツ・ウェザー・メスト盤〔2000年)とコリン・デービス盤〔2003年)が双璧だと思う。)

さて、このCD盤の両者だがともにデジタル録音で、デービス盤は原盤が「フィリップス」、クリスティ盤は「エラート」で、ともに優秀録音で知られたレーベルで互いに不足なし。

ただし同じデジタル録音でも12年の差があるので、録音機器の進歩が音質にどのくらい影響を与えているのだろうかという興味も尽きない。現在の自分のオーディオ装置ならきっと答えを出してくれるはず。

まずデービス指揮の盤から。

一番聴きなれた「魔笛」なのではじめから違和感なくスッと入っていける。一言でいって、一切、奇を衒ったところがなく正統派の魔笛である。

主役級の5人も当時の一流の歌手で固めており、王子役(テノール)がペーター・シュライヤー、王女役(ソプラノ)がマーガレット・プライスというコンビも好み。

次に、クリスティ指揮の方は明らかに音響空間の透明度が高くて歌手や楽器の音色が自然体で彫も深くなる。やはり12年間の録音時期の差は明らかにあると思った。

歌手のほうはデービス盤に比べると総体的にちょっと見劣りするが、「夜の女王」役があのナタリー・デセイなので稀少盤という価値がある。

もし、「魔笛」でどの盤を購入したらよいかとアドバイスを求められたら、総合的にみて自分なら「クリスティ」盤を推薦する。

ところで、この魔笛が作曲されたのはモーツァルトが35歳の亡くなる年〔1791年)なので、晩年の作品に共通に見られるあの秋の青空のような澄み切った心境がうかがわれ、いわば彼の集大成ともいえるオペラなのだがどうも人気がいまひとつの感がしてしようがない。

こんな名曲なのに実に勿体ない気がする。

いろんな本の「モーツァルト」特集を見ても「モーツァルトの曲目アンケート」で上位に挙げてる人が少ない。

「馴染みにくい」の一言だろうが、一連のピアノ協奏曲が上位に食い込んでいるのにはちょっとガッカリ。

中には「東大教授」という肩書きの方がいたりして、たいへん不遜な物言いだが「頭のレベル」と「音楽鑑賞力」は必ずしも一致しないものだと痛感した。

たしかにピアノ協奏曲は美しいメロディに満ち満ちて随分魅力的なことは認めるが、聴いている途中でアッサリ決着がついてしまうたぐいの音楽である。

やはりモーツァルトはオペラを通じて理解すればするほど魅力が尽きない作曲家となっていく。

結局、「魔笛」であり、「ドン・ジョバンニ」であり「フィガロの結婚」である。

ある音楽雑誌に
「どうしようもないモーツァルト好きはオペラ・ファンに圧倒的に多い」とあったのには、「我が意を得たり」の思いがした。

ただし、一度聴いただけでは縁遠く親しみにくい曲であることは間違いなし。

自分の経験では魔笛という音楽は正面から身構えて攻めるとスルリと逃げられてしまう印象が強い。

なにせ2時間30分の長大なオペラだから、よほどの人でない限り嫌いにはならないまでも退屈感を覚えるのが関の山。

「個人にとって本質的なものに出会うためには固有の道筋がある」(「音楽との対話」粟津則雄著、176頁)というのが音楽鑑賞の常道とは思うが、もしこれをきっかけに「魔笛」を一度聴いてみようかという人が、万一いるかもしれないので留意して欲しいポイントを挙げておくと次のとおり。

「要らん世話!」と怒られるかもしれないが。)

 名曲には違いないがやはり指揮者、歌手たちによって完成度が違う。何事も第一印象が大切なので慎重に盤を選択して一流の演奏〔※)から入って欲しい。

※ 「ハイティンク」、「サバリッシュ」、「クレンペラー」、「ベーム」〔1955年)、「スイトナー」盤などが浮かぶ。

 はじめから全体を好きになろうとしない方がいい。どこか一箇所でも印象に残る旋律や、ある箇所の転調がもたらす感触などが気に入るとそれが糸口になって段々、全体が好きになるもの。

 なるべく始めは友人、知人から借りる、公共施設で聴く。これは金銭の負担がプレッシャーにならないという意味合いであり、お金が有り余っている人は別。

といったところかな。

とにかく、クラシック全般にも言えることだが、魔笛に親しむコツはどんな形であれ何回も聴くに限る。

自分の経験では30年ほど前にクルマで通勤1時間半の田舎の部署へ転勤したとき、その行き帰りにカセットテープで何気なしに2年間、デービス指揮の魔笛を繰り返し聴いたのがきっかけだった。

少々、くどいようだがこの作品がレパートリーに入るとすっかりモーツァルト観が変わる。何物にも代えられない「透明な音楽」の世界が広がる。

この音楽を知らずに一生を終えるのは、人生最高の幸せを失うことになりますぞ! 


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独り言~節電騒動のあげくに余計な出費?~

2011年08月02日 | 独り言

「全家庭、オール電化システム」なんて調子のいいことを言ってた電力会社が、うってかわって「節電にご協力を」と方向転換。

ちょっぴり、いまいましいがまあ天災がらみなので仕方ないとするかな。

オーディオで湯水のように電気を消費している自分も世の趨勢に倣って何か出来るところから手を付けてみようかとしばし一考。

システムの中で一番気になるのが常時電源を入れっぱなしのDAコンバーター「ワディア27ixVer3.0」〔以下、コンバーター)。

ちなみに、言わずもがなだがDAコンバーターとは「デジタル(Digital)からアナログ(Analogue)へ信号を変換(コンバート)する機器のこと。

CDソフトを使用する限りシステムの中の必需品であり、一体型のCDプレーヤーの場合は内蔵してある。      

このコンバーターを購入してからもう15年ほど経過し、途中「バージョンアップ」を2回ほど繰り返しているが、性能には十分満足しているものの難点はこのコンバーターには電源の入り切りスイッチがついていないこと。

いかにも電気代を気にしないおおらかなアメリカ製品らしく「常時、休むことなく電源を入れておきなさい」というわけ。

「電気代がもったいないじゃない、なぜ常時電源を?」という問いかけには、次のような模範解答がある。

CSE社の「ゼロクロス・スイッチ」を購入したときの説明書によると、

☆ 電源オンのとき

A/V機器の電源をオンにすると、通常使用状態の数十倍の突入電流が発生する。突入電流はA/V機器の半導体やフィルター・コンデンサーに過大な電流を流し徐々に特性を悪化させる。

☆ 電源オフのとき

A/V機器内臓の電源トランスには自己誘導作用があるため、電源をオフにした瞬間、1000V前後の逆起電力が発生する。A/V機器の故障は90%近くがこの逆起電力によるものと言われ、電源回路や出力回路の半導体が損傷を受けている。

日頃、わたしたちは何気なしにオーディオ機器のスイッチを入れたり、切ったりしているものの、実情はかくの如し。

これでワディア社が自社の製品に電源スイッチを付けようとしないのもよく分かる。

たしかに、これまで15年ほどこのコンバーターを使ってきて電源を切ったことはまずないが、3年ほど前に電源トランスが一度故障しただけで、半導体やコンデンサーの故障は皆無なのが見事に証明している。


そうはいっても「消費電力60W」の機器を24時間ぶっ続けで使うというのもこのご時世では、ちょっとねえ~。つまり60Wの電球を昼夜つけっぱなしと同じこと。

それに冬ならともかく、夏になるとこのコンバーターは筐体にかなりの熱を持ち手を付けられないほどになるのでエアコンの設定温度によろしくない。

そこで、今年は次の対策を講じることにした。

         

 コンバーターの上にアルミの「ヒートシンク」を置き、その上に「保冷材」〔袋入り)を載せて6時間おきに入れ替える。

☆☆ せめて就寝時間はコンバーターを接続しているアイソレーション・レギュレーター「TX200」(CSE社)のスイッチを落とすことにする。

これで節電へ大きく前進というところだが、そうなると、頻繁なスイッチの入り切り(とはいえ一日一回)でこのコンバーターの寿命の方が心配になってきた。

何しろシステムのコントロール・センターの役割を果たしているので、これが故障すると我が家のシステムは一挙に崩壊するのは間違いなし。

CDトランスポート(270)とのクロック・リンクはご破算になるし、デジタル・ボリュームが利用できなくなるので新たにプリアンプを導入しなければならないが、これに見合うプリアンプの存在を見つけるのがたいへん。


使い出して15年以上も経つし、おそらく現在は製造中止でこれに代わる代替品はもう無かろう。もちろん、最新のデジタル技術が網羅された新製品になっているはず。

しかもワディアのことだからおいそれと手が出る価格ではあるまい。現在の自分に現役時代のような馬力を求めるのは
「比丘尼に求めるに陽物をもってするようなもの」〔司馬遼太郎「歳月」)だ。

あれこれ考えていると不安になってきて、このコンバーターを購入した東京のショップのSさんに問い合わせてみた。

「バージョン・アップ済みのDAコンバーターのワディア27の中古品はありますかね?スペアで持っておきたいんですけど」

「幸い1台ありますよ。」

このSさんとは古い付き合いで、今年の1月にマークレヴィンソンのプリアンプ「N0.26SL」の購入中止~返品のときも快く応じていただいた方。

保証は万全だし、性能の方はもう分かっているしで、唯一の問題は値段だが15年前に購入したときに比べて何と1/4ほどに下がっていた。

デジタルの世界はいくら日進月歩とはいえスゴイ値下がりに複雑な心境。

何だか苦労して購入した自宅の土地価格が値下がりしたような気分だが、あと1台購入しておけば後顧の憂いはすっかり無くなり、システム維持の上で磐石の体制となる。

「よ~し」と、思い切って購入することにした。

このDAコンバーターは出力電圧を0.4Vから8.45Vまで内部の4つのスイッチの「OPEN/CLOSE」の組み合わせで16段階に切り替えられるようになっており、Sさんに頼んで出荷時の出力をこれまでよりも大きい6.8Vにしてもらった。

半年間の保証付きなのでその間は目一杯使わないと損するとまるで貧乏人根性丸出し。

自宅に到着後すぐにコンバーターを入れ替えて試聴したところ、6.8Vの出力が大きすぎてテレビ視聴の時など
ボリュームが僅か7/100ほどでうるさいくらい音が大きくなる。

「こりゃ、ダメだ」と工場出荷時の標準「4.26V」へ戻すことにした。

7月31日〔日)の午前中にSさんが同封してくれた筐体の解体方法(底板の10個のネジを外す)と、4種類のスイッチ・セッティング仕様書とをにらめっこしながら、作業に取り掛かって無事終了。思った以上に簡単だった。

     

中央付近に左右一対あるオレンジ色の部分がボリューム調整箇所で各4つの白いスイッチがあり、それぞれをOPEN側とCLOSE側のどちらかに倒すだけでの組み合わせ。

フ~ッ、これでやっと一段落。

それにしてもとんだ節電騒動で来月の電気代がどのくらい下がるか”見もの”だが、おそらく差引勘定では高くつくことは間違いなし。

しかし、システムの安心料と思えばそれでいいし、最終的に無駄遣いに終わるかどうかは神のみぞ知るところ。


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