「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

独り言~パソコンの故障で思ったこと~

2011年09月27日 | 独り言

9月22日(木)の早朝のこと。

パソコンを開くと、いきなり次のような表示が出てきた。

「次のファイルが存在しないか、又は壊れているためウィンドウズを起動できませんでした。Windows System Conf1G Sysyem」

あれっ、時々起きるパソコンの”気まぐれ”の類だろうかと、二度三度起動してみたものの、やっぱり同じ表示が出てくる。

ここに至って、ようやく「これはただならぬ故障だ、とても素人の手に負えるものではない」ということが分かってきた。

このパソコンは使い始めて5年2か月ほど経過しており、4か月ほど前にあまりにも応答スピードが遅くなったためメモリーを増強したばかり。

そのときには、OSを「ウィンドウズ7」に買い直そうか、「XP」のままで行こうかと随分悩んだものだが節約意識がはたらいて結果的に「XP」で続行したものだった。結果的に「凶」と出た感じ。

すぐにパソコン修理をいつもお願いしているTさんに連絡してみると、当日は予約でビッシリ埋まっていて、翌日の23日(金)の15時以降ならOKとのこと。

予定どおりお見えになったTさん、ひとしきり作業された後いわく「XPセットアップ・ディスクを使っても復旧できません。ハードディスクが故障しているようです。リカバリーしてもいいのですが、保存しているデータがすべて消去される可能性があります。有料になりますがひとまず知り合いの業者に故障したハードディスクからデータの引出しを頼んでみましょうか?」

「データの消去は絶対困ります。仕方がないのでお願いしますが、このパソコンは完全に復旧しますかね~」

「5年経過していてブログなどで相当酷使されているようですね。保証はできません。当時と比べると現在のパソコンは機能も良くなって価格も随分安くなってますよ。もう買い替えたほうがいいかもしれませんね」

専門家からここまで言われるともはや仕方がない。あっさり買い替えを決心して「自分のような使い方だと、どこのメーカーがいいですかね?」と質問。

「T社のパソコンがいいんじゃないですか。」と即答された。

翌日の24日(土)、近くの大型電気店に行ってみると、ちょうど現在は春物と秋冬物との端境期でT社のものは無くてS社とF社のものがあった。どちらがいいのか、その場でTさんに連絡してみると「F社のものをおすすめします」とのこと。

しかし、妥協するのもなんだか釈然としないので念のため、翌25日(日)に別の電気店に行ってみると、何と秋冬物のT社の新型パソコン(Core-i7)があるではないか。どうやら地方は都会と違って”お店同士で切磋琢磨して競争する”意識に乏しいようで、これはちょっと困るよねえ。

すぐに車に積んで持ち帰り、26日(月)の午前中に再度Tさんに来てもらって設定や旧データを移行してもらってやっと新パソコンが覚束ないながらも使えるようになった。メデタシ、メデタシ!

結局、丸4日間のパソコンの空白が続いたわけだが、この間はなんだか自分の両手両足が”もがれた”ような気分で「手持無沙汰なること」極まりない。

今更ながらパソコンにどっぷり浸かった毎日を送っていることを実感した。

一番気になったのがメール。大事なメールが届いているかもしれず、返答しないままだと相手に失礼だし、自分だって困る。

とりあえずタンノイ・ウェストインスター用のチャンデバがいよいよ佳境にさしかかって大事な段階なので細かい仕様について富山のHさんに直接電話し、事情を説明したうえで詳しくやり取りを行った。

これでひとまず安心。

さて、次に気になるのが「ブログの更新」。

この5年間2~3日おきに更新に取り組んでおり、日常の習慣みたいになっているのでなんだか仕事をやり残したような感じが常につきまとう。自分の場合は書き下した原稿をそのまま登載できる能力はとても持ち合わせていない。つまり、アタマの回転があまりよろしくない。

したがって一度書いた原稿を少なくとも数回推敲を繰り返すとともに、(原稿を)一晩か二晩は寝かせることにしている。経験上、翌日になって、気分が改まると「なぜこんな”くだらない”ことを書いたんだろうか」と思うことが多々あるのでこれは効果的な防止策だが、それでもとても完璧とまではいかない。

やはり匿名のブログといっても、何を書いてもいいというわけではない。「エッセーはすべて自慢話だ」と喝破したのは山本夏彦(評論家)氏だが、なるべくなら読者から「こいつは気障な奴だ」と思われたくないのがやまやま。

ちょっと大げさだが、(内容を)少しでも「物事の本質」に肉薄したものにしたいし、「リアリティ」に溢れた方向に仕上げたい気持ちで時間をかけている積もり。

それと関連してランキングの順位。これは気にならないと言えば明らかにウソになる。

更新をしないと確実に記事へのアクセス数が減るし、ランキングの得票数も落ちていくが、現在、次の3つのランキングに順に応募している。かなり「欲張り」なのである。

★ 「ボーダーレス・ミュージック」

★ 「ピュアオーディオ」

★ 「人気ブログランキング」

「ボーダーレス」はクラシック主体の参加者で占められており、「ピュアオーディオ」はオーディオ主体だが、何だかロートル兵(自分のこと)が若い人たちに交じって孤軍奮闘しているものの全体的にちょっと”浮いてる”感じがするし、最後の「人気ブログ」はクラシック主体で規模も大きいがこれは良きにつけ悪しきにつけ有名タレントの人気投票みたいな趣がある。

問題は「ボーダーレス」である。ここ1年ほどはありがたいことに1位にランクされることが多く、実は自分でも一番こだわっているランキング。

以前、民主党の「事業仕分け」のときに「蓮舫」議員がスーパー・コンピュターの演算速度の世界的競争について「1位じゃないといけないんですか、2位じゃダメなんでしょうか」とのコメントが随分脚光を浴びた。テレビのCMでもたびたび見かけたが、その趣旨は「1位を占めることの意義はそもそも何ですか」という意味合いだったろう。

この4日間の(パソコンの)空白のもと、(ブログの)更新ができないままに改めてこのことを自分に当てはめて考えてみた。

丁度良い機会になったわけだが結局、1位になっても別にどなたからも表彰をしていただけるわけではなし、経済的に「一文の得」になるわけでもなし、社会的に貢献していることでもなし、そうすると最終的な意義としては「自己満足」とか「人から認めてもらう喜び」ぐらいしか考えられない。

「自己満足」なんて箸にも棒にもかからない代物だが、「人から面白いと認めてもらう」のはブログを続けていく上での大きな推進力である。
    

うちのカミさんなんかは日頃、パソコンの前で(自分が)呻吟しているのを知っているので、「この際、ブログなんか止めてちょっとノンビリしたら」なんて気楽なことを言っているが、やっぱりそういうわけにはいかない。

よし、これからも頑張ろう!応援をよろしく~。

 


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読書コーナー~あまり進歩して欲しくない技術~

2011年09月22日 | 読書コーナー

「測る技術」(2007年4月5日、ナツメ社刊)、「ものをはかるしくみ」(2007年7月25日、新星出版社)と相次いで、「測る」という事柄に焦点を当てた著書に巡りあった。

       

「測る」
作業は縁の下の力持ちのようなもので、日常ではあまり人の意識に登場することはないが「文明は測ることから始まった」という。

これは、はるか昔、住まいを建てたり農作物などを交換し始めた頃から発達してきた人間の知恵であり、現代の科学的計測技術も人類の永年にわたる叡智の結晶の一つ。

近年では、スーパーなどでは包装されたパック販売がほとんどのため「測る」という作業を具体的に目にすることが減ってきたが、「測る」ことを抜きにして現代の文明は成り立たない。

それに「必要は発明の母」という言葉があるが、これまで測ることのできなかったものを測る方法が次々に考え出されている。

これは長さ、質量、密度、体積など全ての量にいえることで、化学、物理学、電気工学など様々な分野の研究を広げ、進歩の速さもさらに加速している。

おかげで最近では「人の心」を測ることさえ、少しずつではあるが現実のものとなりつつあるという。

心を読み取る鍵を握るのは、「人間の脳波」だそうだ。

脳には多くの神経細胞が存在し、細かな網のようなネットワークをつくりあげているのだが、脳が何らかの働きをすると、この神経細胞に電気信号が流れ、頭皮上に電位変化があらわれる。

これが「脳波」である。

人間がリラックスしているときに脳がα波を出すことはよく知られているが、脳波は人間の精神状態や喜怒哀楽といった感情によってある一定の変化を起こす。

こうした脳波の変化を類型化していくと、脳波から感情の変化がわかり、その人の心の変化でさえも読み取れるようになるという。

この、技術については、犯罪捜査やメンタルケアなどでの活用が期待されているようだが、使い方を間違えると、人の心の中に土足で踏み入る危険性を孕んでいる。

古来、人の心の奥底は解明できない闇の部分として、人類が限りなく繰り返してきたドラマや芸術の主要なテーマともなっており、いわば数値では計測できない最後のミステリー・ゾーンである。

たとえば「ブルータス、お前もか」といって殺されたシーザー、日本の戦国時代なんて部下が主君を裏切る話がごまんとある。

織田信長は本能寺で明智光秀に討たれたし、徳川家康の父だって部下から殺されている。天下分け目の「関が原の戦い」では小早川秀秋の寝返りが一因となって東軍の勝利となった。

また、次元はやや異なるが、自分の心の奥底を隠して「本音と建前」を使い分けることにしても、人とのコミュニケーションにおいて周囲との不必要な軋轢(あつれき)を避けるための高度な人間の知恵。

この辺はコンピューターがいずれ人間の知性を凌駕できたとしても、最後まで及ばない分野だろう。

したがって、「人の心」はできるだけそっとしておきたい領域であり、あまり「進歩して欲しくない技術」。

脳波の計測器をつけて上司と部下が、あるいは男性と女性が会話をするなどということはあまり想像したくない光景である。

従来どおり、表情や素振り、声音などによって相手の心理を洞察するほうがずっと豊かな人間生活のように思えて仕方がない。

最後に豆知識をひとつ。

☆ マラソンの「距離」「タイム」はどのように測るのか

まず距離の42.195kmの方は「自転車計測」が主流の計測方法になっている。

その方法は、検定を受けた3台のメーター付き自転車に「自転車計測員」という人が乗り、道路の縁石から一定の距離の場所を走っていく。

そして、この3台の計測結果の平均値を使用する。その誤差が、0.1%以内(つまり42m以内)であれば、公式のコースとして認められる。

次に、タイムだが靴にあらかじめ取り付けられた「チャンピオンチップ」というICタグによって行う。

これは500円硬貨大のプラスチックで作られている、重さ数グラムの小型発信器チップで、靴にチップを装着したランナーがカーペット状のアンテナを通過すると、アンテナから発射された電波によってチップのナンバーをすばやく読み取り、その瞬間の時間をコンピューターに記録する。

このシステムの登場によって、従来計測されていなかったスタートラインの通過時間や5キロメートル、10キロメートルなど各地点の通過タイム(スプリットタイム)、フィニッシュタイムが瞬時に計測されるようになった。

2007年2月に開催された東京マラソンでは大会事務局から貸し出されたICタグを選手が靴につけて走ることで3万人のタイムが精確に計測された。


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オーディオ談義~「ありがたいアドバイス」

2011年09月20日 | オーディオ談義

真空管アンプの自作マニアの方々がよく愛用しているのが〔株)サンバレーの「ザ・キット屋」さん。

ネットには「店主日記」などが公開されており愛読者が多いが、愛好家たちの情報交換の場として「キット屋倶楽部」というコーナーが設けられており、一部のマニアがコラムを寄せている。

メル友の名古屋の「Y」さんもそのうちの”お一人”で「私のオーディオ人生」と題して既に21回も連載されている。

そのYさんから最近、「第22回目のコラムを掲載しました」とのご連絡があったので早速アクセスしてみた。

題名は
「20cmフルレンジスピーカーを鳴らす!」

内容に興味のある方は上記をクリックしていただくとお分かりのとおりだが、オーディオに対する考え方が自分と似通っていて、音のほうもいかにも「好みの音」が出てきそうなシステム。

いたずらにレンジを追い求めず音楽的に心地よい響きを求めてのアプローチである。

これを「PP5-400」とか「WE300B」の名出力菅で鳴らすのだから、もうたまらない。

Yさんと知り合ったきっかけはそもそもお互いに古い英国製のSPユニットを愛用していることからだった。

Yさんはグッドマン社のユニットを使った3ウェイシステムを自作のボックスに収納しておられ〔この辺は「私のオーディオ人生」に詳しい)、自分は同じグッドマン社の「アキシオム80」をこれまた自作のボックスにというわけ。

さらに「メーカーお仕着せのSPシステムはサラサラ使う気になりませんよね」というのも共通点。


SPボックスの自作となると、構造、材質、吸音材、ネットワーク(コイル、コンデンサー)、位相の問題などに気を使ってそれはそれはたいへんな苦労を伴うが、それだけに楽しみも倍以上になるといっても過言ではない。

もちろん自作の限界があるものの、世界で”唯一の音”というのがこたえられない。

実は、このところSPユニット「アキシオム80」(守備範囲200ヘルツ以上)を2発にして鳴らしているがいまだに2発を1発にしたり、再び2発に戻したりと「二転、三転」中。

「駄耳」はとかく無駄な回り道が多くて困る!

何とか2発のままで大編成や小編成の演奏がうまく鳴らせないものかと、この2週間あまり悩んだ末にようやく窮余の一策を思いついた。

それはアキシオム80を収納しているボックスの裏蓋の開放。

これまでは羽毛の吸音材をぎゅうぎゅう詰めにして密閉型で使用していたのだが、今度は吸音材はそのままにし、裏蓋だけ取っ払って、ユニットの前後の振幅を楽にしてやろうという魂胆である。

当然、ボックスの背後に放出された位相の違う〔逆相の)音がSP正面の方に回り込んで〔正相の)音の邪魔をしてくるが、波長の長い低域音は(アキシオム80の)守備範囲ではないので幾分か情状酌量の余地がありそう。

とにかく、やってみなければ分からないと実験してみたところ密閉のときよりはメリットが大きい印象。

音の締まりは少なくなるものの、窮屈そうな感じがなくなって伸び伸びと鳴ってくれる感じ。

ただし、難点を挙げると音を目方に例えるとちょっぴり”軽く”なった気がするし、”タメ”がなくなる感じもある。

まあ贅沢を言うとキリがないのでこの辺が”妥協点”かと思っていたところ、悩みを打ち明けていたYさんからメールが届いて「裏蓋の開放スペースを調節してみたらどうですか」との「ありがたいアドバイス」。

「なるほど」と「目からウロコ」。

これまでの白か黒かの二者択一に、新たに灰色という選択肢が加わったというわけ。さらに、その灰色にしても白に近い灰色から黒に近い灰色まで無数にある。

さて、問題は「どういう具合に調節して開放しようか?」。

楽聖ベートーヴェンはハイリゲンシュタットの森を散策しながら名曲の楽想を得たという。


「ベートーヴェンを引き合いに出すなんて、お前は身の程知らずのバカか」と罵られそうだが、自分の場合は毎日通っている運動ジムで無心になって漕ぐエアロバイクの最中に名案が浮かんでくることが多い。

今回は「裏蓋にドリルで沢山の穴を開けたらいいかも」とのアイデアがフット浮かんだ。

「よし、やってみよう!」

早速、家に戻ると”穴開け開始”。18日〔日)の午前中のことだった。

     

どのくらいの穴の数がベストなのかサッパリ分からないので、とりあえずSPユニット〔20cm口径)の範囲に絞って1cm口径の穴を適当に開けてみた。

次から次に出てくる”木くず”の処理がたいへんで「また散らかして~、後でちゃんと掃除してね」とのカミさんの声を背に受けて馬耳東風。

思ったよりも手間が掛かって左右ペア〔計)4枚で7時間程度の作業だった。ただし、かかった経費は1cm口径のドリルの刃代金の670円だけ。

ワクワクしながら取り付けネジを締めてボックスに装着。

次が装着後の写真。上の裏蓋が最上段、下が2段目のアキシオム80の分〔右チャンネル)の裏蓋。

           

これで試聴してみるとウーム・・・。

「いい音」とは(自信が持てないので)言わないが、程好くバランスが取れていて、これまで我が家で聴いてきた中では一番”好み”に近付いた音のような気がする。

オーディオはやっぱり”おつきあい”と”情報収集”が大切で孤立していたら前進が望めないことを改めて痛感した。


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読書コーナー~「順番への思惑」

2011年09月13日 | 読書コーナー

「阿刀田 高」氏の「ミステリーのおきて102条」は、ある新聞の日曜版に1996年から1998年まで週1回連載されたエッセイをまとめた本。

                               
 
著者によると「新しいミステリーを紹介するんじゃなく、ミステリーの本質を語るような軽いエッセイ」ということで、連載順に102編を列挙してある。

日ごろ、ミステリーは「座右の書」みたいな存在なのでこの本も気持ちよく読ませてもらったが、その中の18編目の
「短編集の打順」
が特に面白かった。

内容は、いくつもの短編を編纂して1冊の本にするときにどういう順番で作品を並べると効果的かということにあった。

かいつまんでいえば次のとおり。

著者によると、40冊以上も短編集を出版しているがその都度、どういう順番にするか考え込んでしまうという。

たとえば、短編小説を10本並べて1冊の本を作るとして、10本全てが良い作品であればそれに越したことはないが、現実には困難でどうしても良作は4本程度に絞られてしまう。

どうしてもバラツキが出てくるのは世の中、万事がそうなので仕方がないところ。

たとえば自分のブログにしても記事によってかなり当たりハズレが多くバラツキがあるのは十分承知。中には「意欲作」が蓋を開けてみると意外にもアクセス数がサッパリというのは日常茶飯事。

また、日本で最高峰の難関〔文系)とされ、全国の選りぬきの秀才たちが集まる「東大法学部」でさえ入学してからバラツキが出るという。

真偽の程は不明だが550人の卒業生のうち”とびっきり”優秀なのは1割クラスで、後は”十把(じっぱ)ひとからげ”なんて話を、聞いたか、読んだか、したことがある。まあハイレベルでの話だが。

さて、話は戻って短編集の順番だが、良い方から順番にABCDの作品があるとすれば、冒頭にBを置く。2番目に置くのがAである。Cが3番目、そしてDがラスト、つまり10番目に置くとのこと。

もし5本良い作品があれば、さらに”いい”としてその場合はさしずめEとなるが、Eは6番目あたりに置く。

かくて10本の短編を編纂した本は普通の出来栄えの作品を☆とすると「BAC☆☆E☆☆☆D」の順番になる。

理由はお分かりのとおり、やはり最初が良くなくてはいけない。

読者は最初の1編を読んで期待を持つ。これが悪いと、その先を読んでもらえないおそれがある。小説というものは、読者に読まれて初めて存在理由が生ずる。

ただ、一番最初にAを置かないのは、Bで引き込み、さらに面白いAへとつないだ方が運動性が生ずる。

展望が開ける。BからAへと弾みをつけ、3番目もCで、そう悪くはない。ここらあたりで、「良い短編集だ」と読者は思ってくれる。

それ以後が少々劣っても
「どれも”いい”ってワケにはいかんよな」
と許してくれる。

そして、最後も、それなりに悪くないDで全体の印象を整える、という寸法である。中だるみのあたりにEを置く理由もこれでお分かりだろう。

著者の作品で言えば直木賞をもらった短編集「ナポレオン狂」では、二番目に「来訪者」(推理作家協会短編賞受賞)を、三番目にちょっとユニークな「サン・ジェルマン伯爵考」、最後に「縄」とおおむね上記の方針に沿って編んでいる。

要約すると以上のとおりだが、これまで短編集を読むときに順番の並べ方などあまり意識したことがなかったのでまったく「目からウロコ」だった。

この並べ方の背景を知っておくとそれぞれの作品がどのように評価されているのかという作者なりの思惑が透けて見えるので興味深い。

これはいろんな方面に応用がききそう。

たとえば、真っ先に思い浮かぶのがCD盤の曲目の並べ方。

交響曲や協奏曲では楽章の順番がきまっているのでこの限りではないが、歌手や演奏家の名前でタイトルが銘打たれたCD盤はおおむね該当する。

たとえば、10曲以上収録されているCD盤の中で全てがいい曲かというと絶対にそういうことはない。どんなに気に入った歌手でも曲目によって当たり外れがある。

これまで何番目に気に入った曲が多いのか気にかけたことはないが、手持ちのCD盤を改めて確認してみると、これが以上の内容とかなり当てはまるのである。

取り分け2番目の曲が一番好きというCD盤がかなりあるのに本当に驚いてしまった。しかも、中ほどに1~2曲わりかし気に入ったのがあって、ラストにまあまあの曲が多いのもよく該当する。

たとえば、エンヤのCD盤「ベスト・オブ・エンヤ」。16曲の中で2番目の「カリビアン・ブルー」が一番好きだし、フラメンコの名曲ばかりを集めた「フラメンコ」も2曲目の「タラント~ソン・ソン・セラ」が一番良い。

ジャズ・ライブの名盤とされるビル・エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビー」にしても1曲目と2曲目を抜きにしては語れない
     
          


CD盤の曲順以外にも、演奏会などの当日の演目の順番あたりもこれに該当しそう。

世の中、すべての物事に順番はつきものだが、皆さんも、手持ちの短編集やCD盤などのほかいろんな順番付けされたものについて確認してみると意外とこの
「順番への思惑」
に心当たりがあるのではあるまいか。


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オーディオ談義~「三歩前進、一歩後退」~

2011年09月09日 | オーディオ談義

ようやく過ごしやすい気候になりつつあり、音楽とオーディオに親しむ機会が多くなった今日この頃。

6日(火)の夕食前のひととき。

その日のいろんな用事〔主夫業!)が済んでホッと一息というわけで、この時間帯はいつも芋焼酎(カボス果汁で氷割り)をチビリチビリやりながら音楽を聴く至福の時間。

            

アルコールで自制心を少しばかり麻痺させて音楽を聴くとひときわ”熱くなる”のでこの習慣はちょっと止められそうにない。

音質についてもまあ満足できる範囲で細かい欠点を言うといろいろあるが、取り立ててシステムをどうこうしようという気はさらさらなかった、そのときまでは。

ふと、何のはずみか中高域専用のスピーカーユニットの「アキシオム80」を1本(片チャンネル)から2本にするとどういう音がするんだろうと思いが湧き起こった。

現在のシステムは真空管式のチャンデバ(fo=200ヘルツ、スロープ12db)を活用してウーファー4発に対してアキシオム80を1発。

それをウーファー3発にしてアキシオム80を2発にするというわけで、こちらのほうが数的にはずっとバランスが取れていそうな気がする。

「今よりもっといい音で聴けるかもしれない」、一旦こういう考えに取りつかれるともうダメ。

音楽鑑賞に身が入らなくなってすぐに行動に移したくなる。これはオーディオマニアの方ならお分かりのとおり。

作業としては比較的簡単に済むのも大いに乗り気にさせられる要素のひとつ。ウーファー用の4本のSPユニットのうちの一番上のユニットを入れ替えるだけでいい。

(作業前の写真)

           

「アキシオム80」はたいへんデリケートなつくりで、入力オーバーになるとすぐに壊れるのでスペアは欠かせない。

なにぶん古いユニットなので手に入れるのに苦労したが2年ほど前に「無線と実験」誌の「売ります」欄で知り合った千葉のSさんから譲ってもらったペア〔2本)を後生大事に保存してあるので心強い。

今回はこれをスペアの身分から解放し、いよいよ晴れの舞台に登場させてやろうという親心(?)。

5時半ごろにカミさんが帰ってきたので「おい、一番上のスピーカーを降ろすのでちょっと加勢してくれ~」。

帰ってきた早々でややご機嫌斜めだったが、とてもひとりでは無理なのでひたすら低姿勢。

ボックスを無事降ろし終えると、すぐに入れ替え作業に取り掛かった。

SPボックスを倒して裏蓋を開け、羽毛の吸音材を取り出し、最上段のユニットの4箇所のネジを外し、SPコードとの接点部分に十分に熱した半田ごてを当てて外す。

次に新たにアキシオム80を容れてネジ締め、半田でコードを接点に固定し、再び木綿袋に小分けした吸音材をぎゅうぎゅう詰に押し込んで裏蓋を閉じるといった”夕飯前”の流れ作業で40分ほどで終了。

夕食をはさんで一休みしたあと、カミさんに「今度はボックスをSP台の上に載せるので、もう一度加勢してくれるかなあ」と猫なで声。

ところが、二人でいざ取り掛かってみると肩辺りまでは持ち上がるもののそれから上にどうしてもボックスが上がらない。

北海道産の5cm厚の楢の木で作ったボックスはとても重たくて、明らかに腕力不足。

自分が体重54kg〔身長170cm)、カミさんが体重41kg(身長159cm)と、二人ともヤセギスの部類で非力なのでどだい無理な相談だった。

「とてもダメだわ」とカミさんが早々にギブアップ。

隣家の仲良しのTさんに応援をしてもらおうかと考えたが、70歳過ぎのおじいちゃんなので腰でも痛められたら取り返しのつかないことになる。

早く新システムで聴きたいのはヤマヤマだが、夜も更ける一方で泣く泣く諦めざるを得なかった。

翌朝、8時過ぎになってSPボックスを作ってくれた会社に勤め屈強な体格の持ち主で、気心の知れたSさんに「10分ほどで済む作業ですが~」とお願いすると、「いいですよ、今から行きます」とひとつ返事で来てくれた。

二人でヨイショと抱え上げてやっと聴ける状態になった。Sさんには「たったこれくらいのことで」と固辞されたが、心ばかりのお礼をさせてもらった。

(作業後の写真)

          

さあ、やっと試聴できる状態になった。果たしてどんな音がするんだろうか。こういうときはいつも緊張とスリルで心臓の鼓動が早くなる。

まず「春の祭典」(ゲルギエフ指揮)を聴いてみたところ、明らかにアキシオムの受け持つ境界の200ヘルツ付近の中音域の音量が豊かになって低域とのつながりが良くなっている。

この辺はこれまで一番不満に思っていたところで、〔1本のときに)ボリュームを上げて中域の量を増やそうとすると同時に高域がうるさくなるのでジレンマに陥っていたところだがこれで見事に解決。

「良し、良し!」

ただし、アキシオム80(口径20cm)が2本になると単純に2倍の音量になればありがたいのだが、そうは問屋が卸さない。

音の強さは物理学的に√2倍(=1.4142・・・)となるのでおよそ4割り増しの結果になるがそれでも効果は大きい。

「やはり入れ替えて正解だった」と納得だが、クラシックはいいものの、ジャズに限っては以前よりもちょっと落ちる気がした。

高域の出るポイントが2箇所になったため音像が分散してちょっとあいまいになる印象で、やはり高域はただ一点の音源がいいようだ。

上段のアキシオムだけサランネットを被せて高域部分だけ抑えてみる方法があるので試してみよう。

結局、今回の変更は欲目に見て「三歩前進、一歩後退」といったところかな~。

 


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独り言~「みかんの花咲く丘」~

2011年09月06日 | 独り言

7月下旬に入って食事が喉を通らなくなり、一時危篤状態に陥った母〔95歳)だが、点滴や流動食などでようやく危機を脱して現在は小康状態に。

これも手厚い介護をしてくれる看護士さんのおかげだが、「食事のときなど目が醒めているときに音楽を聴かせてあげると脳の働きや情操にいいと思います。家にラジカセがあったら持ってきていただくといいのですが~。」とのご提案。


音楽療法というわけだが、母の役に立つことなら何でもするし、得意というか、これはとても好きな分野なので願ってもない話。

丁度使ってないソニーのラジカセがあったのでそれはいいとして問題はジャンルをどうしようか。

お年寄りばかりの病室で”ジャズ”を鳴らすなんて論外だし、”クラシック”はちょっと”かた苦しそう”だし、やっぱり日本の歌だろう。

若い頃に病気で夫に先立たれ女手ひとつで幼い子供四人〔自分は末っ子)を育て上げた母なので、音楽に親しむ時間〔余裕)なんてとてもなかったが、食後の食器洗いのときによく童謡を口ずさんでいたのを覚えている。

たしか童謡を収めたCDがあったはずだがと探してみると、「心のうた 日本のうた 決定版抒情愛唱歌大全集」という14枚組のCDが見つかった。

       

購入するきっかけとなった新聞の折りたたみ広告が挟んであって、1995年とあるから16年ほど前に購入したものだ。

    

その中からこれが良かろうと選んだのが「みかんの花咲く丘」と題した一枚のCD。

        

唄っているのは「音羽ゆりかご会」。児童合唱団だが、「かもめの水兵さん」など島田祐子さんの歌も含まれていて全25曲。

このCDを看護士さんに届けて1週間ほど経ってからのこと、”みかんの花咲く丘”がたいへん好評です。お母さんも含めて病室の皆さんが何ともいえず穏やかな表情になって、すごくいい雰囲気になりました。ほかの病室の方にも是非聴かせてやりたいくらいです。」と遠慮がちにおっしゃる。

「そのくらいお安い御用ですよ。」と、翌日すぐに次の三枚のCDを追加して持って行った。(コピー盤なんて野暮なことは書きませぬぞ!)

☆ 「夕焼けこやけ」〔ひばり児童合唱団)ほか

☆ 「赤い靴」〔島田祐子)ほか

☆ 「赤とんぼ」(日本合唱協会)ほか

改めて大喜びされたが、そんなに〔童謡の)評判がいいのならと、久しぶりに我が家のオーディオ装置でもじっくり聴いてみた。

すると、歌詞の情景がすぐに思い浮かぶし、メロディーも親しみやすいし、何だか童心に返ったような心地がして、懐かしくてほのぼのとした気持ちになった。

生まれ育った”ふるさと”を思い出しながら、「自分の音楽鑑賞の原点は抒情愛唱歌なんだよなあ」と感慨もひとしお。やはり日本人。

たしか「小塩 節」(おしお たかし:ドイツ文学者)氏の著書だったと思うが、モーツァルトが6歳前後の頃に作曲した一節が35歳で亡くなる年に作曲されたオペラ「魔笛」の中にそのまま使われているという話に胸を打たれた記憶があるが、人間は「円環の生涯」に生きているのかもしれない。

たとえば釣りには「鮒(ふな)釣りに始まって、鮒釣りに終わる」という言葉がある。

幼少の頃に近くの小川で始めた鮒釣りが長ずるに及んで湖沼、海釣りなどの大掛かりな支度と複雑な仕掛けを伴った釣りとなり、老境に至って体力の衰えも手伝ってシンプルな鮒釣りに戻って枯れた味わいを堪能するという意味合い。

「オーディオ」だってそう。

「スピーカーはフルレンジに始まってフルレンジに終わる」。

何といっても最終的な音決めをし、オーディオの「華」ともいうべきスピーカー〔以下、SP)だが、初心者の頃はフルレンジ1本のユニットで鳴らし、音にうるさくなるにつれて段々とエスカレートし低域と中高域を分けた2ウェイ、3ウェイ方式に移行して周波数レンジをひたすら追いかける。

そして高齢化とともに高い方の音が次第に聞こえづらくなる。

これは例外なく誰にでも訪れる耳の老化現象で一般的に人間の可聴帯域は20~2万ヘルツとされているが、60歳を超えるとせいぜい1万ヘルツが聞えれば上等の部類だろう。

すると、周波数レンジにこだわる必要性もなくなり、むしろ音の艶とか色気、抜け、バランス、分解能、奥行き感とかにうるさくなる。

そうすると、周波数を分割するネットワークの不自然さに気付き、シンプルなフルレンジのSPユニットの良さに思い至って逆戻りしていくというパターン。

実は自分もその例に漏れない。近年、レンジに対する興味が薄れるばかり。

デジタルは日進月歩の世界なのでとかく周波数レンジの拡大にキリがないようだが、音の入り口でどんなに広いレンジにしようとも、出口に当たる「SPの再生能力」がきちんとついていけるんだろうか?

レンジも大切だろうが、SPの改良も抜かりなく手の届く値段の範囲内でやってくれえ~。

余談になるが富山のメル友「H」さんから教えてもらった話だが、Hさんの師匠にあたる方が「レコードとCDの違い」について次のようなことを言っておられた由。

 「 レコードは〔針で)”こする”から良い音がする。CDは 夢精 だ。」と言われました。

ちなみに 、(これは)この方の口癖で トレードマーク、私も同感です。だって、バイオリンもビオラもチェロもコントラバスも、ギターもそうでしょう。

たいへん含蓄のある言葉・・・。デジタルの音は果たして「砂上の楼閣」か。


さて、話は戻って手持ちのタンノイ・ウェストミンスターの38cm口径オリジナル・ユニット(HPD385A)を取り外して、補助バッフルを利用しアルテックの403A〔20cm口径)フルレンジ・ユニットを付けてみたい誘惑にずっと駆られている。

童謡とかボーカルを中心に聴くのならおそらく最高だろうなあ。


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音楽談義~以心伝心~

2011年09月03日 | 音楽談義

モーツァルトの演奏に定評がある指揮者カール・ベーム(1894~1981)。

彼の指揮したオペラ「魔笛」〔1955年〕は今でも愛聴盤だが、ほかにも「レクイエム」、「フィガロの結婚」などの名演がある。

その彼に次のような逸話が遺されている。

あるときブルックナーの交響曲を暗譜で指揮していた彼は思い違いをして、ここでチェロが入ってこなければならないのにと思った〔錯覚した)のだが、その瞬間(チェロのほうを向いていた分けではなかったのに)ひとりのチェロ奏者が間違って入ってきた。

あとから、ベームが「さっき君だけ間違えて入ったね」と尋ねると,当のチェリストはこう答えたという。「マエストロが入れ”と思っていらっしゃるような感じがしたものですから」と。

まさに「以心伝心」、指揮者と楽員がいかに目に見えない糸で結ばれているか、やはり余人には計りかねるところがあるものだ。

以上の話は次の本に掲載されてい
たもの。

「音楽家の言葉」(1997年、三宅幸夫著、五柳書院刊) 

             
    

文脈から推察すると人間の感覚が研ぎ澄まされ、指揮者と楽員が深い信頼関係で結ばれると、
「以心伝心」
でこういうテレパシーまがいの神業のようなことも可能になるという実例として挙げられていた。

ベームの「思い違い」から出発した話なので当然ベーム側から洩らされた話だろう。

しかし、この「以心伝心」というのはちょっと”出来すぎ”のように思えてどうにも仕方がない。ベームにそういう器量があったのかな。

少しこだわってみて、「ホント」説、「偶然」説の両面から勝手に考察してみた。

ケース1 「以心伝心」ホント説 

ベームの棒の振り方はほとんど目につかぬほど小さかったので慣れない楽員たちを大いにまごつかせたという。

ウィーンフィルのチェロ奏者ドレツァールは言う。

「彼はオーケストラの玄人向きの指揮者だ。あまり経験のない若い楽員向きではない。彼の指揮に慣れているものは、ほんのわずかな棒の振り方と身振りだけで、さっとついて行くことができた。いつもごく小さい身振りに終始し、もし大きくなったとしたら、絶望の表現だった。」

テレパシーまがいの以心伝心の背景にはベームの極めて微妙な指揮棒の動きがあった。楽員たちは常に彼の指揮棒を注視しているのでどんな細かなクセも分かっていた。

したがってベームの思いが指揮棒に微妙に表出された途端、チェロ奏者が同時にその動きに無意識のうちに反応してしまった。


ケース2 「以心伝心」偶然説

ベームは随分厳しい指揮者だったらしい。演奏中、鵜の目鷹の目で楽員たちのミスを見張っているので、若い楽員たちはそれにびびってしまう。

一度でもミスした犯人は決して忘れずいつも「ミスしたら承知せんからな」と言わんばかりに相手をにらみつけるので、よけい相手は不安になる。するとそれによってまた新たなミスを犯す危険が生ずる。

むずかしい箇所にさしかかると、ベームの顔が不安感で引き歪む。ほんらいならこういう箇所でこそ楽員たちに安心感を与えるべきなのだが、新入りの楽員たちは彼の顔つきにおびえて、ミスを犯す危険が絶えなかった。

それでますます指揮者は腹を立て、激しくわめき、罵りちらす結果になる。ベームは権威を保つことにこだわり、相手にやさしくすればすぐ付け上がると考えるタイプなのでそんな用心が演奏の最中に隠せなくなる。

ウィーンフィルの首席チェロ奏者ヘルツァーが新入りのときの始めての練習で例によってべームからいびられ(ベームは新入りをいびる癖があった)、何と同じ箇所を11回も演奏させられたという。

12回目になるとこの箇所を一緒に弾かねばならないヴィオラ奏者がまず抗議した。ヘルツァーの隣のチェロ奏者もこの嫌がらせに文句をつけた。するとベームはかんかんになってピットから出て行ったという。(「指揮台の神々」より)

指揮者と楽員のこういう険悪な関係を考えると「ケース1」のような「以心伝心」は、ちょっと出来すぎ?

チェロ奏者が「マエストロが
入れ”と思っていらっしゃるような感じがしたものですから」と言ったのは単純な自分のミスをカバーするための巧妙なおとぼけ”
であり、そのミスの瞬間がベームの「思い違い」と偶然重なっただけというのが「ケース2」だが、こちらのほうがどうやら信憑性が高いような気がする。

最終的な真実のありようは不明だが、
こういう「以心伝心」まがいの深い信頼関係が楽員との間に結べる指揮者として思い浮かぶのは、古今東西を通じてあのマエストロ「フルトヴェングラー」
だけではあるまいか。


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