「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

読書コーナー~「文明の衝突と21世紀の日本」~

2010年02月04日 | 読書コーナー

「最新アジアビジネス熱風録」(2008.4.10、江上剛著、文藝春秋刊)を読んでいたら、第八章の「中国マネー戦争の内幕」のところで次のようなコメント(233頁)があった。

                          


『サミュエル・ハンチントンは
「文明の衝突」の中で、日本は最終的には中国の側につくだろうといっています。欧米から見れば、日中は同じように見えるのです。いずれ私たち日本人は、中国と米国のどちらかを選択
することになるのでしょう。』

「オーッ!」国際政治のトレンドなど本格的に勉強したことはないが何とはなしに日頃の自分の思いをズバリと代弁してくれたような話。

4年ほど前に仕事がらみで元外務事務次官のT氏の講演を聞いたことがあって、「対米外交は対中外交である」なんて禅問答みたいな話を思い出したが、つい先日の
ニュースで日本の最大の貿易相手国がアメリカを抜いて中国になったと報じていた。益々中国抜きでは立ち行かない日本の現状。

将来的に中国は太平洋に進出して本格的にアメリカと対峙したいものの、地政学的に弧になった日本列島が喉に引っ掛かった小骨のような存在という話を聞く。〔中国海軍は2009年から航空母艦の建造に入ると発表済み)。

現在、ホットな沖縄の米軍機基地移転問題にしても、もし日本が中国につけばアメリカは太平洋戦争当時のように軍事基地がハワイまで後退なんて話も出てくる。

自分のような一介の市井の徒がこんな大それたことを心配してもどうなるものでもないが、何となく好奇心を刺激するのである。

と、いうわけで「文明の衝突」とは一体どんな本なのだろう、著者のハンチントンとは何者だろう?既にご承知の方には「あしからず」。

「ウィキペディア」にはこうある。まず、ハンチントン氏から。

サミュエル・フィリップス・ハンティントン(1927~2008)

アメリカ合衆国の政治学者でハーバード大学教授時代はリアリズムを基調とした保守的な思想で知られる国際政治学の世界的権威だった。著書「文明の衝突」で名声を確保した。~以下略~

次に「文明の衝突」について

「文明の衝突」(1998年和訳:鈴木主税、集英社刊、理論は1993年に世界の論壇に登場)

冷戦が終わった現代社会においては、文明と文明との衝突が対立の主要な軸であると述べる。特に文明と文明が接する断層線での紛争が激化しやすいと指摘する。記事の多くはイスラム圏、ロシアについてであり、他の地域に関してはおまけ程度の扱いである。日本の将来については孤立を深め中国と提携としている。

ウーン、10年以上も前に発売されていた本とはいえ是非読んでみたいと図書館に行ったところ
偶然にも題名が「文明の衝突と21世紀の日本」(2000.1.23、鈴木主税訳)
という本を見つけ出した。これもハンチントンの著作なのでもってこいの本、早速読んでみたがこれがたまらないほど面白かった。 

☆ 
21世紀における日本の選択

本書に一貫して流れている大きなテーマは
「21世紀の世界は民主主義によって一つの世界が生まれるのではなく、数多くの文明間の違いに起因する分断された世界になる」
ということだった。

1 
冷戦後の世界~西欧と「中国・イスラム」の関係~

まず、冷戦後の一極(アメリカ)・多極(中国、ロシアなど)世界という新しい世界秩序の中で紛争の主な源として「中国の台頭とイスラムの復興」が挙げられ、西欧とこの新しい勢力を持った二つの文明~中国とイスラム~との関係は特に難しく、対立的なものとなるとの指摘から話は始まる。

筆者註
:この本が出版されたのは10年以上も前、ということはアメリカの同時多発テロ以前であるが、イスラムの脅威を見事に予言していることになる。

さらに潜在的に最も危険な紛争は、アメリカと中国の間で起こるという。

この二国は多くの問題~貿易、知的所有権、人権、兵器の販売と大規模破壊兵器の拡散、チベット、台湾に関する問題~によって引き裂かれている。

しかし、
根本的な問題はパワー
をめぐるものであり、今後の数十年間東アジアの覇権を握るのはどちらの国かということである。

中国はハッキリしている。長年、他の大国に従属して辱められてきた時代が終わり、19世紀半ばに手放した東アジアにおける覇権的な地位を取り戻すことを期待している。

一方、アメリカは常に西欧や東アジアを一つの大国が支配することに反対してきたし、20世紀には二つの世界大戦と一つの冷戦に勝利してそうした事態が起こるのを防いだ。

したがって、中国とアメリカの関係を特徴づけるものが対立となるか和解となるかそれが将来の世界平和を左右する中心的な問題となる。

 日本の選択肢~東アジアの命運~

こうした状況のもとで、日本の進路の選択について検討がなされるが前提として日本の文化・文明的視点からの特徴(これが実にユニークで面白いが長くなるので省略)が縷々(るる)述べられていく。

結局、その特徴がもたらしたものは「完全に独立した文明」だが、それが
孤立国家日本を生み出し国際社会に真の友だちがいない、加えて出来ない実情
が明らかにされていく。

必然的に選択肢が限られる中で日本は強い方につかざるを得ず「中国の台頭とアメリカの超大国としての地位」を見比べながらはじめの方は選択そのものを避ける。

そして
アメリカが最終的に唯一の超大国としての支配的な地位を失いそうだと見れば、日本は中国と手を結ぶ可能性が高い。

中国と日本とアメリカにおける三国の相互関係こそ東アジアの政治の核心だが、このうち最も弱いのは日本と中国を結ぶ線であり、この二国関係の改善が何よりも重要となる。

以上の見方をとるハンチントン氏はホワイトハウスのブレーンとして活躍したことがあり、これはアメリカの国家戦略と見なしてもよいものだろう、少なくとも政府高官の頭の片隅にはちゃんと残っているはず。

本書ではほかにも人口爆発によるイスラムの脅威の分析など興味ある事項が満載だが、巻末に「解題」として京都大学教授の中西輝政氏の論文が寄せられており、その中に次のような興味深い一文があった。

私自身とハンチントンとは、中・長期的な中国の将来像については大きく見方を異にする。ハンチントンは中国は今後も安定して経済の急速な発展を続けると見ているが、私は長期的にみて中国という社会は大きな変動に直面し「21世紀の超大国」の座を現実のものとする可能性はまずないであろうと考えている。21世紀に入ると時間が経つにつれ「分裂する中国」という文明史的特質が浮上してくるはずである。

まさに社会的な大実験が行われつつあるが、果たしてサイコロはどちらに転ぶのだろう。
   


 





 


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音楽談義~オーボエ奏者からみた「指揮者」とは~

2010年02月02日 | 音楽談義

今のところ、是非読みたい本があって、それは1月30日付けのブログ「クルマの運転中に”マタイ受難曲"を聴くなんて!」の中で出てきたN響のオーボエ奏者の「茂木大輔」さんの著書「オーケストラは素敵だ」

とはいうものの、随分昔の本みたいなので地方の書店ではとても無理、そこでとりあえず県立図書館へと足を向けてみた。1月31日の日曜日のこと。

館内に設置されたパソコンで検索してみると「貸出し中」の表示が出ていてあっさりアウトで残念無念。

ただし、続編の「続・オーケストラは素敵だ」~オーボエ吹きの修行帖~があったので、行きがけの駄賃とばかり早速借りて一読してみた。
 

 「続・オーケストラは素敵だ」(1995.7.10、音楽之友社)  

いや~、面白かった。この著者は音楽家にもかかわらず筆力の冴えにも恵まれていて文章にリズムと展開力がある。どうやら「天は二物を与える」ものらしい。思わず熱中して瞬く間に読み上げてしまった。

内容のほうも、自分のような楽譜の読めない素人はもちろん音楽評論家でさえも”うかがい”知れない演奏者の視点からの音楽論がなかなか新鮮。

一番興味を持てたのは、オーケストラ〔以下、「オケ」)の一員からみた指揮者論だった。

「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」という有名な言葉があるが、オケと指揮者の関係を赤裸々に綴っているのが出色。

「何だ、そんなことぐらい分かっている」と、言われる方もあるかと思うが次のとおり。

学生時代「指揮者なんてものはただのカザリに過ぎないのに演奏会でもレコードでもたいへんに大きく扱われ舞台でも一番偉そうにしているのはなぜなんだろう?」という素朴な疑問がまず出発点。

そして、実際にオケで演奏するようになってから「素晴らしい指揮者もそうでない指揮者も両方体験して」具体的な指揮者論が次のとおり展開される。

 まずテンポが違う。指揮者の基本的な仕事は「拍」を示すことでそれが最も顕著に影響するのはテンポ。このテンポほど音楽の表情を変えてしまうものも外にはない。

 次に指揮者の動作による音楽の構築。舞台の上でどっちを向いているか、動作全体の大きさ、特に左手はどうしているか。人間は不思議なものでこっちを向かれると思わず真剣になる。また、自分のほうに手をかざされると自然と音は小さくなる。

 N響定期公演にはそれぞれ3日間午前午後2時間ずつのリハーサルが予定されており、この使い方が指揮者の力量によって大きく違う。」

というわけでサバリッシュ、シュタイン、デュトワといったN響の名誉指揮者たちが続々と出てきて練習の仕方が紹介されるがそれぞれ個性的で各人各様なのが面白い。

以上のとおりだが、指揮者論になるといつも出てくるのが、文学、絵画、彫刻などと違って音楽は(楽譜が大元になっている間接芸術なので)
指揮者(演奏者)の数だけ作品があるという話。

これが芸術としていいことなのか、悪いことなのか速断できないが、多様性を楽しめる点は実にいい。選択肢が増えるし、いろんな演奏の比較が出来ることでより一層興趣が深まると思う。

たとえば、自分の場合
大のお気に入りのモーツァルトのオペラ「魔笛」をCD,DVDなど全部合わせて44セット購入したおかげで、好きなイメージにマッチした演奏を発掘できたし、その過程を大いに堪能出来たのは本当にありがたかった。

最後に、「オーケストラ楽員は指揮者に何を期待するか」というアンケート結果があるのでそれを紹介して終わりとしよう。
(シャルル・ミンシュ著「指揮者という仕事」から)

 音楽について際立った解釈をして楽員を奮い立たせること。

 ソロ(単独演奏)が力まないでもはっきり聴き取れるようにオケのバランスをとること

 明瞭なビート(拍子の指示)は基本的な役割

 本番中に事故(演奏者が思わず犯すミス)が起きても気づかない振りをすべき。〔笑)

 トスカニーニの時代は去ったことを悟るべきだ。芸術上の独裁者は良くない。

 指揮者は最小限の「発言」で意思伝達が出来るように。トスカニーニは実に非凡でそれをバトンテクニックの技のうちに秘めていた。

 リハーサルで奏きそこないがあるたびに冒頭に戻る習慣は、楽員たちの反感を買うだけだ。

 奏者と楽器の両方の能力と限界を知っている専門家であるべき。

 教師であり、指導者であり、最高の専門家であり、そして音楽史上の偉大な作曲家たちの最も深遠な思想が通り抜けねばならない煙突である。



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