「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

独り言~とかく、この世は難しい~

2011年10月30日 | 独り言

10月29日(土)に亡き母の四十九日の法要を無事終えた。

通夜、告別式、初七日、1週間ごとのお坊さんによる読経、そして四十九日の法要のときに併せて墓所での納骨式を行ったが、奇しくも10月29日は母が生きていれば95歳の誕生日だった。

悲しみはまだまだ癒える状況ではないが、ようやく一区切りというところ。

さて、これまで他所の葬儀には数知れず接してきたが、いざ自分が一連の儀式の当事者として執り行ってみると立場が変わっていろいろ考えさせられることが多かった。

もちろん身近な人を失った遺族の悲しみが現実に肌身として感じられるようになったことが一番大きく、これからはゆめゆめ軽い気持ちで接しないようにと切実感を持ったが、その一環として儀式への対応の問題がまず挙げられる。

これまで友人、知人、仕事がらみの関係者、ご近所などの葬儀については一般的には「通夜と告別式のどちらかひとつに出席すればいい」と、聞かされ実際にそのとおりにしてきたわけだが、これは明らかに誤りだった。

この年齢になって気づくようでは今さら遅きに失した感があるが、正しくは両方お参りすることではじめて「心のこもった対応」と
言えるべきもの。

通夜も告別式も両方ともに「悲しみを共有できる人にできるだけたくさん集まっていただき故人を見送ってやりたい」というのが遺族の偽らざる心情である。

兄も自分も現役を退いた状況のもと、仕事がらみの関係者が寂しくなる中、頭数がどうなることやらと心配したが、幸い今回は家内の勤務先やご近所の方々が多数、当たり前のように両方に出席していただき実にありがたかった。

弔電なんかはどうでもいい存在で、実際に出席して顔を見せてくれることが故人への一番の供養であるとつくづく思った。

もう一つは、葬儀の日取りをいざとなると友人、知人のどの範囲まで連絡していいものか迷うこと。

やはり交通費はかかるし”手ぶら”では来づらいだろうから、相手を慮(おもんばか)ってついつい遠慮してしまうのが人情というものだろう。

実を言うと今回も大いに迷ったが、2名の友人からは以前、「お母さんの具合が悪いようだから、万一何かあったときは遠慮せずに連絡してくれよな」と言われていたので非常に気が楽だった。

「ほんとうに親しいと思う方でご高齢の親がいる場合」には、日頃からそういう趣旨のことを相手に耳打ちしておくといいようで、これも一つの知恵だろう。

「冠婚葬祭」といえば聞き及んでいる方も多いと思うが、広辞苑によると「冠」は元服のこと(今でいえば成人式)、「婚」は婚礼のこと、「葬」は葬儀のこと、「祭」は祖先の祭祀のこととある。

人生の主要なイベントを表したものだが、このうち比重が一番重いのは「葬」だと思うが、この対応によって日頃のお付き合いの距離感が分かったりするのも今回の新発見だった。

たとえばご近所で日ごろあまり親しいお付き合いをしていないと思っていた方がわざわざ(通夜と告別式に)出席してくれたり、逆に懇意にしていると思っていた方が知らん顔をしていたりと様々である。

「とかく、この世は難しい」のである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~フルレンジSPユニットの聴き比べ~

2011年10月28日 | オーディオ談義

オーディオは「スピーカーに始まってスピーカーに終わる」、そして「スピーカーはフルレンジに始まって、フルレンジに終わる」。

と、言いたいところだが、いくらフルレンジの音が気に入ったからといっても、後者については異論続出といったところで「贔屓の引き倒し」になりそうだ。

さて、そのフルレンジSPユニットだがいつぞやのブログに記載したとおり、現在4種類のユニットを持っている。

☆ アキシオム80(16Ω:口径20cm)

☆ リチャードアレン(8Ω:口径18cm)

☆ ジェンセンP8P(16Ω:口径18cm)

☆ アルテック403A(8Ω:口径18cm)

このうちリチャードアレンについては専用のボックスを作って聴いてみたところ想像以上に良かったものだから、調子に乗ってすべてのユニットを入れ替えて聴いてみようと思い立った。

10月25日(火)のことだった。

利用するボックスは以前に作ってもらった北海道産の「楢」材を利用した厚さ5cmのがっちりしたツクリのもので絶対に”箱鳴り”を許さないタイプ。

このボックスは現在、第一システム用としてアキシオム80を片チャンネル2発使用しているもののうちの一つだが、この際、2発使用をアッサリあきらめて流用するもの。置き場所がないので、これもやむなくウェストミンスターの上に載せた。

まずリチャードアレン(写真右側)とアルテック403A(写真左側)から試聴。

ちなみに試聴用機器は、CDトランスポート「ワディア270」、DAコンバーター「ワディア27ixVer3.0」、「真空管2A3シングル・ステレオ/パワーアンプ」。

         

リチャードアレンの音は日頃聴きなれているので、アルテックの方をはじめに鳴らしてみた。

音を目方で表現するのも何だが、実に軽快そのものの音には驚いた。スカッと抜けきっていて、単純明快で隠し事のない音。人生バラ色、悩みなんて一切ありませんという印象がしてまさに典型的に陽気なアメリカ人を思わせる。

これはこれでいいんだろうが、もっと陰影が欲しい気もする。好き嫌いがはっきり分かれそうな音だ。

これに比べるとリチャードアレンはまったく正反対でひとひねりも、ふたひねりもした音。音に適度の湿り気があって陰影がそこはかとなく漂ってくる。人生を慎み深く、そして思慮深く生きていくイギリス人という感じ。

こういう音でないと表現できない音楽もたしかにある。

次に「アキシオム80」(イギリス:グッドマン社)



期待したほどではなかった。中高域の澄んだ音は相変わらずgoodだが、中域から低域にかけてのふっくらとした充実感がもっと欲しい。「アキシオム80」はボックスとアンプを選ぶと聞いていたが、このボックスの形状と5cm厚の材ではうまく鳴らすのは無理のようだ。

イギリス系のユニットは総じてボックスを適度に共振させてやる方がいいと体験的に理解できた。それと「背圧の逃がし方」にもひと工夫が必要で、やはりオリジナルボックス(イギリス製)の域には到底追いつけないようだ。

今後、我が家の第一システムのスペアとして保管しておくことに決めた。

最後にジェンセン(アメリカ)の「P8P」。



1954年製造のビンテージ・ジェンセンで2年ほど前にオークションで購入したもの。そのときの商品説明には「強力なアルニコマグネット、固めのコーン紙とフェノールのセンターキャップによる張りのある中音」とあり、値段の方もかなりした記憶がある。



一聴して驚いた。何という「光り輝く音」なんだろう。

低音とか高音が”どうのこうの”という次元ではなくて、張りがあってスピード感豊かな中音に圧倒的に魅せられた。「もう、これで十分」が口癖になりそうで、まさに「ベスト&ブライテスト」(ハルバースタム著)。

このユニットで「ちあき なおみ」を聴くと「あぁ~」とため息が出るほどいい。ヴォーカル系には絶対的な強みを持っており、改めて中音がしっかり鳴ってくれることが一番だと再認識した。

以前、オーディオ仲間のM崎さんが、「中音がしっかり出ていたら、ツィーターの必要性は感じないはず」とおっしゃっていたが、その時は半信半疑だったがやっとその意味が実感できた。

とにかくオーディオを長年やってきたが、こんなに”痺れまくった”のは久しぶり。スピーカー技術は50年以上も前にすでに完成していたんだと嫌でも納得させられた。

ふと、こんなに凄いのだったら第一システムの中高域専用に使っている「アキシオム80」と入れ替えてみたらどうなるんだろうという誘惑に駆られてしまった。

2時間もあれば入れ替えが出来るわけだが、さ~てどうしようか・・・。

P・S(2011.10.28.16:20記)

このブログを読んだ知人のMさんから早速メールが入った。Mさんは海外からの輸入物を中心に古典管など広くビンテージ機器を扱っている方だが「ジェンセンの”P8P”は往年の名器であるウェスタン社の755A(口径20cm)に匹敵するほどの評価」だそうだ。

フルレンジSPユニットの王者とされるウェスタン社のユニットと同列に論じられるなんて、今更ながら「P8P」の高い実力を思い知らされた。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独り言~「昔の記事」と「ちあきなおみ大全集」~

2011年10月25日 | 独り言

タイトルにある「昔の記事」と「ちあきなおみ大全集」が、いったいどう結びつくのか、この記事を読んだ後でもアタマをひねる向きがあるかもしれない。と、まず「予防線」を張っておこう。

1年ほど前の古い話だが
2010年の「文芸春秋」11月号の巻頭に女流ヴァイオリニストの「千住 真理子」(せんじゅ まりこ)さんのエッセイが登載されていた。

千住さんといえば、「デュランティ」(ストラディヴァリウス)というヴァイオリンの名器を愛用されている方としても有名である。

「自分の音に追われて」と題して、公演で地方のホテルを利用したときに館内のBGMで自分が昔、録音したCDを散々聴かされ、気が滅入ってしまう話である。もちろんホテル側は一流のヴァイオリニストがお客さんとしてお見えになったということで歓迎の意味で、まったくの善意からきたサービス行為の一環である。

千住さんはこう述べられている。(以下、引用)

「そのCDはかなり昔に録音したものであり、私は稚拙な過去の自分を突き付けられたような敗北感に襲われた。そもそも演奏家というのは、録音した自分の演奏は常に不満なものである。また、不満でなければ進歩はない。ましてや昔の録音となれば、前科を指摘された犯罪者の気分だ、きっと。~以下、略」

意外な気がした。演奏家とは自分が録音した演奏に愛着をもたないものなのか!

これは興味ある事柄である。千住さんほどの「生まれと育ち」に恵まれた、ごく”まっとうな”方がおっしゃるのだから、おそらくほかの演奏家たちに当てはめても大きく外れることはあるまい。

世に名演と称される録音は”ごまんと”あるが、高い評価の一方で、逆にご本人が”身のすくむ”ような思いをしている演奏だってきっとあるに違いない。ただし、すでに亡くなってしまった演奏家には無縁の話だが、もしかすると天国で歯ぎしりしている人がいるのかも。

これは演奏家どころか、作家や画家、映画監督、俳優など、自分の関係した作品が広く世の中に公開されている人たちに押しなべて当てはまりそうだ。

彼らが駆け出しの未熟なころに書いたり、描いたり、そして出演した作品に対して、後悔のあまり「早く消えてほしい」という思いを抱いているとすれば実にお気の毒。なぜなら、いったん公開された作品は消滅させる手立てもなく永遠に残って、もう取り返しがつかないわけだから。

これは精神衛生上、たいへんよろしくなかろう。

たとえば夏目漱石は、後年、「草枕」に言及されると古傷に触られたみたいに嫌な顔をしたというし、葛飾北斎(江戸時代の浮世絵師)は臨終の間際に「天があと5年の間、命を保つことを許してくれたら必ずやまさに本物といえる画工になりえただろう」と言い残して、これまでの膨大な作品に対してまるで”ノー”と言わんばかりだし、さらにはデヴュー時にくだらないB級映画に出演していた俳優などはよほどのタフな神経が必要だろう。

さて、レベルと質がまったく違うけれど自分が昔、投稿した記事についても時々同様の思いにとらわれることがある。

ブログを始めて、この10月21日でちょうど丸5年、2~3日おきのペースで更新する記事の数はおよそ700本前後(正確には738本)になるが、中には「こんなことを書かねばよかった」と後悔しているのがいくつもある。

自慢げに書いた記事、自分を実物大以上に見せようと欲張った記事、ことさら誰かに”あてつけた”と受け取られかねない記事など枚挙にいとまなし!

さらに悲惨なのは勘違いで明らかに間違ったことを書いてしまい、機会をみて訂正しておけばいいものを、どうせ過去の記事だからもう見る人もあるまいとズボラをきめこんでいたら、そういう記事に限ってバックナンバーとして閲覧する人がいるのには閉口する。

そういう記事は内容に関係なく、おそらく「グーグル」の検索などで出てくる羅列された項目の中ではじめの方に位置しているのだろうとおよそ想像がつく。

もちろんブログごときは「加除修正」が簡単なのでクリックひとつで”こと”は済むわけだが、一方では未熟なりにも自分の足跡みたいな存在だから、記事全体をまるっきり消去するのも何だか”もったいない”ような気がして複雑な気分である。

ここで、参考までに人気のある過去記事を上げると次のとおり。

ブログはご承知のとおり「アクセス解析」欄の「ページごとの閲覧数」によって前日にどういう記事がどのくらい閲覧されたのか簡単にわかる仕組みになっているので便利。

○ 「”ちあき なおみ”はなぜ歌わない?」

○ 「プリアンプはもう要らない」

○ 「オーケストラの経営学」

○ 「MLB:松井を甘く見過ぎたペドロ・マルティネス」


○ 「患者を殴る白衣の天使」

といったところ。

この中でとりわけ息が長く登場しているのが「”ちあき なおみ”はなぜ歌わない?」
である。

彼女が突然引退した理由について関係本をもとに勝手に類推した内容だが、いまだにアクセスが途絶えることがないので、それだけ彼女に興味のある方がたくさんいる証左だろう。

ちなみに「ちあき なおみ」の手持ちのCDは今のところ2枚だが、つい最近、高校の同窓のS君から「NHKのFM放送で聴いた彼女の”5番街のマリーへ”が実によかった。もし収録されていたら貸して欲しい」との連絡が入った。

残念なことに収録されていなかったのでその旨、連絡したところ、とうとうS君は我慢できなかったとみえて、この曲目が収録された「ちあき なおみ大全集」(CD2枚組)を購入してしまった。

バッハの「無伴奏チェロ組曲」を愛するS君だがクラシックから演歌までレパートリーは実に幅広い。この辺は包容力のある人柄とまったく一緒。

もちろん、たってのお願いでこの大全集を貸してもらうことになり4日ほど前に自宅に到着。

CDの宣伝文句に
伝説の歌姫 ちあきなおみ~彼女の代表作そして名曲の数々を厳選しました。胸を打つ名歌唱・・・・すごい歌手です」とあった。

             

全37曲をひととおり聴いてみたが、「ビブラート」のかけ方が抜群にうまくてやっぱり掛け値なしに「すごい歌手」である。

丁度、亡き母の法事で福岡から我が家に来ていた長兄に聴かせてあげると「”アカシヤの雨がやむとき”などは、オリジナルの西田佐知子よりも”ちあきなおみ”が歌った方がもっとヒットしただろうな」と、しみじみ述懐するほど。

当然のごとく、コピーを頼まれたが「昔、学校の先生をやってた人間が簡単に人に法律違反をやらせていいの」と言ってやった!?

一番気に入った曲目は初CD化された「逢わずに愛して」。

たしか、”前川 清”の持ち歌だったと思うがこれほど抒情味たっぷりに聴かされるともう完全にノックアウト。「長崎は今日も雨だった」も大好きなんだが、これもCD化できないかな。

ここ当分は「ちあきなおみ」で”秋の夜長”を楽しく過ごせそうだが、これもすべてS君のおかげだと感謝、感謝。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「シンプルな響き」の心地よさ~

2011年10月21日 | オーディオ談義

20cm口径のフルレンジSPユニット「リチャード・アレン」を取り付けたボックスを作ってから早くも2週間あまり。

我が家の第三システムとして活躍中だが、これまで主流としてきたやや大掛かりなシステムと、こうした小さくてシンプルなシステムとの対比の妙が実に新鮮で、我が家のオーディオにこれまでにない新鮮な空気を吹き込んでいる。

お金のことを持ち出すのはけっして本意ではないが、アンプとスピーカーとを合わせてもわずか10万円足らずのシステムが軽く100万円以上はするシステムと渡り合うのだからほんとうにオーディオは面白い。

もちろん、それぞれに音楽のジャンルによって得手・不得手があるわけだが、低域の量が少ないことによって得られる全体的な(音の)「清澄感」はなかなか捨てがたいものがある。

喩えて言えば、ヘッドフォンで聴く「音」のピュア感といったものに通じており、我が家でますます存在感が増すばかり。

ここで改めて「フルレンジ・タイプ」のメリットを述べておくと、先ず低域と中域のクロスオーバー付近に生じる「音の濁り」が存在しないこと、第二に口径の大きなユニットはそのコーン紙の重さによって音声信号への追従性が悪くなって音が鈍くなるが、その点小さな口径の場合はシャープな音が期待できること。

低域の処理についてはこれまで散々悩んでいろんな対策を講じてきたが、いまだに解決できないので永遠の課題となっている。

ここまで、書いてきてふと思い出したことがある。

昔、昔のそのまた昔、五味康祐さん(故人:作家)の著作「西方の音」の多大な影響を受けてタンノイに傾倒していた時代に、タンノイ(イギリス)の創設者の「ガイ・R・ファウンテン」氏が一番小さなスピーカーシステムの「イートン」を愛用していたという話。

(タンノイG・R・Fという高級システムがあるが、ガイ・R・ファウンテン氏の頭文字をとったもの。)

タンノイの創設者ともあろう方が、最高級システムの「オートグラフ」ではなくて「イートン」を使っているなんてと、その時はたいへん奇異に感じたものだった。

総じてイギリス人はケチで、いったん使い出した”もの”は徹底的に大切にすると聞いているので「この人はたいへんな節約家だ」と思ったわけだが、ようやく今にして分かるのである。

何も大掛かりなシステムが全てに亘って”いい”というわけではなく「シンプルな響き」が「重厚長大な響き」に勝る場合があるということを。

さて、「このイートンの話はどの本に書いてあったっけ」と記憶をたどってみると、「ステレオサウンド」の別冊「世界のオーディオ~タンノイ~」(昭和54年4月発行)ではないかと、およそ想像がついた。

                    

手元の書棚から引っ張り出して頁をめくってみると、あった、あった~。

本書の75頁~90頁にわたってオーデイオ評論家「瀬川冬樹」氏(故人)がタンノイの生き字引といわれた「T・B・リビングストン」氏に「わがタンノイを語る」と題して行ったインタビューの中に出てくる逸話。

ちなみに、この瀬川冬樹さんがもっと長生きさえしてくれたら日本のオーディオ業界も今とは随分と様変わりしていたことだろうと実に惜しまれる方である。

話は戻ってガイ・R・ファウンテン氏が「イートン」を愛されていた理由を、リビングストン氏は次のように述べられている。

「彼は家ではほんとうに音楽を愛した人で、クラシック、ライトミュージック、ライトオペラが好きだったようです。システムユニットとしてはイートンが二つ、ニッコーのレシーバー、それとティアックのカセットです。(笑)」

(そういえば「ニッコー」とかいうブランドのアンプもあったよね~。懐かしい!)

「てっきり私たちはオートグラフをお使いになっていたと思っていたのですが、そうではなかったのですか・・・・」と瀬川氏。

「これはファウンテン氏の人柄を示す良い例だと思うのですが、彼はステータスシンボル的なものはけっして愛さなかったんですね。その代り、自分が好きだと思ったものはとことん愛したわけで、そのためある時には非常に豪華なヨットを手に入れたり、またある時にはタンノイの最小のスピーカーを使ったりしました。」

「つまり、気に入ったかどうかが問題なのであって、けっして高価なもの、上等そうにみえるものということは問題にしなかったようです。~以下、略」

ファウンテン氏のこうした嗜好はオーディオの世界に”とかく”蔓延している「ステータスへの盲信」の貴重なアンチテーゼとも受け取れるが、30年以上も前からこういうことが指摘されていたなんて、今も昔もちっとも状況は変わっていない。

同じタンノイの「3LZ」とか「スターリング」とかの比較的小さなSPをいまだに愛用されている方が後を絶たないのもよく分かる。「音は人なり」とすれば、きっと良識があってバランスがとれた方なのだろう。

さて、我が家のリチャードアレンだがトランジスター・アンプ(出力10ワット)とのコンビで連日、活躍中だが、アンプの前(DAコンバーターの次)に真空管式のバッファー・アンプを挿入したら「石」特有の硬質さが適度にほぐれて一段と聴きやすくなった。

          

また、フルレンジの愛好家で名古屋のYさんからは「リチャード・アレンの前にネットを被せると高域のきつさが取れますよ。これはカーテン生地でも構いません」とアドバイスがあったので、さっそく100円ショップに出かけて行き「絹綿タオル」(身体の洗い用)を買ってきて被せてみると、うまくいった。

                 

SPユニットの前のサランネットは決して伊達ではなく、高域を柔らかくする効果があるがイギリス系ユニットの場合には不可欠のようだ。

とにかく、口径20cm度のフルレンジのユニットの「濁りのないシンプルな響き」には心を癒されるものがあるので、現状の音に「物足りなくなった方」とか「飽いてきた方」にはセカンドシステムとして活用されるといかがだろうか。

身近に比較できる音があるのと、ないのとでは大違いで互いのシステムの欠点が把握しやすいのも大きなメリットの一つ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~「モーツァルト考」ほか~

2011年10月18日 | 読書コーナー

最近読んだ本の中から印象に残ったものについて3冊ほど取り上げてみた。

 まず「モーツァルト考」から。

                              

著者の「池内 紀」さんは以前、東大の文学部教授をされていた方。たしかドイツ文学専攻だったと思うが「ほう、この人がモーツァルト論を」と意外な感じがしたので、ざっと目を通してみたがさして目新しいことがないように思った。

「モーツァルト」(1756~1791)については、これまで国内外を問わず散々書き尽された感があり、よほどの斬新な視点から書かないと読者の印象に残りそうもない。さらに根っからのモーツァルト・ファンとして人並み外れた熱情が行間から”ほとばしる”とよかったが、それもなかった。

モーツァルトは他人行儀に表面だけをさらっと撫でて済むようなタイプの作曲家ではない。単純そうに見えて実は極めて人間観察に優れた目を持つ複雑な人間である。「ドン・ジョバンニ」を聴き込めばその辺がよくわかる。(ちなみに、このオペラは言葉と音楽が見事に一体化している意味で究極の作品である。)

取り分け、物足りなかったのは「第5章オペラの魅惑」のところで「魔笛」が入ってなかったこと。

これは以前読んだ吉田秀和さん(音楽評論家)の著書「モーツァルを聴く」でもそうだった。他のいろんなオペラが採りあげられているのに「魔笛」だけは奇妙なことに外されている。これは明らかに不自然。

モーツァルトが35歳で亡くなる年(1791年)に作曲された「魔笛」はいわば彼の生涯にわたって作曲された600曲以上にもわたる作品の中でも集大成の位置づけを持つ。

最晩年に到達したこの独特の「透明な世界」に魅せられるかどうかが、ほんとうのモーツァルト好きかどうかを占う試金石である。

自分はモーツァルト関係の著作を読むたびに常にこの法則(?)を当てはめているし、巷のモーツァルト・ファンと称する方々にも”ひそか”にこれを適用している。

これは知性の問題ではなくて感性の世界だからひときわ厄介な話。


「”魔笛”を好きにならずして、モーツァルトを語ることなかれ」
とは、まことに自分勝手な言い様だが”どなた”か支持してくれる人はいないかな~。

  次に「私の好きなクラシックレコードベスト3」 

                  

編者も含めて各界の著名人89名が上げたベスト3を網羅した内容。たしか以前にも読んだと思うが、もう忘れてしまったので再読。

うち、仏文学者の「古屋健三」氏の文言に興味を引かれた。以下、引用。

「透明で美しい文章を書く作家は音楽好きで、耳がいいのだと長いこと僕は信じていた。小林秀雄、大岡昇平、阿部昭、彼らの文章はいかにも音楽好きらしく読者の感性をふるわせる独特の響きをおびている」

「五味康祐(芥川賞受賞)さんを忘れてはいませんか!」と、言いたいところだが視覚的な作家(夏目漱石、中村光夫)と聴覚的な作家
との区分に新鮮なイメージを覚えた。

本題に戻って、ベスト3にバッハの曲を挙げている方がやたらと目立つが、この古屋氏と石堂淑郎氏(脚本家)、粟津則雄氏(評論家)たちのベスト1がバッハの「マタイ受難曲」。「やっぱり、そうですか」と、ただ頭(こうべ)を垂れるのみ。

あとは斉藤慎爾氏(俳人)が「フーガの技法」(バッハ)を挙げていた。演奏者はタチアナ・ニコラーエワ女史(ロシア:ピアニスト)。

                       

「冬の夜長、炉辺で子供たちに昔話を語る祖母の質朴な響きがある、この1枚だけで演奏史上に残る」とのことで、こういう喩えは普段着の生活の中で音楽を身近に心から愛している人だけに許された絶妙の形容。

あの太った”おばちゃん”ニコラーエワ〔故人)については手持ちの「ゴールドベルク変奏曲」で十分に思い当たる節がある。バッハは苦手中の苦手だが一丁「フーガの技法」に挑戦してみっか。

前回のブログで最近はジャズ志向なんてふれておきながら「お前は節操というものがないのか」と呆れかえられそうだ。

最後に「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」。

                         

「ジョン・ウェインをはじめとしてゲーリー・クーパーなど相次ぐ西部劇の大スターが次々に癌で死んでいったのはなぜか」というテーマ。

すでに有名な話なのでご存知の方が多いことだろう。

長期にわたって西部劇のロケが行われる場所とは熱砂吹き荒ぶ砂漠である。ネバダ州をはじめ、その風下に当たるユタ、アリゾナの各州がメイン。

そしてネバダ州で
「大気中の核実験」
行われたのが1951年から1958年にかけての97回(公表されたもの)。

これから導き出される回答はただひと
「放射能汚染に起因する癌の発病」が原因だった。

一例として1954年にユタ州で長期ロケによって撮影が行われた西部劇「征服者」の関係者が後年、これでもかというように次々に癌(主に肺癌)に見舞われる悲劇が延々と綴られる。

主役のジョン・ウェイン、スーザン・ヘイワード、監督のディック・パウエルそして脇役たちが続々と・・・。

当時、原爆実験による放射能汚染については専門の科学者たちによって「人体にほとんど影響なし」とされていたのだが10年後ぐらいからの相次ぐ発病に対して何ら打つ手がなかった。潜伏期間が長いのが逆に後手となってしまうのだ。

「信じていた国家によって裏切られた」と被害者たちの家族の嘆きが何とも悲しくて切ない。

こういう本を読むと、果たして日本の「福島原発災害」の後遺症は大丈夫なのかと、つくづく心配になる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽談義~「大人のジャズ」に思う~

2011年10月14日 | 音楽談義

以前、ネットで注文しておいた「大人のジャズ」と題したCD10枚組のセットがやっと届いた。

                                   

ジャズのスタンダードナンバーばかり収録したもので、ジャズ通に言わせると初心者向きのアルバムばかりなので「子供のジャズ」なんて揶揄されるかもしれない。

たとえば全120曲のうち、「A列車で行こう」(デューク・エリントン)、「帰ってくれたら嬉しいわ」(ヘレン・メリルwithクリフォード・ブラウン)、「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」(エラ・フィッツジェラルド)といった具合。

注文したきっかけは新聞一面にでかでかと打たれた全面広告。全国紙(朝日)だったのでお気づきの方も多かったことだろう。

           

古い曲ばかりなのでやたらモノラル録音が多いがすべてオリジナル音源というのが気に入ったし、何といっても安かった。送料込みで1万円前後だからCD1枚あたり1000円という計算。

一昔前に比べると、音楽の無料配信などの情勢の変化もあって確実にCDが安くなっている。CDの売り上げも減少の一途をたどっているそうで、いつぞやのブログにも投稿したように「音楽がタダになる日」が着実に近づいているのを実感する。

ともあれ、母のこともあって我が家に届いてもしばらく放っておいたわけだが、ようやく”聴く気”になって昨日(13日)になって5枚ほど封を開けてみた。         

ちなみに10枚のCDのそれぞれのタイトルを紹介しておくと次のとおり。

「テレビで聴いたジャズ」「映画で聴いたジャズ」「スイング・ジャズ」「ボサ・ノヴァ」「ラテン・ジャズ」「モダン・ジャズ」「ジャズ・バラード」「ジャズ・ピアノ1」「ジャズ・ピアノ2」「ジャズ・ボーカル」

さすがにジャズを再生するとなるとベースとシンバルがきちんと鳴ってくれたほうがいいので、ここは広い(周波数)帯域を旨とした我が家の第一システムの出番。

すべて1枚のCDあたり12曲入りだが退屈せずにすんなりジャズの世界に入っていけた。音質の方はいいのか悪いのか判然としないが昔の録音なのでこんなところかな~。

最近、ジャズのCD盤に手を伸ばすことがなぜか多くなったような気がする。もちろんクラシックも相変わらず聴いているのだが、以前からは想像もつかないほどの様変わりである。

「大人のジャズ」を聴きながら何とはなしにその原因を考えてみた。加齢とともに好きな音楽のジャンルが変わるのは自分ぐらいのものかもしれないのであまり参考にならないと思うが。

ここ数年の傾向だがクラシックを聴いていると、どうも昔ほど心を動かされないようになった。もちろん40年間にわたって聴いてきた慣れもあるのだろうが、一方では作曲家の思想とか意図するものを、指揮者、演奏者が一体となって聴く側に「これでもか」と無理矢理押しつけてくるような圧迫感をつい感じてしまうときが多々ある。

たとえば「音楽は哲学よりもさらに高い啓示」との言葉を遺したのは「楽聖」ベートーヴェンだが、彼の音楽には特にその傾向が強い。

今でも最後のピアノ・ソナタ(32番)は大好きだし、「大公トリオ」もいいし、「第九」だって人類が生んだ前人未到の大傑作であることは認めるが、どうもいざ聴く段になるとちょっと気が重くなって心理的な負担を感じてしまうのである。

後世の作曲家たちに「手も足も出ない」と嘆かせたほどの完璧な構成力を持つ「後期弦楽四重奏曲群」にしてもまるで
「ちゃんと正座して聴きなさい」と言わんばかりの堅苦しさ。

さらには、ところ変わって「音楽の父」バッハが作曲したものだって基本的には「神の声」を旋律として具現化したものばかりである。

どうも、鬱陶しい気が先に立つ。

どうしてこんなことになるのかと、つらつら考えてみると、その一因としてこのところ長い間の「宮仕え」から解放されて身分にしても時間にしても限りない「自由解放」のありがたみを満喫してしまったせいで、音楽を聴くときにも「縛られたくない」という意識がそうさせるみたいである。

作曲家や指揮者などによるわざとらしい誘導がちょっと”鼻につきだした”といえば言い過ぎかな。たぶん、自分は”へそ曲がり”なのかもしれない。

ただし、モーツァルトの音楽だけは弁護しておこう。ある音楽評論家が「彼の音楽の本質は”飛翔”だ」と表現していたが、まるで「天馬、空を駆ける」ような音楽は聴く側をまったく
束縛しないところが何よりもいい。

そしてジャズ。

基本的には即興であり、リズムの音楽である。作曲家や演奏者が大上段に振りかぶったような気負いがなく、鑑賞者が感ずるままに解釈の自由が許されているところがすこぶるよろしい。

だが、しかしである。

「制約のない自由」がとかく人間を安易な方向に押し流すという側面を持っているのも事実である。もしかすると自分も・・・。

そこで浮かんでくるのが、果たして「クラシックからジャズへの変遷」は前進なのか、後退なのかという疑問。

まあ、どうでもいいことなんだろうが、クラシック・ファンからは「芸術(クラシック)と娯楽(ジャズ)を一緒にしないでくれ
なんて注文が出そうだし、ジャズ・ファンからは「なに、ジャズは娯楽か?」 なんて声も上がりそうだ。

「いったい芸術とは何だ?」

どうやら話がややこしくなりそうなのでこの辺で止めておくほうが無難のようだ(笑)。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~テレビ視聴用のスピーカー~第3弾

2011年10月11日 | オーディオ談義

前回からの続きで、これが終回となります。

テレビ視聴用のスピ-カー(SP)を作ったのはいいものの、それほど広くもないオーディオ・ルーム(6m×7m)なので置き場所に困ってしまった。

常時聴くSPとなると、ウェストミンスター(タンノイ)の前に置くわけにもいかないので、やむなく上に載せてみた。

          

テレビを観るときにはいつも応接椅子に座った状態なので、これでは耳のレベルよりも随分と上の方から音が聞こえることになる。

一般的に人間は上方から聞こえる音には不快感を持つものとされている。

これはずっと太古の昔から不変のもので、子供のときに大人から説教されるのは上方からの声だし、また「お上」(おかみ)からの”お達し”などは通常、平伏して拝んだ状態で聞くのが当たり前だった。

これらが悪しき印象となって、それぞれの脳に刻み込まれ、上方からの音に対して誰もが屈服感というか不快感を覚えて拒絶反応を示すのは理解できるところ。

西洋の場合でも「神」からの声は天上から聞こえるものとされ、これも一方的な服従関係を示している。

というわけで、音はやっぱり耳と平行の高さで聴くのが一番自然である。

とはいうものの、贅沢を言ってもおれないのでやむなく、こうやって聴かざるをえないわけだがこの位置だと、どうわけか低音がやや不足気味になってしまうがこれも仕方がない。まあ、我慢できる範囲ではある。

ただし、「井の中の蛙」にはなりたくないし、自分の「駄耳」には日頃から信用が置けないので、「この音」を湯布院のAさんに聴いてもらいご意見をいただくことにして連絡したところ、「丁度、仕事の関係で近くに来ました」とのことで9日(日)の午後3時ごろに我が家にお立ち寄りいただいた。

録画したアンネ・ゾフィー・ムターの弾くヴァイオリン協奏曲(モーツァルト)を聴いていただくと、「テレビの音ならこれで十分ですね」とおっしゃったが、「テレビ内臓のアンプでこれほどの音なら外部の別のアンプにつなぐと、もっと”いい音”で鳴るでしょうね~」。

なかなかAさんらしい含みが感じられる”お言葉”。こういう風に言われると、やっぱりオーディオ・マニアとしての血が騒ぐ。

帰られた後で、すぐに小ぶりのトランジスターアンプ(出力10ワット)を部屋の隅から引っ張り出した。音声信号をテレビのチューナー部から取ってアッテネーター(FRのAS-1)につなぎ、それからアンプへと接続。ちょっぴり本格的なシステムへと移行。

一段と音が澄んできたのには驚いた。トランジスターアンプは一般的に可能出力範囲の半分以上の能力で活用するのが良いとされているので、2年ほど前に出力10ワットの小出力のものをあえて購入しておいたのだが、いい塩梅で能率の高いこのユニット(リチャ-ド・アレン)にピッタリ。

「よし、うまくいった」と満足してその日は21時ごろ就寝したものの、翌朝、寝床の中で「トランジスターアンプであんなに良くなるのなら、真空管アンプならどんな音がするんだろう」とふと思いついた。

期待に胸を弾ませて飛び起きたのが(10日の)午前4時半ごろのこと。まだ皆が寝静まっている中をこんなに朝早くからゴソゴソして回るのだからまったくゴキブリ亭主である。

現在使ってない真空管アンプは2台あって、一つは「PX25シングル・ステレオ」、もう一つは近代管の「VV52Bシングル・ステレオ」。

出力管の「PX25」は周知のとおり、およそ60年ほど前の古典管でイギリスが発祥の地。アメリカのWE300Bと匹敵する名三極管としてヨーロッパに君臨していたものだが、リチャード・アレンのユニットも同じイギリスなので相性がいいだろうと、こちらの方を採用。

                

出力トランスはあのオルトフォンのカートリッジで有名なデンマークの「JS」社のもので小ぶりながらも実に素直な音がする。

そして、せっかく真空管アンプにしたのならと今度は音声信号をテレビチューナーのデジタル端子(光)からDAコンバーター「ワディア27ixVer3.0」で受け取り、そのアナログ端子(4分岐)からPX25アンプに接続。

結局、当初にはテレビ用のリモコンひとつで音声と画像を操作できたものが、まるで予想もしなかったほどの本格的(?)なシステムへ変身というわけだがさすがに音の方も大変身。

何といってもトランジスターと真空管では音の”肌触り”が違うようだ。後者では、音が”しっとり”としてビロードの光沢のような艶となり、高域の繊細さも”ひとしお”で思わず胸をハッとさせるものがある。

ただし、トランジスターアンプの方も周波数特性が低域から高域までフラットの感があってなかなか捨てがたい味があり、値段から考えると大善戦。このアンプと比較すると、PX25アンプの(音の)重心をもっと下げたい気がしてくる。いずれ何らかの改造が必要だが、「帯に短し、たすきに長し」、なかなかうまくいかないものだ。

とにかく、こういうわけでこのテレビ視聴用のスピーカーはCDも聴けるようになり我が家の第三システムとしてどうにか通用するレベルとなった。メデタシ、メデタシ。

ちなみに、第一システムは「アキシオム80」、第二システムは「ウェストミンスター」である。

アレッ、すべて「イギリス製のスピーカー」になってしまったぞ!

「システムが三つもあってどうするの?」と問われそうだが、オーディオはどんなに「好みの音」になろうと長く同じ音を聴いていると、所詮は飽きてくるものだと思う。人間の脳は”慣れ”に対してはことのほか厳しい。

そこで一日のうち、朝、昼、晩にわたってこれらのシステムをうまく使い分けるようにすると、飽きが来なくて「音」を未来永劫に楽しめそうな気がする。

またシステムが三つともなると機器のスイッチを入れたり、切ったり、あるいは入れる順番とかが複雑になって”粗雑な頭脳”にはたいへんな重荷だが脳の”老化防止”にはいいかもしれない
、な~んて、この考えはちょっと甘いかなあ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~テレビ視聴用のスピーカー~第2弾

2011年10月08日 | オーディオ談義

前回からの続きです。

テレビ視聴用のスピーカーを作ってみようと思い立った日の翌日(5日)はあいにく朝から一日中雨が降りそぼったが、6日(木)は一転して秋晴れ。

9時の開店を待って近くのホームセンターに行って、松の集成材を購入し計算したとおりの寸法にカットしてもらった。

「90㎝×180cm×1.8cm」と「90cm×60×1.8cm」のパネル2枚をそれぞれの寸法の12枚に小分けするのだからなかなかたいへんだったが、17回のカットで済んで40分ほどで終了。

肝心のSPユニットを取り付けるバッフルの穴開けと開口部のR仕様だけは専門の業者に任せて、翌日の7日(金)の11時ごろに持ってきた。

ようやく組立材料が勢ぞろい。

                   

取り付けるSPユニットはとりあえずリチャード・アレンの「ニューゴールデン8」(1980年5月製造)にした。

以前、試聴したときにはイマイチの感を持ったのだが、容れるボックスが変われば豹変するかもしれないと期待を込めたユニット。形状からしてメカニカル2ウェイだが、高域の繊細さにこだわるいかにもイギリス製らしいユニット。

SPコードを取り付ける端子の部分(赤と黒)がネジ止めになっているが、この”やり方”だと接触箇所が次第に酸化して音が悪くなるので、当然のごとく取っ払って(SPコードを)「半田付け」したのはいうまでもない。

簡単に音を良くする方法の第一番は機器同士の接続箇所を可能な範囲ですべて「半田付け」することに尽きる。

             

木工用の接着剤と長さ3cmのネジを準備していよいよ11時半から組み立て開始。もちろん昼食を抜きにしてかかりっきりでようやく完成したのが15時ごろ。

            

およそ60本のネジをドライバーで締め上げたので、手の皮の一部が擦り剝けてしまった。ドリルドライバーを使うと楽だがネジの締め加減があるのですべて手動というのはやっぱりつらい。

さあ、いよいよ楽しみの音出し。

ハイビジョンレコーダーに4年ほど前に録画したムターが弾く「ヴァイオリン協奏曲」(モーツァルト)を聴いてみたところ「何と、ふくよかでゆったりとした響きなんだろう。ヴァイオリンの艶のある音色が実にいい。不自然な響きがまったく感じられず、もう、これで十分。」

「もう、これで十分」という言葉が口癖になりそうなほどだが、それほど高価なユニットじゃないし、材料代も安くて済んだのに、「これからこんな音でテレビの音が楽しめるなんて」と、うれしさも”ひとしお”。

これまでどおり、ボックスの中には羽毛の吸音材をギュギュウ詰めにしたが、これで「外れた」ことがないのは実に心強い。

作った経緯からして、これも亡き母の置き土産かもしれない。

それと、作る前にはまったく意識しなかったが、ふと、今回のSPボックスの大きさと重さから、ずっと以前に愛用していたタンノイⅢLZ(口径25cm)を思い出してしまった。当時、「黄金の組み合わせ」と言われたラックス社の真空管アンプ「SQー38FD」でよく聴いたものだった。

ⅢLZは今でも人気があって、オリジナルボックス入りはオークションでもご大層な値段のようだが、音の質は大違いで高域がスッと抜けた爽快さはリチャード・アレンの方が断然好み。

これから、テレビの音楽番組を観る時間がぐ~んと増えそうだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~テレビ視聴用のスピーカー~

2011年10月06日 | オーディオ談義

亡き母の初七日があけて、ようやくブログ再開です。今後ともよろしく~。

さて、この10日間はすっかり落ち込んでしまって音楽を聴く気にならず、本を読む気にもならず、運動ジムにも行かず、もっぱら静かにテレビ番組の視聴ばかり。

しかし、こういうときでも「音」が気になってしまうのは、オーディオ・マニアの「業」というものだろうか。

以下、顛末を記してみよう。

これまで、テレビを観るときはいつもスピーカーにウェストミンスター(タンノイ)を使っていたが、現在新しいチャンデバを作成中のためネットワークを取り外していて使い物にならないので、やむなく我が家のメインシステムのオーディオ装置に切り替えて聴いている。

このメインシステムを改めて(SPに限って)記しておくと次のとおり。

40ヘルツ以下          スーパーウーファー

40ヘルツ~200ヘルツ       ウーファーを3発

200ヘルツ~           アキシオム80を2発 

もちろん周波数はおよその目途だが、こうした帯域の広い音楽の再生を目的としたメインシステムでテレビの音声を2~3時間程度ならともかく、それ以上、長時間聴いているとなんだか耳が疲れてしまった。

自分の場合「駄耳」だと自覚しているので、「いい音」か「悪い音」かの瞬時の判断は(極端な場合を除いて)出来かねるが「音」に不自然な響きを感じるときは、不思議とオーディオ装置のスイッチを入れるのが次第に億劫になるのでそれが目安となっている。

今回もその例に洩れない。

周知のとおりテレビ番組の音声はほとんどが人の声で成り立っているが、男声の周波数の範囲は倍音を含めておよそ100ヘルツ~7000ヘルツ程度で、女声の方は150ヘルツ~1万ヘルツ程度とされている。

ということは、テレビ視聴の場合、70ヘルツ~1万ヘルツをしっかり再生してくれれば十分というわけで、これはまったく口径20㎝程度のフルレンジユニットの守備範囲と同一。

つまり20~2万ヘルツの広い帯域を対象にしたメインシステムでテレビを視聴するなんて、まるで「牛刀で鶏肉を裂く」ようなもので”仰々しい”こと、この上なし、テレビの視聴ぐらいなら下手に周波数を分割していないだけフルレンジで鳴らす音の方が有利で自然のはず。

(ただし、我が家のメインシステムにも何らかの問題点があるのはたしかである。)

「よし、(フルレンジを)試してみよう」と思い立った。

6年前に購入したシャープの液晶テレビ(45インチ)には簡単に外部スピーカーの接続ができるようになっている。

手持ちの箱入りのフルレンジユニットといえば、40年ほど前に購入したフォスター(現在はフォステクス)の「BFー103S」(口径10cm)があったはずだがと、倉庫を探してみると隅の方にあったあった。

さっそく3mほどのSPコードを「BF-103S」の端子に半田づけし、テレビ内臓のアンプを利用して音出し。

もちろんボックスの裏蓋を外してその中に吸音材として羽毛(木綿袋に小分けしたもの)を、ぎゅうぎゅう詰めに押し込んだのは言うまでもない。

             

「おお、なんと素直で自然な音なんだろう」と思わず頬が緩んでしまった。低域も超高域も見事に出ないが中域がしっかりとしたグッドバランス。長時間聴いてもちっとも疲れないのが何よりもいい。また、テレビのリモコンスイッチひとつで画像と音声が出てくれるのも実にありがたい。まさに「シンプル・イズ・ベスト」。

さらに40年の星霜を経ても、ちっとも衰えていないフォスターのユニットの丈夫さには大いに感心した。

実はこの古いユニットにはちょっとばかり思い出がある。

当時といっても40年ほど前のことだが、愛読していたステレオ・サウンド誌(通称「ステサン」、あの頃は良かった!)でオーディオ評論家の長岡鉄男さん(故人)が小さなトリオのアンプ(TW-31)とこの「BF-103S」の組み合わせを提案され、他の評論家たちからも「素直な音」だと大好評だった。

さっそく”なけなし”のお金をはたいてこのセットを購入したのは言うまでもないがアンプの方は壊れてとっくの昔に処分したものの、SPユニットは湿気が入らないようにマメに梱包して保存していたのだが、「捨てなくてよかった!」。

余談だが長岡さんはそれから程なくして、「ステサン」の主柱的存在だった某有名評論家と仲違いしてしまい、「ステサン」の執筆から遠ざけられてしまった。

以後「ステサン」はいたずらに値段ばかり”ぶっ高い”高級品志向に特化してしまい、幅広い読者層に対する多様性が失われてしまったが、コスト・パフォーマンス志向が強かった長岡さんの功罪はいろいろあるにしても往時を知る方のうちこのことを残念に思うのは自分だけだろうか。

オーディオは決して「お金持ちが有利」の趣味になってほしくない、資金という制約があってこそ研究熱心となり「いいアイデア」が湧き、「センス」も磨かれると思うのだがこれは「独断と偏見」かな~。

さて、「テレビの音ならこれで十分」と大いに満足してこのユニットで2~3日聴くうちに、これがもし20cm口径のフルレンジならもっと気持ちよく聴けるかもしれないなどと、だんだん欲が出て来てしまった。

この辺はオーディオ・マニア特有の”貪欲さ”丸出し。

現在、箱無しの裸の状態で20㎝口径のフルレンジユニットを3種類持っている。

アルテックの「403A」が8本、リチャード・アレンの「ニューゴールデン8」が2本、ジェンセンの「P8P」が2本。

アルテックはいずれ片チャンネル4発で鳴らしてやろうとオークションでせっせと集めたもので、リチャード・アレンはブリティッシュ・サウンドに憧れていたときに購入したもの、そしてジェンセンの「P8P」は1954年製造のヴィンテージもので強力なアルニコマグネット付きなので絶対に「いい音」が出るはず。

              

きちんとした箱さえ作ってやればこれらのユニットをフルに活用できるのは言うまでもない。

よ~し、この際だから一丁やってみっか!

とはいっても名古屋のYさんみたいにとても凝った”つくり”のボックスは技術的にも資金的にも無理なので、バランスが取れて実際に「いい音」を出している「BF-103S」の箱の寸法をそれぞれ測って「黄金比」の1.6倍に拡大して作ってみることにした。

それでも縦55cm、横35cm、奥行き30cmのこじんまりとした箱になる。

スピーカーの箱は大きければ大きいほど豊かな音がするのは分かっているが、内部の平行面で起きる定在波の処理などが難しくなるし、それに置き場所だって困る。

「オーディオは大掛かりで複雑になればなるほど悩みもお金も増えていく」というのは自分の経験上ではやはり真理である。

問題は箱の材質だが近くのホームセンターで視察してみると丁度手頃の厚さ1.8cmの松の集成材があったので、これで作ってみることにしたが、はてさて、うまくいくものやら・・・。

以下、続く。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする