音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

タンペラモン(temperament)

2008-06-30 23:46:53 | 音楽

明日から7月。もう、夏の花、ひまわりが咲いていました。ちょっと遠慮がち

今日はレッスンの日。
美しい音色を出すためには、唇を柔らかくすることが大切ですが、最近S先生が見つけたのは、フラッタータンギング(巻き舌をしながら音を鳴らす)をウォーミングアップですること。

音階練習や、ロングトーンをフラッターですると、息自体も通常よりもたくさん吹き込まないと音にならないので、横隔膜や、腹筋にもいいです。
ソノリテをフラッターでやると効果抜群・・・慣れるまで結構つらいけど。

相変わらず、カミュの「シャンソンとパディヌリ」ですが、指をかばいながら演奏するので、かえって一つ一つの音を大切にふけているみたいです。
「いつもは前へ行こう、前へ行こうとしすぎるけど、今日はいいねぇ。無理やり押し出そうとするんじゃなくて、自然の力を借りればいいのよ。大きな空気の流れがあって、その上にすっと乗る感じでふけるといい演奏ができるよ。」ほんと、傷は力。

「ほら、静かになった。」
先生がフルートでピアノ伴奏を抜粋して演奏してくださったので、デュエットがとても気持ちいい。

「次は、今までやってきた曲をさらっておいで。持ち曲にしていつでも出せるようにね。」

振り返ると、未消化の曲の山ですが、サンカンや、デティーユ、ゴーベールのソナチネ。魔弾の射手、カルメンなど幻想曲も心残り。それにしてもこの間から自分でも気になってさらっていたのですが、なぜS先生はわかるのでしょう?

モイーズさんのいう
「タンペラモン」temperament(仏)(ソノリテについて)、

訳者の注釈では「
気質、中庸の意で、人間の持つ感情あるいは感覚の本能的特性をいう。」となんだか、分かったようなわからないような感じですが、先生のおっしゃる「自然の力を借りればいいのよ。大きな空気の流れに乗って」というのがこれのことかもしれないと思った次第です。

この私がかつてやった曲はこの「タンペラモン」が不足していたように思います。必死でがんばって、とか一生懸命吹いていたと言う感じで、一瞬も気が抜けない感じ。そんな演奏って息苦しいよね。

S先生によると「子どももおんなじでしょ。無理やり、ひっぱってって、言うこと聞かせようとしたら、手がかかっていつまでもしんどい。あんたはこれとこれやからね。はい、いってらっしゃい。と軽く押したら、自立して自分ですっと出て行って、親は心の中ではちょっとさびしいけど、子どもも親も楽になれるよ。」

ほんとおっしゃるとおりです。自分の子育ても反省。

確かに今日は体自体もまず気持ちよかったし、楽にふけた感じです。忘れないように、明日はさっそく他の曲でもためしてようっと


子どもの虐待

2008-06-30 02:39:09 | Weblog

唐鼠黐 (とうねずみもち)って名前だそうです。最近花盛りです。ながいことライラックの一種だと思っていましたが、大間違い。花が終わると、紫の丸い実がつくそうです。

昨夜、NHKのETVワイドで「こどもの虐待」をやっていました。
虐待の被害者、加害者がそれぞれの体験、心境などを語り合うというもので、第2回だったそうです。
一回目は見過ごしました。

2時間、つらい話が続きましたが、その中で、司会の女性があまりに悲しい話に同情して目を潤ませて、「おつらかってですよね。何かいうことはありませんか」と言った途端、被害者が固まって、動かなくなってしまいました。長い沈黙。また、同じ調子で「無理しなくていいんですよ。」そのうち、虐待相談のプロの西澤さんが声のトーンを明るくして「今、別の人と会話していませんか?」というと、我に返り、「はい。」と戻ってこられました。西澤さんは「同じトーンの声で話しかけられたので、どんどん過去の世界の声と対話してしまったのです。そういう時はトーンを変えなくては。」と補足されました。

この司会者がすることを私もよくやってしまうと思いました。相手と同じ底辺にとどまって、孤独感を一時癒し、仲間がいることで安心してしまい、そこから動こうとしなくなる。無気力さで友達とつながってしまう。彼女は言葉で無気力を表明したわけではないですが、言葉にすると
「つらくてできないわよねぇ。」「大変な話なので、話せないわよねぇ。」「そのまま話さなくてもいいんですよ。」「あなたはには助けが必要なんです。」「もう一度虐待をみるなんてつらすぎますよね」

彼女が特別なのではなく、私を含めた女たち、主婦たちは結構これが多いです。せっかく前向きな話を聞いてきても、「がんばろうよ」と言う声をかけあったりしない。「できないわよね」と無力な私の方が安心する。友達にも私と同じ能力無しの存在でいてくれたほうが安心する。夫より前に出ず、金も稼がず、能力を出さない方が夫婦関係がうまくいくし、世間も良妻賢母と評価してくれる。わざわざ、苦労することもない。

それはそれで、一つの生き方だと思うし、自分で分かって選んでいればいいのだけれど、TVでこんなことを見せられるとしまうと、考えてしまう。被害者に同情し、助けたいと思っているのに、結果はどんどん、虐待の世界に落ちていってしまう。

虐待はマイナスの出来事だけれど、この過酷な経験を生き抜いた被害者は、当然普通に生きてきた人より、過酷な状況を生き抜く知恵や能力、エネルギーとパワーをもっているはず。
これはその人自身の人生の資本となるとともに、社会に対しても大きな資本となるはず。

でもこの経験を人生の資本とするには、人のサポートを受けて、あったことを客観的に見つめ、何が暴力で何が愛であったのかを分けて言葉にしていく作業が必要だと思います。

子どもは虐待を受けても「親が好き」と言い続け、親のほうも「子どもを愛しているのに」と言います。

でも、殴ったり怒鳴ったりして言うことを聞かせなければならないのは、「愛」とは全く関係がなく、親のコミュニケーション力が低かったり、躾けやリーダーシップをとる技術が未熟だったり不足だったりしているためなのです。
親を根っからの犯罪者と思ったり断罪しなくてもいいのです。能力がないのだから、親は学べばいいのです。その時、離れることが必要なら、社会の資本を利用して、離れればいいのです。
大切なのは子どもが自立していくために必要な能力。人間全部を不信の目でみたり、否定したり、拒絶せず、当たり前に人を信頼して生きていく。人を信じる能力をなくさないこと。何をされてもオールOKではなく、危険な言動を見分け、批判したり、対処できる能力をつけることです。

そのためにも被害者が事実を事実として受け止める力のある人だあると、期待と信頼を寄せて関わることが大切なんだと実感しました。自分の無気力さを赦している自分も実感。もういい加減にしよう。