音楽の喜び フルートとともに

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子守唄

2024-02-01 21:00:00 | ロマン派
子育て支援の保育をしました。
一歳過ぎの赤ちゃんを赤ちゃん宅で見ました。
久しぶり。
可愛いおもちゃがいっぱいありましたが、お気に入りは手のひらサイズのピアノのおもちゃて鍵盤を押さえると、歌が流れます。
大きな栗の木の下で、むすんで開いて、一本橋こちょこちょ…などなど。

一緒に手遊びをするとじ〜っと見ています。
「一本橋」をすると「こちょこちょ」の前でじ〜っと待ち構えて、キャハハハ!と声を上げて笑います。

散々遊んだら、指を吸い出して、抱っこしてちょっとゆするとすぐに眠ってしまいました。

眠っている顔はどの子もみんな天使です。
様子を見ているだけで幸せな気持ちになってきます。
あっという間の2時間半。
お手伝いできて幸せでした。

リヒャルト・シュトラウス(1864-1949年) バイエルン王国ミュンヘン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州オーパーバイエルン行政管区ガルミッシュ・パルテンキルヒェン没


1899年に子守唄op.41-1TrV195を、作曲しました。

ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者の父フランツに徹底的にされた音楽教育下にあったシュトラウスは、ベルリン・フィルハーモニーの指揮者ハンス フォン ビューローの補助指揮者を4年ほどした後、彼の辞任後後をつぎます。

父の影響下で古典的な作風だった彼はアレクサンダー リッターに出会い革新的な音楽の影響を受けることになりました。

1889年交響詩「ドン・ファン」を上演すると成功します。

シュトラウスはこの時、彼の内なる音楽の声を聞き、「多数の仲間から狂人扱いされていない芸術家など誰もいなかったことを十分に意識すれば、私は今や私が辿りたいと思う道を進みつつあると知って満足している」と書いています。

1895年交響詩「ティル オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

16世紀初頭の民衆本の挿絵
1896年交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

などを次々に発表し、成功します。

1894年バイロイト音楽祭でワーグナーの「タンホイザー」を指揮し、そこでエリーザベトを歌っていたとパウリーナ デ アーナ

1900年パウリーナ
と結婚します。

1898年交響詩「英雄の生涯」を上演すると交響詩の分野から手を引き、オペラ作曲に関心を向けるようになります。

しかし初めの試み「グントラム」1895年は失敗、1905年次のオペラ「サロメ」で空前の成功をします。

サロメの楽譜の表紙ビアズリー
その過渡期に書いたのが「子守唄」op41-1です。
小品ながら、サロメに続く官能的な作風が際立っています。

詩はリヒャルト・デーメル(1863-1920)プロイセン、ブランデンブルク州ダーメ=シュプレーヴァルト郡の小村生まれ、ハンブルク郊外ブランケネーゼ没

1905年
山林監視人の父のもとに生まれます。
教師と対立してギムナジウムを放校さ。のち、ベルリンとライプツィヒの大学で自然科学、経済学、文学などを学びます。

その後火災保険の職に就き、仕事の傍らで1891年に処女詩集『救済』を刊行、これをきっかけにリーリエンクローン(1814-1909年ドイツ印象主義の詩人)との交際が始まる。

1895年より文筆専業となり、1896年に代表的な詩集『女と世界』を刊行。1901年よりハンブルク郊外のブランケネーゼに永住しました。

1914年から16年まで自ら志願して第一次世界大戦に従軍し、終戦後の1920年に戦争時の傷の後遺症が元で死去。
シェーンベルクの「浄められた夜」マックス レーガーなど音楽家との作品も多い。

「子守唄」
夢を見て、夢を、私の可愛い生きがいよ
天国の夢を、そこは花で一杯
花は輝き、揺れている
歌を聴きながら、あなたのおかあさんの歌を

夢を見て、夢を、私の心配の種ちゃん
あの日の夢を、花の咲き誇ったあの日の
明るい、花咲くあの朝のことを
お前の小さな魂が、この世に現れた日の夢を

夢を見て、夢を、私の愛の結晶
静かで、素晴らしかったあの夜の夢を
パパの愛が花開き
この世を天国にしてくれたあの夜のことを