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モーツァルトに立ち返る

2024-02-08 21:00:00 | ロマン派
やっと夕食完全に食べれました。 
今更コロナの話しと思われるかもしれませんが、まだまだかかる方もいらっしゃるし、特効薬のモルヌピラビルの投薬経過など知っていれば、少しは安心材料になるかな?と思って経過を記しておきます。

ちなみに私は高リスクと思っているので外出はまだ必ずマスク。
外食も多くはないと思います。(1週間に一度か二度)
感染経路ははっきりとはしません。 

1月31日夕方に発症して、2日様子見して、2月2日夕方に病院で診てもらってモルヌピラビル開始。他に漢方や咳止めなども処方。

先生の話では「2月5日に熱下がってたら、外に出ても良いよ。」ということでした。

2日晩4錠飲んで、すぐに38度から(最高39.1度)下がりだしましたが、その後3日、37.7度〜37.1度をさまよい、先生がおっしゃってた5日は、まだまだこの辺りで無理でした。
6日になって37度以下になりましたが、咳や鼻水がまだ続き、食事も食べられず動けないレベルでした。
まだ完全隔離。 
夜には完食できて、
7日朝になって完全に床上げしました。
今ここ
体力回復音楽を聴いたりして、楽器を吹けるか?お試し中。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1880年作曲の「弦楽セレナーデ」ハ長調op43
この作品は、チャイコフスキーがモスクワ音楽院に着任した時からの親友でチェロ奏者のコンスタンチン・カールロヴィチ・アルブレヒト(1836年 - 1893年)
に捧げられました。

チャイコフスキーは当時のヨーロッパ音楽について表面的な効果を狙ったものという批判的な感想を持っていました。が、これは自身の敬愛するモーツァルトの精神に立ち返る、という意図から書いたものであり、パトロンのフォン・メック夫人

ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック( 1831 - 1894年)は、ロシア出身の資産家
へ完成を報告する手紙に
「強い内的衝動(モーツァルトの精神に立ち返るという)によって書かれたもので、だからこそ真の芸術的な価値を失わないものです」と記しています。

チャイコフスキーは1880年9月9日付のメック夫人への手紙の中で、交響曲か弦楽五重奏曲の形で新しい曲を書き始めたと報告していまず。
同月25日の手紙ではその曲が「弦楽合奏のための組曲になる」、
そして10月10日付けの手紙では上述したように着手から1か月程度で完成したとの報告を行いました。

その中で組曲ではなくセレナードとこの曲を説明しています。

初演は1881年10月18日にサンクトペテルブルクで、エドゥアルド・ナープラヴニークが指揮するロシア音楽協会のオーケストラで行われました。

エドゥアルド・フランツェヴィチ・ナープラヴニーク(1839-1916年)ボヘミア生まれ、サンクトペテルブルク没

ナープラヴニークは初演について「好評で、満場一致の要求でワルツをアンコールしました」と述べています。


第1楽章
Pezzo in Forma di sonatina; Andante non troppo - Allegro Moderato

「ソナチネ形式の小品」と題されています。
チャイコフスキー本人は「モーツァルトへのオマージュで、彼の様式の模倣を意図しています」と書いています。ハ長調でありながらイ短調の主和音で開始される重厚な序奏は、作曲者本人の色が出たきわめてメランコリックな印象深いものです。

第2楽章
Waltz; Moderato (Tempo di valse)
ロンド形式(A-B-A-C-A-B-A)のワルツ。 

第3楽章
Elegie; Larghetto elegiaco
「エレジー」と題されているが全曲にわたって長調です。 

第4楽章
Finale (Tema russo); Andante - Allegro con spirito
自由な変奏曲とロンド形式を組み合わせたような楽章です。
「ロシアの主題によるフィナーレ」とあるように、序奏もメイン主題もロシア民謡を基盤としています。第3楽章から続いた和音によって開始され、そこからロシア民謡『なんと緑の牧場のことよ!』の主題が使われています、次に民謡『緑のリンゴ畑にて』の主題による主部に流れ込みます。終結部に第1楽章の序奏主題が再現され、堂々と全曲を閉じます。