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女奴隷ジャミレ

2024-02-22 21:00:00 | ロマン派
月曜日は、星ヶ丘病院で次男の入院前検診。
これがなかなか。
MRI撮って、レントゲン撮って、診察。



もう一度入院前検診で、入院前相談、尿検査、血液検査、MRI、レントゲン、診断。
もう一度入院前相談、入院手続き、会計。

初めは松葉杖で行ってましたが、看護師さんにお勧めされ車椅子で移動。
院内ですが3000歩位歩いてました。
それぞれ待ち時間はあるし、途中で院内コンビニでお昼食べるように言われて、会計まで終わったら3時でした。

これだからなあ~病院。
1人で来てたら心配は募るし、嫌だろうなぁ。
同じような検査巡りの途中のおじさん。途中でご飯食べたあと眠くなったのか待合の椅子で寝て、看護師さんに起こされてました。
「嫌やねん、わし。検査しても一緒やろ!もう帰る!」とごねてました。

『ちょっと引きながらも、気持ちわかるよ〜。』と、心の中でつぶやいてました。

ギプスは新しくマジックテープで着脱できる黒色のになりました。

後ろ半分に液が入っていて、時間が経つと熱くなってきて脚の形に固まるのです。
すごい!
お風呂の時は外せるし、これだとズレにくいし、ギプスの上から定規で掻かなくていいですね。

さて、手術は来週の火曜日。
入院は月曜日からになりました。
各方面日程調整。ご迷惑おかけします。
しかし、ビゼーほど思い通りにならなくもないので大丈夫です。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス王国ブージヴァル没

1860年頃
パリ音楽院での学業成績は華々しく、栄えある1857年のローマ賞をはじめとして数々の賞を獲得しました。
傑出したピアニストとされていたものの、ビゼーはこの技術で金儲けをするという選択はせず、公の場で演奏することも滅多にありませんでした。

イタリアでほぼ3年間を過ごした後パリに戻った彼は、パリの主要歌劇場では新人の作品よりも確立された古典的演目の方が好まれていると知りました。

彼の鍵盤楽器作品も管弦楽作品も同じく大半が無視されました。

キャリアは失速し、主として他者の音楽を編曲する仕事で生計を立てることになりました。

成功への挑戦に暇がなかったビゼーは1860年代に多くの歌劇場の仕事を開始しますが、その多くが頓挫してしまいました。

この時期に上演にこぎつけた2つのオペラ『真珠採り』


と『美しきパースの娘』

、いずれもすぐに成功を収めることはありませんでした。

1870年から1871年の普仏戦争
フランスドイツカリブ海の対立ドイツが勝ち、フランス第二帝政の崩壊、アルザス・ロレーヌ地方の割譲
の時に国民衛兵として従軍し、戦後には1幕のオペラ『ジャミレ』


を発表するも評判は芳しくありませんでした。

一方、アルフォンス・ドーデの同名の戯曲に付された付随音楽『アルルの女』から編まれた管弦楽組曲はたちまち人気を博しました。

最後のオペラとなる『カルメン』の上演は、作品の主題となる裏切りや殺人が聴衆の心証を害する懸念から延期されます。

1875年3月3日にパリのオペラ・コミック座で初演されますが、聴衆の理解を得られずに不評に終わります。

その3か月後に心臓発作によって命を落としたビゼーは、この『カルメン』がその後ウィーンで大成功を収め、フランス・オペラ史上画期的な傑作とまで評されることを知ることなく、失意のうちに没しました。

ジュヌヴィエーヴ・アレヴィとの結婚はとぎれとぎれながらも幸福をもたらし、1人の男児に恵まれました。

死後、『カルメン』を除く彼の作品はほとんど無視されてきました。草稿は他者の手に渡るか散逸してしまい、出版された作品にも頻繁に他人による改訂や改変が加えられました。

ビゼーは派閥を形成することなく、それとわかる弟子や後継者もいません。
忘れられていた年月を経て、20世紀に入ると彼の作品はそれまでより多く上演機会を得るようになります。

後世の評論家は華麗で独創的な作曲家として彼を賞賛し、その早すぎる死はフランスの歌劇場にとって計り知れない損失であったと評しています。

「ジャミレ」はルイ・ガレ

がアルフレッド・ド・ミュッセの長詩の『ナムーナ』(Namouna 1831年)を素材として書いたものです。

初演は、アリーヌ・プレリ(Aline Prelly)

がジャミレ役を歌い、コミック座の支配人カミーユ・デュ・ロクルが舞台装置を手掛けました。

エルネスト・レイエルはその音楽を称え、特にその異国的要素とリアリズムの巧みな結合を誉め、ビゼーを〈若い連中のリーダー〉と評しました。

しかし、リブレットの劇的な面での弱さもあり、『カルメン』のように個性的な魅力もなかったことから、本作は永続的な人気を獲得することはできず、10回公演されただけで、フランス国内では1938年まで再演されませんでした。

しかし、カール・ベーム、マーラー、リヒャルト・シュトラウスなどがこのオペラを再評価し、近年上演回数も増えています。

「ジャミレ」
時代は19世紀、舞台はエジプトのカイロ

日が暮れつつある邸宅で金持ちの息子アルンは、彼の従僕スプレンディアノと一緒に横になり、タバコを吸っています。



舞台裏からナイル川の船頭たちのエキゾティックな「日が沈むぞ」という合唱が聞こえます。

奴隷女のジャミレはアルンの目に見えない少し離れた物陰から彼を優しく見つめています。

アルンがスプレンディアノにジャミレの所在を尋ねると、近くにいるのでしょうと応えます。スプレンディアノは密かにジャミレに恋心を抱いているのでした。

アルンは毎月奴隷女を買い替えていました。一ヵ月で役割を終えるとアルンは女奴隷に金品を与えて、解放していたのでした。

間もなくひと月が経つので、女奴隷の交代の時期が迫っています。砂漠のような心のアルンはジャミレに恋をしていることを否定し、スプレンディアノに「おまえの好みの女を選んで来い」と奴隷市場に遣わして新しい女奴隷を連れてくることを要求します。

スプレンディアノはアルンが女性を愛さず、自由な生活を愛するだけなので、捨てられたジャミレを自分のものとすることができるだろうという希望を抱くのでした。

アルンが召使いに夕食を出すように準備をさせます。ジャミレが現れて、海に溺れて死にそうになったという悪夢を見たという話をします。

アルンはジャミレに首飾りをプレゼントしようとすると、ジャミレは贈り物よりもそれをくれる方の手のほうが望みだと言います。

夕食が終わるとアルンの友人達が、ゲームをして夜を過ごすためにやって来ます。友人達はジャミレを見ると、彼女の美しさを称賛します。

スプレンディアノはジャミレに間もなく解放されるから、そうしたらスプレンディアノの女にならないかと提案します。そこでジャミレはスプレンディアノとある約束をします。

それはアルンが新しい奴隷女を物色する際に、その女達の中にジャミレを紛れ込ませてもらう。もし、アルンがジャミレを見染めて、心からジャミレを愛するようにならなければ、スプレンディアノのものになるというものでした。

ジャミレは自分の運命と愛の弱さを嘆くが、ダンサーの衣装を着て、羞恥心に苛まれながらも、奴隷商人のところへ出向くのでした。

やがて、アルンの邸宅にスプレンディアノと奴隷商人がやって来ます。
奴隷商人は「宝物をご覧ください」と奴隷女たちにダンスを踊らせます。

アルンはヴェールを被って踊るジャミレに気がつかないまま、ジャミレを気に入り、自分のものになるように迫ります。
ジャミレは泣いてしまうが、アルンは彼女を慰めます。
月光が部屋を照らすと、アルンは彼女の正体がわかり、ジャミレが彼を愛していることに気づきます。

アルンは「束縛された生活は嫌だ」と自分の気持ちに抵抗しようとしますが、彼女の情熱的な愛が彼の心を優しく解きほぐし、愛の二重唱となり、二人は結ばれます。