音楽の喜び フルートとともに

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雨の日

2008-06-20 22:29:16 | Weblog

今日は雨。宇津木の葉にも雨。
午後の放課後は、雨が降ったりやんだり。
水溜りと、泥でぐちゃぐちゃの校庭でウンテイしたり、鉄棒したり。ドッジボールしたり。
全身あっという間に泥まみれ。靴は泥でグッチャグッチャ音がなっています。

もちろん、泥んこ遊びを本格的にする子もいます。泥んこが髪について、とろうとしたのか、いきなり水溜りの泥水を頭に…。「アッ、待って!」ああ~遅かった。にたー!と笑った前歯は生え変わりで抜けているし。みんなで読んだ絵本の河童みたい。

雨が降ったら部屋に入っていたのに、その内、何人かもうめんどくさくなって雨の中の運動場で踊ってるし。

おやつの時間にはほぼ全員がお着替えです。上着、ズボン、靴下はもちろんパンツまで。
いいガス抜きになったのか、おやつの後は部屋で、粘土をしたり、漫画読んだり、ゆっくり、まったり。
ところが、粘土をぺったんこに薄くするために牛乳パックで、はさんで叩くことを始めた子がでてきまして。
「先生、一緒に叩いて。」
「はーい。」なかなか息があってるじゃん。お餅つきのようにその子と交互にバンバン叩いていると、

「5時から静かに遊ぶ時間でしょ!」

「はい、すみません。」
「しーっ!」
「先生、怒られてんの。」
「はい。ごめんなさい。静かにしようね。」
だめだめ先生です。

それにしても、今日はたっぷり雨の日を味わいました。


音楽と社会

2008-06-19 22:56:15 | 本・映画など

やまぶきは八重もいいけれど、こちらのシンプルさが好きです。

秋葉原の彼の事件が、法務大臣がM死刑囚の死刑執行を行った動機になったと、日経新聞のコラムにありました。

バレンボイムがワーグナーを戦後イスラエルで初めて演奏した時、「ナチスの音楽なのになぜ?」
「迫害の歴史をわすれたのか?」と大きな反対意見が合ったそうです。

強制収容所で生き残るためにナチスの前で演奏を続けた少女は、戦後解放されたにもかかわらず、音楽を演奏している場には一切いけなくなったそうです。今現在でも頭痛がして、吐き気がして倒れる。

バレンボイムは、

「僕たちに自分たちを憎んだ人々に対し、彼らをひとまとめにして批判する資格があるとは思いません。憎悪することはもとよりです。なぜなら、そんなことをすれば、僕たち自身がこれほど長期にわたって自分たちを迫害してきたような人々と同じ水準になりさがってしまうからです。」

(音楽と社会 バレンボイムとサイード 著アラ・グゼミリアン)と言っています。

世界中で戦争が無かった年はありません。小さなスイッチを押す指があれば、ほとんど誰でもが大量殺人ができます。女、男、子ども、老人誰でも。警察を増やしても、武装しても、罰を強化しても、そういう人たちは道具を手にすることができるし、侵害することができます。この社会はずっと以前から病んでいます。

人間の行動には自覚するかしないかに関わらず、全て意味があると、アドラーは言います。
殺すことに普通の人は意味を見出したりはしないけれど、彼らは見つけてしまった。
殺すがOKなら、殺されるのもOK。
彼らの人生の問題を解決するために、暴力=殺人がOKであった彼らの人生や家庭や学校、地域があった。と思います。

殺人がOKなら、死刑もOK。池田小の彼も、「早く、死刑にしてください。」といい続け、死刑になりましたが、不完全な人間を死刑にして、溜飲を下げる。という構造は彼ら自身とそっくりに思えてしまう。

「なぜ俺をとめてくれなかったのか?」という秋葉原の彼の言葉は「社会や人や職場での対応が、俺に対して完全だったなら、俺は殺人をしなくてすんだんだ」と言っているように思います。
それに対して死刑を科す社会は「お前が完全な人間だったら、俺たちはお前を死刑にせずにすんだんだ。なぜ、俺にこんなことをさせるのだ。」と。

この殺人を容認する思考、その相似形にぞっとします。

収容所の中のオーケストラの少女のもう一人は、人の中に出て行って、何があったかを語りつづけ人種や国境を越えて大勢の人と手をつなぎ、歌手として、世界中に愛と平和の大切さを伝え続けています。

EUは死刑禁止。先進国ではアメリカと日本だけが死刑をし続けています。多いのは北朝鮮、中国。
戦争を禁じている国は日本と、後一国だけ。

遺族感情を無視しようといっているのではありません。遺族の傷は、この犯罪社を生んでしまった社会の責任で経済的、心理的支援を手厚くする必要があります。そして何よりも再発防止が社会に生きる全ての大人の責任でしょう。
死刑は抑止力にはなりえないと思います。アメリカは死刑があるにもかかわらず犯罪も多い国です。

予防するにはもっと研究しなければならないと思い
ます。こういう事件を起こす人は例外なく不幸です。その不幸は社会的地位や経済ではなく、人を信じられないという不幸です。人を信じられないというのは、病いです。社会の病いを治療するには、健康な人間。人を信じることのできる人間を増やすしかないと思います。

オーケストラの少女の一人は、相手を鞭打つ代わりに自分を鞭打ち続ける。ということで、無自覚にナチスを鞭打ち続け、いまだに孤独で人や、社会を信じることができません。もう一人は、ナチスの行為を憎むけれど、社会にでていき、人を信じることをやめず、より平和な社会がくるように人に関わり続けました。

どちらの選択も私たちには赦されているし、個人でどちらの生き方を選んでもそれを批判するつもりはないです。けれど、どちらを選ぶのが社会の安全を築くのに、責任感のある態度でしょう?大人なら、考える義務と責任があると思います。


リハビリ生活

2008-06-18 21:28:46 | Weblog

やっとのことで、激しい運動や、作業の時以外はテーピングをはずしてもよいことになりました。
手の甲の靭帯小指の側から三指分の損傷から、2週間。これで、終わりかと思っていましたが、整形外科の先生から衝撃の事実が…

「後、2週間はリハビリに通ってください。」
エーッ聞いてないよ~。っていっても、仕方がない。

見た目は腫れもだいぶ引いてすっきりとしていますが、ずっと伸ばして固定していた右手の握力は12G、左手が21Gなので約半分。
「小指曲げてください。」
「10度ですね。90度は曲がりますが、これ以上は痛いですか?」
痛いです。はい。

手だけつける泡風呂に入り、マッサージ。血行をよくするへパリンをつけてモミモミ。
曲げたり、伸ばしたり。

「無理しないように動かしてくださいね。」
「無理しないってどれくらいですか?」
「痛すぎない程度です。」
うーん、これも微妙。痛すぎって動かすと痛いけど、どこまでが痛すぎるのか?
熱持ってるし。

とりあえず帰って、シリコンカバーをとりはずし、久しぶりに低音のC、C#、D、E、F#、E♭を練習してみる。
『吹ける、吹ける。うれしい』
痛みがあって力が入らないけど、フルートは力を入れなくても大丈夫。

それに、動かせる方が、じっとしているより、性格的にあっているかも。

後、2週間がんばるぞ!


ジューンブライド

2008-06-17 23:51:19 | Weblog

うちの庭にはないですが、6月はやっぱり紫陽花images

今日は、結婚式がありました。
「なにやってるんじゃ。だまれ!」小2のAくんはいつも挨拶のように繰り返します。
ところが、今日同じ小2の女子集団5人が、Aくんのところにやってきて、「Aくん、Bさんのことすきやって言ってたやろ。BさんもAくんのこと好きやっていってたで。」そういって去っていったのです。

それからのAくんの幸福…「先生、ほんとかな?」いいながら、顔がくしゃくしゃに崩れてる。
「さあ、ほんとうかどうか、Bさんに聞かなわからへんけど、いややったら、みんなが言ったときに違うっていうかもね。」
「ふーん。」
「えへへへ・・・。」

しばらくするとまた、くしゃくしゃの顔で「ほんとうかな?」
「Aくん、Bさんのことすきなん?」
「うん。ほんとうかな?」
Bさんに確かめてみたら?」

そのうち、女子集団といっしょにBさんもやってきて
「Aくん、ちょっと来て。」
「えへへへ…。」
「先生、きたあかんで。」
「先生お仕事やから、一緒にいないわけにはいかんのよ。」
「しゃあないな。じゃあ、ここにおって、聴いたらあかんで。」

運動場のすみっこで、結婚式がはじまりました。私は、壁一枚へだてて、聴いていました。
しろつめくさを摘んで、ブーケにして
「ちょっと、先生、結婚指輪ってどの指?」
「左手の薬指」
「ありがと」
「Aくんに向かって、Bさんのこと好きですか?って聴いてから、今度はBさんにAくんのこと好きですか?ってきくねん。」
壁のこっちで牧師さんのリハーサル。
Aくんがちょこっとでてきて、「先生、見んといてや。」

しばらくするとしろつめくさの指輪をしたAくんが出てきました。
「びっくりした。結婚てあんなことしなあかんねんて。」顔を赤くしてにこにこしている。
本当にうれしそう。ほっぺにキスしあったみたい。

ごっこ遊びの延長だけど、このAくんの幸福はどうだろう?
荒れた言葉は今日一日、一言も聞かれず。雲の上を歩いているような顔。
こどもたちは協力して、結婚式ができるように真剣そのもの。

私は子どもたちを監視しているわけではないです。安全に幸福でいるか?
それでいいんじゃないかな?外から見ると、今日は壁の前でじっと立っていただけだけ。でも、いい仕事したよね。AくんとBさんのこの幸福に協力できて最高


環境を作る

2008-06-16 23:40:27 | Weblog

ぺトレアウォルビスという名前の花です。4月に北山の植物園に行ったときに撮影しました。エジプトの花ですが、なんとなく茶花か山野草のような風情が気に入っています。

今日の午後、まいさんと練習。
ドボルザークのソナチネをひき続き練習中です。泣かせる2楽章はいい感じ。

「はじめの小節の16分音符、もっときった方がいいんと違う?」
「同音の音タンギングはフルートは苦手やねん。切れてないみたいに聞こえる?」
「うん、聞こえる」
「分かった、切ってみるわ」

もう一回やり直し、「いいやん。」「いいねぇ~。」
「ちょっとしたことで違うもんだねぇ。」

「今日はちょっと変やで。」
「いやぁ、実は悩んでんねん。」ちょっとした変化も音で聴き分けられてしまいます。しまったポリポリ


「えーっと、あそこがねぇ、ちょっと、うーん。」なんて私の舌足らずの言葉にも、「ああ。あそこやろ、ちょっと短かったやろ。」と、鋭く、受け止めてくれます。
「そうそう、それが言いたかった。」

もっと、すごいときは演奏し終わった途端。「あそこもっと伸ばしたかったんと違う?」って「そうやねん。わかる?」

なんでこんなに共感性が高いんだろう?相手が考えていること、感じていることを、いつも見ようとしてくるって感じ。一致はしていないけれど、まず受け止め、それから、一緒に検討して、音楽的にどうか?という話ができます。
理性的で、探求心が沸いてくる。

誰かとアンサンブルをする時は、こんな風に音楽について理性的に話しができる環境を作ることが大切なんだなあって思います。
まだまだ、誰とでもというわけにはいかず、いろいろ難しいときもあるけれど、こうやって、まいさんのような人とアンサンブルをすることによって、私もいい影響を受け、他の仲間にも協力してもらって、少しづつそういう環境を作り上げていくことができる人になれればと思います。

まいさん、今日はいろいろ聴いてくれてありがとうございます
まだまだ、未熟者ですが、これからもお付合い、よろしくお願いします


野原や田んぼ

2008-06-15 22:23:29 | Weblog

馬酔木を剪定しなければと思いながら伸び放題。中古の家を買った時には、きれいに丸く段々に刈り込まれていたのに…子どもの頃、喘息の療養のため大阪市内から緑地を夢見て引越した私は、寝屋川の田んぼや、野原にカルチャーショック。
暗いねずみ色の都会に比べて、豊かな緑。
そこでは子どもが2歳から中学生まで集団で遊んでいました。

レンゲの首飾り、ザリガニつりの楽しさ、刈った稲の山でもぐったり、すべったり、ひなたぼっこ。けがしたら、近所のお兄ちゃんがヨモギのはっぱをこすりつけてくれました。
刈った刈り株に霜柱。春は泥んこの田んぼで足を取られながらおにごっこ。公園の滑り台よりも、川の土手を滑る方が楽しかった。
病弱な子どもはすっかり野生化して、元気に。

楽しかったんです。とっても、灰色の3歳までと、引越してからの野生化した数年間では、色の豊かさが違います。どうも、その頃から自分は整備された庭や、公園より、少しだけ野生の森や、植物の方に好みが偏っているみたいです。

今では、全くの野生の中で生きる自信はないけれど、全く整備された場所は無味乾燥に思えてしまう。
里山や、自然の野原は年々遠くなるけれど、あの楽しかった遊びを今の子どもたちが知らないのは本当に残念です。
五感の働かせ方、体の使い方、仲間との遊び方全てあの田んぼや野原で学んだ気がします。

こんなことはもう全て昔話なのでしょうか?


音楽であそぼう!6月

2008-06-14 21:55:32 | 音楽で遊ぼう

今日の「音楽であそぼう!」は水の音をたのしむ。images
「みんなは、今頃、出てくるお尻のところが光る虫を知ってる?なんて名前か知ってる人?」
「ほたるや。」「ほたる!」

東大寺の近くでもう蛍が出ているそうです。
私は数年前に井手町の蛍を見に行ったことがあります。井手町は蛍の保護を町の条例で決めている珍しい自治体です。井出川の峡谷から数え切れないほど多くの蛍があがってきます。網でとると一すくいで何匹も取れます。バケツの中にいれてみると、バケツが蛍で点滅します。

Sさんと一緒にふれあいフリースクエアで「音楽であそぼう!」を続けて4年目。今日は水の曲がテーマです。

まず、メロディベルで「ほ、ほ、ほたるこい あっちの水は苦いぞ。こっちの水はあまいぞ。ほ、ほ、ほたるこい。」
とみんなで合奏した後は、音楽室の好きな楽器を使ってそれぞれ簡単な伴奏をつけて合奏して楽しみました。

木琴、マリンバ、ピアノ、オルガン。好きな楽器を使った後は、「フィンガルの洞窟」を聴きながら、それぞれのイメージを膨らませた絵を描きました。

「えー!何描くの?」「わからん。」
「なんでも、すきなもの。音楽聴いて頭に浮かんだこと何でもいいねんで。」
ぶつぶついっていたのに、音楽が始まるとみんな集中して、終わるまでに大概の子が仕上げてしまいました。

大きな鯨を描いた子、大きな洞窟に船にのった人を描いた子どもは、その人が捕まえられた女の人を探しているそうです。イルカが小さな魚を追いかけている絵を描いた子もいました。
子どもの絵って何でこんなにすてきなんでしょう?

「なぁなぁ、これって月一回なん?毎週来てくれたらいいのに。」
Nさんは6年生、3年生の時に初めて出会って以来、ずっと「音楽であそぼう!」に来てくれています。
Aさん5年生は「ねぇ、ピアノ弾いてもいい?」となんの脈絡もなく言い出します。「ごめんな、私たち一生懸命プログラム作ってきたから、つきあってくれたらうれしいな。」「うん、ええで」やさしい子です。
Aちゃんには後で、ほたるこいをピアノでみんなの前で弾いてもらいました。

子どもと遊ぶのは本当に楽しいです。来月は何であそぼうかな?


虹をみる

2008-06-14 01:40:07 | Weblog

images植物園の噴水の中に虹が見えます。同じ日、同じ時間に同じ空の下を歩いていても、虹が見える人と見えない人がいます。いや、見える時と見えない時があるといったほうがいいのでしょうか。

子どもたちは感性豊かです。泣いたり、笑ったり、喜んだり、怒ったり。一つ興味深いおもちゃが見つかると、なでたり、触ったり、叩いたり、なめたり、噛んだり、においを嗅いだり。五感を使って味わい尽くしています。

雑草のヒメジオンをみると私の中に、それをつんで遊んだ記憶のほかになめたり、におったりした記憶はもうないのに、ヒメジオンの味、匂い、感触がよみがえってきます。子どもの頃は五感が開かれていて、その全てを使って、世界を知ろうとしていたのだと思います。
  大人になるにしたがって、まず、雑草は口に入れないものである。という判断が五感を使おうとする前に立ちはだかります。
  経験と知識と判断が自らの感覚を閉じさせるのです。

  感性を狭めるもののもう一つは、恐怖だそうです。フルートを吹いていて、ある音のところで変な音が出ると、次からその音をだそうとすると、体が硬くなって、冷や汗がでてきます。
  人間は恐怖の記憶の方がが、幸せな記憶よりはっきりと長く覚えているそうです。
 
なぜなら、原始の森の中で、命の危険のある記憶は自分の身を守るために大切だったからだそうです。

  ところが、一番危機対応できるのは、危険な状況をはっきり認識していながら、柔らかい心と体の状態にあるときだそうです。
 その状態とは脳に、「問い」があるときだそうです。「答え」や判断があるときではないそうです。恐怖があれば、近づいていって恐怖の正体を調べ、観察し、見極めること、正体が見えれば恐怖は減り、対応もできるようになるのは当然ではないでしょうか。正体を確かめなければ、対応もできない・・・というのは良くわかる話ではありませんか?変な音はどうやって出るのか?ということを確かめればそうでない方も勝手に分かってくるのはよくあることです。 感性や五感が豊かに働く時は、探求心のある時であって、答えのある安心で気持ちの良い状態ではないということです。
 
 虹や、通常そこにあるはずの無いものが見える時は、「自分は世界のことを何でもわかっている」と思っている時ではなく、「何か自分の理解を超えるものが世界にはあるかもしれない。」と思っているときのほうが虹を見つける可能性が大きいでしょう。考えれば科学はそうやって発展してきたとも思えます。

  「判断」や「経験」「恐怖」を脇において、感覚を研ぎ澄まして、興味を向け、検証するのは、私たちに大人にとって本当に難しいことです。でも、きっと、できるはず。かつて子どもの頃、してきたことなのですから。思い出しさえすればいいのですから


蝶の羽ばたき

2008-06-13 00:05:06 | 本・映画など

伸び放題のアイビーが玄関を占拠。アイビーすだれのおかげで、今年の夏は我が家の温暖化ガスを削減できるのでしょうか


映画「ガイアシンフォニー1」で「地球の裏側で蝶が羽ばたくと、こちら側では大津波が起きる。」といったのは誰だったのか?いい加減な記憶ですみません。
そこに出演されていた佐藤初女さんに3年位前に会いに行きました。
いつもセミナーでお世話になっている講師の方が初女さんの古くからの友人で、グループで岩手市にある初女さんの教会「森のイスキア」に一日泊めていただきました。

初女さんはそのカトリック教会のシスターですが、傷んだ人には全て門戸を開き、傷がいえるまでとめていただけます。初女さんは話を聴き、おむすびや、心のこもったお料理を食べさせてくれます。
たくさんの自殺志願者をおもいとどまらせ、救ったといいます。

黒いのりに包まれた、大きなおむすびと、鮭、みず、お豆腐など、なんの変哲もない郷土料理です。
初女さんは、はっぱがお湯の中で伸び、最後の命を輝かせる透き通った瞬間を感じ、ご飯を炊くのもお米が水の加減を教えてくれると、じっとお米の声に耳を傾けられます。

それが本当に同じお米か、同じ鮭か、とおもうほどおいしい。

6人兄弟姉妹の1番上で、初めての女の子だったから「初女」と名づけられた。男の子ばかりがありがたがられた時代です。という話をされると、私たちの中でもひとしきり、女ゆえの話がつづきました。
私も「私は生まれたとき、父は産院で始めて私と対面した時『なんや女か』といったそうです。」という話をすると、「こんなにきれいな子なのに」と両手で私の手を握って祈ってくださいました。
その手から、暖かい何かが伝わって体の中にしみとおっていきました。

自分の足元の小さなことを大切に生きる。小さな命を大切に頂く。

私たちみんながそうやって生きていくことができれば、蝶のはばたきのように、美しい津波が起きるに違いないと思います。


殺生

2008-06-12 00:23:32 | Weblog

薬を使わないので、我が家のバラの花は虫との闘いです。imagesちょっとだけ、花びらをつぼみの時にかじられてしまいました。虫は昔はお箸でつまんで捨てていましたが、今は素手で払っています。大切なものを守るために私も強くなりました・・・虫さんごめんなさい。でも、咲いてよかった~。

人間って本当に勝手です。
私たちは毎日、車に乗ったり、ペットボトルを使ったり、その便利な生活の資源を使う度に、第3国の人の生活を搾取しています。車一台で3000人分だそうです。

かつて労働の対価であったはずのお金は、投機という巨額の利益を生み出す理念無きお金によって、世界を左右しています。このシステムの中で私たち日本の経済もなりたっています。

愛の反対は、無関心。

無関心は一番の暴力。家族への愛、隣人への愛が不足しています。地震や、サイクロン、バイオ燃料、内紛、人権問題。知ろうと思えば知ることができるということは、どこか麻痺させないと生きていけないということなのかと思います。
麻痺させ、気を紛らわせるために私たちの社会はたくさんの時間とお金を使っています。

音楽を演奏するものは、感性を麻痺させたら、おしまい。このつらさの上に生活しているという自覚を失っては、いけないと自戒します。音楽を麻痺させるために使うのではなく、愛のために使ってもらいたい。
そんなことを、考えています。精進、精進。