まい、ガーデン

しなしなと日々の暮らしを楽しんで・・・

命を送り、命を迎える

2014-02-08 13:03:34 | くらし

2月8日 母の誕生日。
2月7日 娘の出産予定日。

2月2日 午前3時半 母死去。
2月3日 午後6時半 娘出産。

1月、産休に入った娘は出産、赤ちゃん誕生後の準備に余念がなかった。
私はその手伝いをしたかったので、1月の母訪問は早めにと思い5日を予定していた。

4日母の介護施設から入院したので来てほしいとの電話をもらう。4日は無理なので5日に佐渡に帰ってすぐに病院へ行った。母は普段と変わりなく見えた、が、腹部は異常に膨らんでいた。

後日、医師は、血圧、酸素量、体温等の数値は正常だが、感染の数値が高く、いつもならすぐに下がるのに抗生物質を投与しても効きが悪いと説明。原因検査等は行わないとも。私も了承。
病名 尿路感染症、イレウス。
治療は1日500mlの点滴と抗生物質、利尿剤の投与。そして、今まではたいてい2~3週間と明記されたいたのに入院期間 「未定」の文字。
それでも私は大したことないだろうと思っていたので、2週間くらい様子を見て横浜に帰るつもりでいた。

毎日、母の病室で午前2時間午後2時間、数独をしながら母の顔をなでたりさすったり手を握って話しかけたりして時を過ごしていた。額をなでると軽く目を閉じて気持ちよさそうにしていた顔は忘れられない。
意識のない母は痛いも痒いも言わない、あれをしてくれこれをしてくれのわがままも言わない・・・

ところが、ある日、母の呼吸が急に荒くなったと思ったら、右腕が見る間に紫色に変色していったので、私はすっかり取り乱してしまい、看護師さんを呼ぶやら、慌てて叔母に連絡するやらで一時大変な思いをした。そして「これではとても帰れないな」と確信した。

そうなると、娘の出産に私は間に合うのか、娘はその間一人で頑張ることになることになるが大丈夫だろうか等々の不安が増大してきて、医師や看護師さんに訴えて聞いてい貰うしかないほど自分の気持ちの制御が難しかった。
どう考えても、娘の出産に間に合うようにと願うことは母の早い死を願うことであり、そんな罰当たりなことを考えていいのか1日でも長生きしてもらいたいと願うのが普通ではないかと日々葛藤していた。
この葛藤の振れ幅はちぎれそうに大きくなったり、誰かに訴えたり小幅になったり、この後も何回も繰り返すことになる。

17日。これから病院に行こうかと支度をしていたら看護師さんから「医師から話がある」との電話。

「早朝、血小板の数値が悪くなってきているので、抗生物質の種類を変えてみるがその効き目が見られなかったら、これからは、日にち単位か、週単位か、よくて今月末の可能性が大きいです。でも人の命は予測がつきませんからお母さんの寿命まで頑張ってみましょう」との説明を受ける。

ショックはなかったがいよいよ覚悟を決めなければならない。夫、叔父叔母、息子夫婦、娘の夫にその旨を知らせる。
しかし、母の外見は特に変化が見えられない。少しずつ弱っていってるように見えるが、それも気のせいよと言われればそうかなと思う程度。相変わらず数値は普通なのだから。手も力強く握り返すのだから。
そしていつもと同じように病室で過ごしていた。

ところが20日、やはり呼吸がおかしくなったと思ったら、今度は両腕が見る間に紫色に変色していった。
夫に電話してすぐに佐渡に来てもらうように頼む。
今度は看護師さんにも知らせず勝手に悲壮な気持ちになって母を診ていた、もうあちらに逝くかと思うと涙が止まらず、それまでも時々こみ上げるものはあったがいちばん泣けた。
しかし母は強い。1時間もせずに紫色は元の色に戻っていった。

駆け付けた夫は「なんともない、ばあちゃん変わらんよ。あと半年は大丈夫だ」などといたって能天気だった。
そう見えるくらい母は脈も血圧も酸素量も心電図の波形も変化がなかった。
が、なかっただけに私は余計、この状態がいつまで続くのだろう、娘の出産はどうなるのだろうと気が気でない。本音を言えば、
「かあさん、もう逝っていいよ、十分頑張ったんだから。安心してていいよ、最後まで全部私が看取るから」との思いが強く、事実、母の枕もとで私は何回も繰り返して母に言い聞かせていた。もう私は葛藤する心に整理をつけていた。

しかし難題は次から次へと。
22日に来る予定だった夫は、急な呼び出しでとるものもとりあえず来たから、家のことがそのまま。
近くの横浜友に電話して始末を頼んだ。その日のうちに処理してくれてこれでひとつ問題解決。
ほんとにありがたかった。
次に母が長引くにつれて2週間分持ってきた夫の常備薬が切れてきそうになった。気が気でなかったがこれもどうにか解決。

そして極め付けが。
娘が28日、私の誕生日にチョコレートを贈ったから横浜に帰ったら食べてね、と電話してきた。
この時点では娘には何も知らせていない。娘は普通に私が佐渡で母を看ていると思っている。
が二人とも留守だから受け取れない。万事休す、どうにもならない。(事実、娘は贈り物が
自宅に返送されたことでおばあちゃんに何かあった、と悟ったようである)
遠く離れた地で介護・看護をしていることが、こんなに日常のいろいろな問題を引き起こすことを改めて実感した次第である。
これが自宅近くの施設や病院ならならほとんど問題にならないことなのに。

今度は。
30日、娘からのメールで尿たんぱくが出てむくみもひどいから入院したとの知らせが。
そのことで、私は娘にとって一番安全で安心な場所にいることでその方がずっといいとほっと安堵し、
夫と交代で母の看取りに専念できる気持ちになった。

しかし母には着実にあちらからのお迎えが来ていた。

28日ころから、今までほとんど開けることがなかった右目を開けるようになり、両目をしっかり開けて私の方を見つめる、天井をくりくり見回す、午後の間中目を開けている。ぼんやりしていた顔が表情が見える。
29日、青空が見え春めいた陽気の日、母の一番下の妹が会いに来た。
「まあ、母さんが両目開けたのん初めて見たや」
と言うくらい、しっかり目を開けて天井をキョロキョロ見ている。両目の動きがはっきりしている。
「ケンジロウさんが席開けて待っとるよ、キミサンもセツサンもショウイチ待っとるよ、顔が見えるでしょ」
思わず父や母の弟妹の名前を言って天井を見回している母を安心させていた。
「母さん、できるだけがんばれや」と叔母は帰って行った。

31日からは尿と鼻からの管を抜いた。母は脳出血で倒れて以来7年ぶりにすべての異物から解放された。
黒い便は何回も出るが尿がほとんどでなくなった。
このころには朝昼晩と3回母のもとに通った。なかなか血圧や酸素が図れない。呼吸が少しづつ荒くなってくる。今までは手を握ればしっかり握り返してきたのに、もうその力がなくぶらりと手放すだけ。
2月1日。
少しづつ肩で呼吸をし始め、呼吸の音も大きくなってきた。明らかに様子がおかしい。
看護師さんに頼んで泊まることを決める。ベッドの下に布団を敷いて寝ている私。ベッドの母。
母の規則正しい、が声が出て荒い呼吸音がいびきのように聞こえ、親子二人でどこかの旅館で寝ているような不思議な気持ちがした。
そうやって一緒の時を3時間も4時間も過ごしていると、今までさまざまに揺れ動いていた気持ちがすうーっと消えて無になり、本当の安らぎと穏やかな時間を共有している気がしてきた。
12時前くらいになるとそのいびきも音がしなくなったので、夫に連絡し、病室に来てもらって二人で見守る。

2月2日、母の呼吸が静かに消えていった。父は97歳の誕生日を迎えて1月半、母は誕生日を目前に
97歳で。二人とも97歳まで生きて大往生した。

2月3日、娘からメール。早朝5時ころから陣痛が始まった。
2月3日 娘の夫からメール。午後6時26分前に女の子誕生。
ちょうどお通夜の時、お坊さんのお経の最中に産まれたことになる。
通夜振る舞いの席上で報告したら、みなさん
「おばあちゃんの生まれ変わりだね」
「おばあちゃん、それまでガンバっとったんだわよ」
「命のリレーってあるんだね」
等々喜んでくれた。看護師さんも「おばあちゃん、ベッドで寝てたら赤ちゃんのところに行かれなかったけど、
今度は自由に行けるわね」などと思いがけない言葉をかけてくれた。

命を送り命を迎える。命はそっと消え、次の命につなぐ。

 

(母の供養のつもりで書いたら長くなりました。読んでいただけたら幸いです。ありがとうございました)

 

 

 

 

 

 

コメント (6)
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