夜な夜なシネマ

映画と本と音楽と、猫が好き。駄作にも愛を。

『顔のないヒトラーたち』

2015年11月04日 | 映画(か行)
『顔のないヒトラーたち』(原題:Im Labyrinth des Schweigens)
監督:ジュリオ・リッチャレッリ
出演:アレクサンダー・フェーリング,アンドレ・シマンスキ,フリーデリーケ・ベヒト,
   ヨハネス・クリシュ,ハンジ・ヨフマン,ヨハン・フォン・ビューロー他

ダンナが国内出張中4日目の木曜日、映画三昧するにはこれがラストチャンス。
終業後に十三へ行くか梅田へ行くか迷いに迷い、結局シネ・リーブル梅田へ。

この日も2本ハシゴ、これが1本目。
連日、日付がとっくに変わってからの就寝となっているので、
淡々と重そうな内容に眠くならないか不安でしたが、
睡魔に襲われることはまったくありませんでした。

戦後十数年が経過した1958年、着々と経済復興を見せるドイツ。
フランクフルトの小学校の校庭近くを歩いていたシモン・キルシュは、
煙草の火を貸そうとしてくれた男を見て愕然とする。
それはシモンが収容されていたアウシュヴィッツにいた元ナチス親衛隊員シュルツ。
なぜそんな男が教師を務めることが許されているのか。
シモンは知人の記者トーマス・グニルカにその事実を告げる。

トーマスとシモンは検察庁に掛け合うが、誰も相手にしようとしない。
厄介事に首を突っ込みたくないとばかりに見て見ぬふりを決め込む。
ただ一人、興味を示したのが駆け出しの検事ヨハン・ラドマン。

シュルツの就業記録を取り寄せてみると、空白の期間がある。
調査の価値ありと検事正に提案するが、いい顔をされない。
検事総長だけは最優先すべき事案だとし、ヨハンをリーダーに任命する。

アウシュヴィッツについて無知だったヨハンは、
次第にそこでどのような残虐行為がおこなわれていたかを知る。
ナチスの主たる指導者は1945~1946年のニュルンベルク裁判で裁かれたはず。
なのに、アウシュヴィッツにいた元親衛隊員8,000人は、
なんら罪に問われることなく、むしろ守られて平然と暮らしている。
ヨハンは彼らを裁判の場に引きずり出そうと立ち向かうのだが……。

私も無知です。こんな裁判があったことを知りませんでした。
このフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判は、1963~1965年におこなわれた裁判。
ウィキペディアを見てもニュルンベルク裁判の扱いとは大違い、
ほんの数行のみでほとんど何もわかりません。
本作は裁判そのものではなく、裁判に至るまでを細かく描いた作品です。

信じがたいことですが、ヨハンが捜査を開始した当初、
ヨハンを含む若者はアウシュヴィッツが何なのかまったく知らず、
戦争経験者であってもただの保護収容施設だと思っていた人がほとんど。
実際に強制収容されていたユダヤ人でなければ、事実を知らない。

アウシュヴィッツの生存者から聞く話は想像を絶します。
特に医師ヨーゼフ・メンゲレがおこなっていた人体実験には、
『ムカデ人間』(2009)を地で行く奴がいたのかと呆然としました。
諸説あるようですから、映画で語られる内容のみを信じてはいけないのでしょうけれども。

ヨハンの捜査に対して、どうして蒸し返すんだと言う人が大半。嫌がらせも受けます。
しかし、ホロコーストに関わった親衛隊員を自国で裁くことに意味がある、
そうしてこそ自国が前に進めるのだと考える検事総長。
大量虐殺が起こる過程に『ルック・オブ・サイレンス』(2014)を思い出します。

被害者にとっては有罪か無罪かだけが問題なのではありません。
妻子を失い、死ななかった自分を責めつづけながら生きる被害者たち。
ただただ見ているのが辛くて、涙が溢れそうになりました。

「息子たちに、父親に向かって人を殺したのかと尋ねさせる気か」という検事正に、
「それこそが狙いだ」と答えるヨハン。
「戦争が終わったときに、恥ずかしい人間になってはいけない」。
そんな『少年H』(2012)の言葉も思い出します。

8,000人の容疑者のうち、居場所を突き止めて出廷させることができたのは20人足らず。
それでも、国民が事実と向き合ったこの裁判は大きな意義あり。
派手な演出なく、一歩まちがえば退屈だけど、心に強く残る作品でした。

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