雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

中学・高校・大学 私の学生時代  その3

2021-03-18 07:15:13 | 自分史

★ 高校からは『学区制』で地元の明石高校に転校した。
 当時の明石は『明石高校』と女子高だった『明南高校』があったのだが、
 なぜか問題なく『明石高校』への転校だったのである。

 それまで神戸までの通学に比べたら
 圧倒的に近くなったし、家からの距離も1キロほどだから、
 歩いて20分ほどで通学できるようになったのである。

 こうしてみると明石高校は明石の北の端なのである。
 この地図を見ると『変わるものだな』というのが実感である。
  当時は、この地図に現れる通学路から北側は家などなかったし、
 その南側も家は建ってはいたが10分の1ほどで、
 殆どが空き地だったのである。


 


 当時の野球部の練習は明石公園でやることも多くて、
 上の地図の左端にある野球場までずっと放課後通っていて、
 その時はやはり通学路を通ってさらに明石公園の中を抜けていたのである。

 明石高校では毎日教室には出ていたが、教室以外で勉強することは殆どなかった高校生活だった。

 これは神戸一中時代とは大違いで、勿論勉強のできる生徒もいるのだが、
 勉強は嫌いという生徒もまたいたのである。
 そういう意味では、私も『勉強ができる生徒』の範疇にはいて、
 勉強はしなくても、特に問題があったわけではなかったので、
 非常に気楽な高校生活を送っていたのである。


★ 中学時代も高校時代も『気楽な学生生活』を送っていたのだが、
 それは私の『気楽な性分』がそうさせたので、
 家庭環境はそんなに気楽でもなかった筈なのである。

 戦後引き揚げてきて爆撃で焼けてしまったが、
 その屋敷跡は3000坪ほどもあったので、伯父も父もそこに家だけは建てたのである。
 父は私が中学時代は神戸で会社を立ち上げてはいたが、
そんなに大きな収入があったとも思えないので、
我が家は引き揚げてきた時母が隠して持ち帰った指輪を売って建てたなどと言っていた。

 ちょうど高校に入るころに父が『脊髄カリエス』で寝てしまって、
 高校3年の時も病状は変わらなかったので、ほぼ大学進学は諦めていたので、余計に勉強はしなかったのだと思う。

 今思うと高校時代、父は寝ていたから勿論収入はなかったのだが、
 どのように生計を立てていたのかは、はっきり解らない。
 多分、同じ敷地内にいた伯父が面倒を見てくれたとは思うのだが、
 その伯父とて戦後は無職だったから、多分3000坪ほどあった上の丸の敷地を売り食いしての生活だったのである。

 当時はまだ健康保険制度などは整備されていなくて、
 父の治療にいるマイシンの注射が1本1000円もして、上の丸の土地が当時1坪2000円ぐらいで売れたので、
伯父がそれを売りながらの生活だったのだと思う。

 然し高校時代に、そんな金の心配などは一切せずに学校に通っていて、
 学校では勉強などはせずに『野球一筋』の生活だったのである。

 そんな父が私が高校3年生の時の1月2日に突如亡くなってしまったので、
 伯父が『もう金が要らなくなったから、お前は大学に行け』ということになって、
 それから大学受験の真似事みたいな受験勉強をしたのだが、
 受験したのは当時の神戸商大1校だけで、
 その年の入試の倍率が16,5倍もしたので『通る訳がない』と思っていたら『通ってしまったのである

 そんなことで、私の高校時代、勉強をしたと言えるのは、
 この最後の2か月間だけなのである。
 父は『私を大学にやるために』そのぎりぎりの1月2日に死んでしまったのかなと思ったりもするのである。


★ バブルの時には1坪100万円とも言われた『明石上ノ丸』の土地なのだが、
 当時は土地にそんな値打ちを感じなかったし、
 土地を手放すことにもそんなに気にしなかったのだと思う。
 明石公園に隣接した上の丸の一等地
 これくらいの広さだったのだが、今はこんな住宅地になっている。

 因みに ここは私の生地で本籍でもある。
 『明石市上ノ丸2丁目720番地』などと言う番地は今では存在しないのだが、
 私の本籍として戸籍上だけは残っているのである。

  
 
 
 隣の自転車競技場も高校生の頃競輪場として、
 堀を埋め立てて造られたのである。
 その堀はかっては外堀として上のほうまで続いていて、
 こどもの頃は庭から降りて鮒釣をよくしたもので、幾らでも釣れたのである。

 当時はこの辺り数軒の家しか建っていなくて畑が多かったのだが、
 日本も変わってしまったものである。



★ そんな時代環境の中での高校生活だったのだが、
  神戸一中とはまた違って、なかなか楽しくオモシロい学校ではあったと思っている。
 
  転校して直ぐ野球部に入部したのだが、
  その前年甲子園の春の選抜に出場したのが神戸高校明石高校の2校だったのである。
 当時の明石高は 山本治ー大津淳という最高のバッテリーで実力的には一番強かった時代だと思うのだが、
夏の大会では準決勝で芦屋高に負けてしまったのである。
 山本治さんはその後慶応大学で朝日スポーツ賞に輝き、鐘化でも活躍された。
 大津淳さんは関大・日生さらに全日本すべて4番を打って、
 阪神タイガースに入団されている。

 野球部に入った1年生の時は、そんなチームだったが、
 私と同期では溝畑圭一郎が同じように学区制で明石に転校してきたのである。

 その後の明石高校の野球部も夏の甲子園に出場したりするのだが、
 その中心になったのが溝畑投手なのである。
 野球は何としても『ピッチャーがいい』とそのチームは強いのである。

 これは2年生の時、兵庫県で優勝して甲子園に出た時の
 『溝畑投手の新聞記事』だが、

 この兵庫県の予選では灘高校を相手に『完全試合』も記録しているのである。

  


  
 そんな環境の変化の中での高校生活だったのだが、
 その殆どは『野球部の生活』の想い出ばかりなのである。

 
 
 





 
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