雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

中学・高校・大学 私の学生時代  その7

2021-03-27 07:01:26 | 自分史

★ 神戸高商からスタートし、神戸商科大学となり、
 今は兵庫県立大学となっている長い歴史を持つ野球部だが、
 2019年12月8日には『神戸ほっともっと球場』を借り切って、
 創部90周年イベントを盛大に行ったのである。

 
 

 70名を越すOBたちが集まったのだが、
 私が入部したころのマネージャーで2年先輩の多田和昭さんが一番旧く、
 (前列左から2番目)
 二番目がが私だったのである。
 
 


 当時86歳だったのだが、
 私は生まれて初めて『テイー・バッテング』なるものを経験した。
 結構、ちゃんと打てたから、不思議である。

 


 私たちの現役時代は、『ティ・バッテング』もなかったし、
 『金属バット』も、『ヘルメット』さえなかった時代の野球なのである。
 100周年は96歳である。 何とか出席できるように頑張りたい。


★ところで自分史に戻って、
 現役時代一生懸命練習はしたのだが、
 お世話になった運動具店の借金が10万円も溜まって、
 そのまま卒業するわけにもいかず、何とかその借金返済を考えたのである。

 当時は学生主催の『ダンスパーテイー』もよく行われていたのだが、
 大体が300名程度の規模で当時の入場料は100円が相場だったから、
 そんな規模ではどうしようもないのである。

10倍ぐらいの規模のダンスパーティー』が出来ないか? と
私なりに起案』したのである。
 ちょっと無茶なようにも思われるかも知れぬが、
 いろいろ考えると『何とかなる』ものなのである。
 『高い目標』を掲げそれに『戦略的に挑戦する』ことは、何となく私の身に付いていて、
 これは事業家であった祖父や伯父からのDNAかなと思ったりする。
 人生で多くの催し物の主催をやる機会があったが、
 これがその『最初の催し物』なのである。
 兎に角『2000枚の切符を売ろう』とその企画を始めたのである。

 『2000枚の切符を売る』ために、
 その年開場したばかりの『神戸国際会館』を選んだのである。
 会場費も高かったが、それ以上のネームバリューがあり、
 2000人が踊れる会場の広さは『神戸国際会館』であったゆえに可能だったのだが、それでも一つでは無理で、隣のホールも借り増ししたのである。

 一口に2000枚というが、これはなかなか大変で、
 野球部の借金返済が目的なので部員には野球以上にはっぱをかけたのだが、
 私は当時ダンスにも凝っていて、明石のホワイト・ローズでは教師の真似事などもやっていたので、私自身の人脈でも相当数のパーテイ券を捌けたのである。

 このパーテイーの収支が日記帳に挟んであった。

 

  
  ご覧の通り現役も頑張り、OBや体育会の協力が得られたのも、
 『神戸国際会館』というだけで販売しやすかったのである。
  当日の入場券売り上げも140枚もあって、 
  TOTAL 204,000円の収入があり、見事10万円の利益を計上している。
  計画通り、運動具店の借金はほぼ支払うことが出来て目標達成だった。

 
 そのパーテイ券のデザインである。
 ちゃんとデザイン料も払ってまともなものに仕上げている。
  
   


 
 裏面にその内容が記載されているが、
 三つの運動具店の後援も取り付けているのである。





 『峰本運動具店』は中京ー明石のあの25回戦の時のショートだった明石高校の先輩の峰本さん経営だったので、
無理を言って本当によく面倒を見て頂いたのである。


★ 大学時代、勉強は殆どしなかったのだが、
 こんな野球部関連のお付き合いは、
 その後の人生でも大いに繋がっているのである。

 特に私は2年上の先輩の方々には、本当によく面倒を見て頂いて、
 それは社会に出てからも延々と続いていたのである。
 2年上の主将が太田武郎さんでマネージャーが多田和昭さんなのだが、

 つい何年か前までは、こんな野球部のゴルフコンペでも、ご一緒だったのである。
 私の隣が太田さんで、前に印を付けているのが、多田さんである。

 



★太田武郎さんは、お兄さんが創立された『ノーリツ』の副社長をされていたのだが、
 創立者・太田敏郎さんは、川重副社長を務められて、私の長年の上司であった髙橋鐵郎さんとは海軍兵学校の同期で親交があったのである。
 さらに不思議なことに娘婿の門野匡秀はノーリツで若くして労働委員長をやったり、ノーリツがアメリカ進出をした時は、最初のメンバーで渡米したのだが、
当時カワサキの現地販社KMCのメンバーたちが、いろいろとお手伝いなどもしたのである。
 娘婿は現地に留まって今もアメリカにいるのだが、
そんなこともあって、太田武郎さんはゴルフの度に『門野のこと』を聞いて頂いたりしたのでだが、
 ほんとに突然に亡くなられてしまったのである。

  高校時代の野球部の連中ともずっと親交があったのだが、
残念ながら、みんな先に逝ってしまって、ホントに残りは少ないのである。

 上の写真の『淡水野球ゴルフ会』は昨年はコロナ禍で中止だったが、
 今年は5月13日に播磨カントリーで1年半ぶりの開催のようである。
 まだ、ご返事は差し上げていないのだが、
 『出席しようかな』と思っている。

 前回1昨年秋のコンペでは、後輩たちを差し置いて
 『優勝』させて頂いているのである。

 


  その舞台となる『播磨カントリー』はかってのメンバーコースで、
 コースはよく解っているので、
 今年からは『エイジ・シュート』でも狙おうかなと思ったりしているのである。

 
★学生の本文である勉強については神戸一中の2年生までは頑張ったのだが、
 それ以降は、『野球一筋』と言っていい学生生活ではあった。

 いろんな目標に挑戦したのだが、
 最後の『ダンス・パーテイ』は最高の出来で 
 その後の人生でも『大いに自信』に繋がっているのである。

 目標達成のための『戦略的な対応』については
 野球部監督時代に自然に身に付いて行ったように思うし、
 その最後のダンスパーテーでは、
 現役は勿論・OBたちも本当に協力頂いて、
 当時の学生たちがやっていたダンスパーテイーの『10倍の規模』での『成功』は私の学生生活の集大成出あったようにも思うのである。

 これをもって『学生時代の自分史』を終わり、
 あとは『こども時代の戦前の話』になるのである。

 『私の人生の基盤』は、この戦前に受けた教育と家庭環境の中で築かれたようにも思うのである。

 
 
 
 


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