雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

戦前の子供時代  自分史  その1   

2021-03-29 06:09:40 | 自分史

★ 88歳の今現在に近いところから、逆に若いほうに向かって書いてきた自分史だが、
 戦後の中学生からの学生生活を終わって、
 いよいよ生まれてから小学生だった『戦前の子供時代』に入ることになった。

 この世に生を受けてから小学校を卒業するまでの『こどもの頃』は、
 ちょうど大東亜戦争が終わる昭和20年までで、
 当時は日本であった朝鮮京城(今のソウル)にいて、
 それ以降の人生とは全く違った『異質の時代』を過ごしたのである。

 生まれ故郷は兵庫県明石市上の丸で、それは昭和8年(1933)3月なのだが、 
 3歳の頃には朝鮮太田市にいて、小学校に入学当時には既に京城府に移っていて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘という高級新興住宅地で、
 通った小学校は京城桜ケ丘国民学校だったのである。


★ なぜ、朝鮮などにいたのか?
  それは祖父・古谷虎雄が起業した『電気事業』を引き継ぐために朝鮮に渡ったのである。

  
  祖父・古谷虎雄のことにについては、
  ネットの中にもこのような記述で残っていている。

  
  

  
  そして、このように記述されている。
  
   


 更に こんな記述も残されている。

  


 
祖父・古谷虎雄は私が生まれた時は既にこの世にはいなくて、私は知らないのだが、事業家で一代で財を成したようである。
 早く亡くなってしまったので、伯父・古谷修一も若くして『太田電気』の社長になったようだが、
 その経営の実は、祖父時代からの重役陣や番頭さんであった竹内さんなどで実際には行われていたのだと思う。
 伯父はオーナー社長で明石に住んでいたので、
 その代わりに父が太田市の現地に赴いたのではなかろかと思っている。

 その太田電気は、昭和12年(1937)3月に朝鮮総督府の政策で、
 6社の電気会社が合併して『南鮮合同電気・株』となり、

 当初の本社は釜山に置かれたようだが、

  
 
 
 その後本社が京城(今のソウル)に移った時に、
 我が家も太田から京城に移転したのだと思うのである。


 南朝鮮の6社が合併してできた『南鮮合同電力株式会社』は、現在の日本の『各地電力会社』に相当する位置づけで、
 現在の韓国に相当する地域を担当した『大企業』ではあったのだと思う。

 その『南鮮合同電気』の経営陣は以下の通りなのだが、
 伯父・古谷修一オーナー副社長として経営陣に加わってはいるが、
 この時も伯父の居住地は兵庫県明石市だったので、
 年に何度かは京城府の我が家に来ていたが、
 その時の伯父の移動は、当時の新聞の『人事往来』に掲載されたりしたのである。


  

   
 以上が私の憶測も入ってはいるのだが、
 戦前に朝鮮京城にいた理由と経緯なのである。



★私は昭和8年(1933)3月に明石市上の丸で生まれている。
 ここは祖父の別荘だったところだが、父の新婚時代はここに住んだのだと思う。
 
 この写真に写っているのは、祖父・祖母・叔母など祖父一家なのだが、
 伯父も父も未だ多分早稲田の学生時代なのである。

  

  
 
 これは 明石市細工町20番地でここが住居だったのだと思う。
 今も『魚の棚』で有名だがあの辺りが細工町である。
 小学校時代にはここが私の本籍だった。
 伯父一家も私が小学校に入ったころはここに住んでいたのである。

 



★ これらはみんな祖父が残した遺産なのだが、
 祖父の偉業を偲んで、伯父は祖父の銅像を上の丸の庭園に建てていた。
 これがその『祖父の銅像』なのだが、
 私は子供の頃から、この銅像で祖父と対面していたのである。

 不思議に戦災からも免れて、これは今も少しだけ残っている明石上ノ丸の本家の一隅に残っているものである。


    




★ こんな経緯で、私の少年時代は京城(今のソウル)にいたのだが、
 父は何をしていたのかはよく解らないのである。
 兎に角、勤め人ではなかったし、と言って自分で事業などもしていない。
 どのようにして生計を立てていたのかも知らない。

 ずっと家にいて、好きな絵を画いたり、旅行に行ったりしていた。
 古谷家の次男なのだが、祖父の遺言で伯父と財産分けなどしていなかったようなので、
 何もしていなかったが『暮らしに困る』ようなことは全くなくて、
 まさに悠々自適の生活だったのだと思う。

 伯父の一家には当時は子供がいなくて、私が『古谷家を継ぐ』立場にあったからだと思うが、
 こどもの頃から伯父には『古谷家の総領』として育てられたようなところがあった。
 逆に、父は私に特に何も言わなくて自由に育ててはくれたが、
 金には何故か厳しくて『こどもは金など持つな』ということだけを私は覚えている。
 私は生来そんなことで『小遣いもお年玉も』貰った経験がないのである。


 
 これは私の3歳の頃のそんな父との写真である。
 ほかにもいっぱいあったのだと思うが、戦災で焼けてしまったし、
 朝鮮から引き揚げの時に持ち帰らなかったので、
 父と二人の写真はこれだけなのである。


  



  これも同じころの写真だが、
  この頃も、間違いなく『良家のぼん』のような感じである。
  
   
     



★ 母は岡山の出である。
  
 父は52歳で亡くなってしまったが、母は103歳まで生きて、
 戦後、私と妹4人を育ててくれたのだが、103歳まで長生きした。

 これは若い頃の写真だが、多分結婚後直ぐの頃だと思う。
 明治42年生まれの明治の女で確りしていたと思うが、
 私には何にも言われたりはしなかった。



  



 これは先の写真にもあった、明石細工町の伯父宅での写真だが、
 母に抱かれているのが私である。
 一番右は母の兄・楠見幸信ご夫婦で、真ん中は父の妹の叔母ご夫婦、
 そして本家の祖母と伯母、それに書生の方がいて、
 当家の主、伯父はなぜか家の中である。
 
 
 

 母は岡山・楠見家の出で、
 楠見幸信は次兄・慶応黄金時代・宮武・山下・水原の頃の一番センターで、
 昭和の初期の未だプロがあったのか、なかったのか?
 当時の全日本のメンバーで、戦後は国鉄スワローズの初代総監督なのである。


 これは、岡山の楠見家での写真である。
 祖父・楠見忠三郎も写っているし、母の長兄・楠見一正伯父もいるし、そのお子様も
 母の一番下の弟、昭三叔父も未だ子供時代である。

 母方の楠見家は男3人女3人の6人兄弟で、母は3番目で長女なのだが、
 男兄弟3人は3人3様、長男の一正伯父は学者大阪市大の教授をされていた。
 次兄の幸信伯父はパリパリのスポーツ選手なのに、三男の昭三叔父は、この時代には自転車にも乗れずに、ピアノなどが得意で今は建築家なのである。




 楠見家も朝鮮で『楠見組』という土木事業などをやっていたので、
 祖父はよく京城の家にも来ていたが、
 今の『おじいちゃんと孫』のような関係ではなくて、
 常に毅然としていたし、父と囲碁を打ってたのを私は横から眺めていただけである。


 これも岡山の母方の実家で、同じ時なのかどうか?
 まだ私は小学校前かも知れない。
 
 
        



 子どもの頃は、服装を見てもこんな感じで、
 私など結婚してから今まで、こんな父のような服装をしたことがナイのだが、 
 昔はこんな家庭で『ぼんぼん』として育てられたのである。
 少なくとも、こどもの頃の戦前の生活と
 戦後の中学校以降の生活とは180度違っているのである。

 いわゆる『お金持ち』の生活がどのようなものなのか?
 特に、私を可愛がってくれた伯父の生活は、
 父とは違って『派手だった』のである。
 それを子供心にどのように感じたのか?
 これらはまた次回に。


  
 
 

   

  
コメント
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