雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昔の父と今の父

2010-07-15 05:19:15 | 自分史
★私の父は、明治32年生まれ、昭和27年1月に52歳で亡くなった。
私が高校3年、大学受験をした年であった。

3年ほど、脊髄カリエスで寝ていたので、元気な父は私の中学3年生までである。
考えてみると、物心ついてから10年ちょっとぐらいが、父と接した期間である。

小学生のころは、
父と二人で話をしたりした記憶はほとんどない。
さらに言えば、父に遊んで貰った記憶なども皆無である。
小学校のころは、勉強は学校でだけ、夏休みなどは宿題があったが、普段は宿題などなかったように思う。
とにかく、学校から帰ると友達と毎日暗くなるまで外で遊んでいた。

遊ぶ相手は友達で、父に遊んでもらうなどは、思いもしなかったように思う。
父のそばにいなかったわけではない。
絵を描いてい父をずっと見ていたり、母方の祖父と碁を打っているのを横でじっと眺めていることは結構あったように思う。


★父と一番長く一緒にいたのは、京城から明石まで帰省する汽車や、船の中だった。

京城を昼に出て、夕方釜山。
船で夕食、翌朝、下関。
そして汽車に乗って夕方、明石という2日間の行程、帰りはその逆である。

6歳のころから、小学生の4年生ごろまで、夏冬、戻ってきていたから、ひょっとしたら父と対峙していたのはこの旅行中が、ほんとに一番長い時間であったかも知れない。
当時の汽車や船の等級は,1等、2等、3等の3段階に分かれていて、1等は汽車も船も5人ほどは十分には入れる個室であった。
汽車も最後尾が展望車になっていて、子供でも自由に行くことができたのだが、ここはホテルのロビーと同じ大人の世界であった。
旅行中父は『ちゃんとしていた』し、子供にも何となくちゃんとするように求めていたように思う。
何となく、それを感じ取って、子供ながら展望車などでは、行儀よく過ごしたような気がする。

口やかましく躾られたようなことはないが、俗に言う『父の背中を見て育った』のかも知れない。
外での父がどんなだったのかは知る由もないが、私の耳に入る父の評判は至極よかったので、知らず知らず尊敬していたのかと思う。


★そんな父だったが、私は父が好きだった。
自分が父の立場になって、息子とつきあった息子が小学生のころ、二人で魚釣りなどによく連れだ出したものである。
釣りもさることながら、道中、車の中での雑談は二人にとってよかったと思っている。

『男の子は、自分のことは自分で判断して決めろ』と言ったのが効きすぎて、
大学の進学も、
就職も
結婚も
特に結婚式は仲人もない人前結婚、9月28日は仏滅であった。結婚式場は借り切りの状態だった。
9月28日は息子の誕生日なのである。『結婚記念日を忘れたりしない』というのも理屈である。
これらすべて一切相談を受けることもなく、みんな決まってからの事後承諾であった。

父と私は、あまり話もしなかった関係であったが
私と息子とはその何百倍も話をしているが、もっぱらサッカーと釣りの話がほとんどで、学校の勉強の話など一切したことがない。

娘とは、子供のころは、私と私の父ほどの、話しかしていないように思う。
一度だけ話らしいことをしたとしたら、小学校の時のマラソンの走り方だけである。
娘は、マラソンに向いていたのかどうか、小学校からさらに中学の3年間、ずっとマラソンは優勝、トップを走りつづけた。
私は口だけで、マラソンは大の苦手なのに、不思議である。


★今、息子や娘婿の父親としての子供に対する接し方を見ていると、なかなか面白い。

息子の方は、子供は男の子一人なのだが、私のように連れ歩いたりはせずに、
自分の好きな釣りとサッカーに熱心で、あまり構ってやったりしていないようなのだが、
一人息子の孫は、私がほとんど遊んで貰えなかった父親をそれなりに意識したぐらいの関心は、持っているようである。

娘婿の方は、男の子3人兄弟で、女一人の娘が主人?のような家庭で、それはまた独特の雰囲気である。
アメリカで育っているからかも知れぬが、孫は子供のくせに親をちゃんと論評したりもする。
私などは、そんなことは子供のころは思わなかったし、仮に思ったりしても口に出したりはしなかった。


★父は、早く亡くなってしまったが、せめて私が成人するころまで、生きていてくれたら、それなりに、まともな話も出来たのにと、

私の人生に若し悔いがあるとすれば、『父と話が出来なかった』 その一点だけである。
でも、私は数少ない父との話を忠実に守っている。

戦後、中学1年生で引き揚げてきて、翌年神戸1中の1年に、なぜか無試験で入学できた。
『無試験で入っているのだから、勉強せえよ』と父が言ったので、
伯父や父の顔をつぶさぬようにと、本当にそう思って勉強した。
中学以降、勉強して成績がよかったのは、このときだけである。

『男は、うそついたらいかん』、これも何となくつぶやいたような言い方だったが、忘れず守っている。
伯父からは、士族の話や、家のことを散々聞かされた。
父は一言もそんなことをあからさまには言わなかったが、数少ない忠告だったので、よく覚えているのかもしれない。

★『私の父』、『父としての私』、そして『父親真っ盛りの息子や娘婿』。

みんなそれなりに、生き方はいろいろと違うが、同じ親子でも 『父と男の子』の関係は、独特で貴重である。
長く、話が出来ること、それ自体が幸せであると思う。
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