雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の日記から 昭和51年(1976)~昭和53(1978)

2023-12-29 07:31:12 | 自分史

★前年の10月1日から川崎重工業単車事業本部企画室企画部に10年振りに復帰はしたのだが、
 名称は仰々しいのだが、やっている業務は大したことのない管理業務が主体で大して忙しくもないのである。
 ただ、会社の部門としてはエリートが集まる所謂『いい部門』であることは間違いなかったのである。

 当時、従来のアメリカ市場の大・中型のバイクに陰りが見えたし、
 国内市場ではホンダのロードパルが話題になって、一種の小型車ブームの時代であった。
 そんな時代背景もあって、効率的な生産設備をベースに
 小型車モペットの大量生産を目論んだ計画が進行中で、
 これを主導されていたのは本社の吉田専務と生産管理部だったのである。

 ただ、販売面の検討が抜け落ちていて、このまま進むと危ないと思ったのだが、
 本社の専務が主導されているので、直接反対もムツカシイので、
 小型車に関する考察』と言う一文を策定し、



  
 
 東南アジアのCKD事業なら大掛かりな製造設備投資など不要なので、
 市場調査を」と東南アジアの調査団を立ち上げたのである。

★この調査団は技術本部長の高橋鐵郎さんが団長で、
 開発・製造・営業からのメンバーを集め、
 まとめ役を言い出しべえの私が担当して、
 東南アジアを中心に約1か月に亘り、こんなルートで
 台湾-インドネシア―タイーイランーマレーシアーフィリッピン
 広大な地域の市場調査を行ったのである。

  
  
  
  各国の現地での販売状況や、当時の二輪車生産状況などの調査を行ったのだが、
  ホンダ・ヤマハ・スズキなどは既に進出していて、そんな工場も見せて頂いたりした。
 現地では既にバイクブームでインドネシアやタイのバンコックでは
 二輪が道を溢れるようにいっぱい走っていて、
 そんな情景を見るだけで『CKD事業進出』はGOだったのである。
  さらに、各国とも各メーカーの生産機種に限定があったから、
  後発メーカーでもその競争条件が緩和されていて、
  進出しやすい状況であったことは間違いない。

  各国の地方の販売店まで回ったので、これらの国の状況がよく解ったし、
  なかなかの観光旅行のようなところもあって楽しい旅だった。


★ただ、イランはまだ王政時代だった時代で、
 テヘランから南部のシラーズのほうまで行ったのだが、
 都会以外は全く緑のない砂漠で異様な光景なのである。

  

 
 回教徒のイラン人の発想も特異で、 
 テヘランからサヴエィには飛行機で行ったのだが、
 帰りの航空機が突然飛ばないというのである。
 『いつ飛ぶのか?』と聞いても『解らない』と言う答えで、
 ひつこく聞いたら『そんな先の話は神様の分野だ』と仰るのである。

 仕方がないので2台のタクシーに分乗してテヘランまで戻ってきたのだが、
 その道は真っすぐだが、本当に砂漠の中を走ってきたのである。
 ただ、テヘランは大都会で緑もいっぱいなのだが、
 1日に何度か山の方から水が流れてくる仕組みなのである。 

 ペルシャの市場も見てきたが、物品の値段も交渉で決まるなど、
 さらには神様への御祈りの時間があってその時間なると、
 やっていた会議など中断なのである。
 日本では考えられない世界で、おかしな国だと思ったが、
 世界でいえば、日本人よりは回教徒のほうが多いから
 『日本人の発想』のほうが特異なのかも知れないと思ったりもした。

★ こんな東南アジア調査団だったのだが、
 数か月後には市場開発プロジェクト室という新組織が出来て、
 団長だった高橋鐵郎さんが室長を兼務され、私も担当課長として異動することになるのである。
 そんなことで企画室企画課と言う非常にいいとされる部門をたった1年で自ら飛び出すような結果にはなったのである。

 市場開発プロジェクト室では、イラン・タイ・インドネシアの3か国を中心に、
 現地資本とのジョイントベンチャーを組んでの事業展開になったのだが、
 イランはその後の革命でダメだったが、
 その他の東南アジアのCKD事業は順調に推移して、台数もどんどん伸びて、
 市場開発プロジェクト室は通常の東南アジア営業部と発展して、
 最初にあった『モペットの小型車開発プロジェクト』はいつの間にか消滅してしまったのである。

 この期間、現地とのジョイントベンチャー・プロジェクトを主として担当したので、
 タイやインドネシアへなどへの海外出張も多く、英語を話すことにはなるのだが、
 英語など話したりしたのは最初の経験だった。
 ただ現地の人達も母国語ではなかったので、そう言う意味では気が楽だったし、
 タイなどでは相手が華僑なので、漢字の筆談も通用したりしたので、大いに助かったのである。

英語など全く話したこともなかったのだが、
 CKD事業と言う職場環境に出会って、話さざるを得ない環境に追い込まれたものだから、
 学生時代以来英語の勉強もしたし、私の日記も日替わりで英語で書くようにもしたのだが、これはその後数年間続いたのである。

 そう言う意味ではよく頑張ったとも言えるのである。


  

 
★この時期、会社ではこんな時期だったのだが、
 家庭では息子が中学生時代で、
 小学生の頃に始めサッカーにハマっていた時期で、
 三木は結構サッカーが盛んで、小学生時代も兵庫県で三木選抜優勝したし、
 緑ヶ丘中学校でも兵庫県大会で優勝したりして、
 兵庫県選抜にも選ばれたりもしたので、
 私自身もその追っかけに、忙しかった時代なのである。

 まだ、Jリーグもスタートしていない時期だったから、
 今のようにサッカーも盛んでもなかったのだが、
 あの釜本がヤンマー時代で彼の全盛期時代だと言っていい。

 私も40歳代の前半だったし、
 この時代の日記を読み返してみると
 公私ともに多忙だったが、なかなか楽しいいい時代だったのである。


  
 

  
 

 

 
  
 
 
 
 
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