雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の日記から 昭和58年(1983)~昭和60年(1985)

2024-01-28 05:49:09 | 自分史

★ この3年間は大庭浩本部長時代である。

 昭和58年年7月1日付で、
 再建屋と呼ばれていた大庭浩常務単車事業本部長として乗り込んでこられたのである。
 この3年間、私は大庭さんの番頭役としての職務を果たしたのである。

 大庭さんに対する周囲の評価は『めちゃめちゃ怖い』と言うのが一般的だったのだが、
 確かにそんな面もお持ちではあったが、大庭さんの3年間の単車本部長時代に私は一度も怒られたことはなく、絶大の信頼を得ていたのである。
 
★ 7月1日に来られるなり指示があったのは、
 「単車事業本部の意志決定と報告のシステムを図示説明せよ」というもので、
 それに対しての回答がこの1枚にこのように纏めて、
 
 


単車事業本部(概要説明)をこのような8項目に纏めて、ご説明したのである。




大庭さんとの初めてのこの3時間で『大庭さんの信頼』をまず得られたと思う。
 
★ 確かに事業業績は悪かったのだが、世界に独自の事業展開をしている海外事業を視察されたりしたのだが、
 恐い』と定評のある大庭さんに対しても、ズケズケ自分の意見を言う単車の風土を気に入られた節があって、
9月には『単車は意外に確りしている』との評価を頂いたりするのである。
 当時の単車事業本部はアメリカのKMCが毎年100億円を超える赤字で、そんな対策から川崎重工業本体も無配となる大変な時期だったのだが、
 前年10月からの半年間の対策で、先ず海外販社の赤字は止まり、事業本部の赤字も何とか目途が立つた、そんな時期に大庭本部長は来られたのである。
 そう言う意味では『いいツキ』を持っておられたなと思っている。

★私自身は当との時の山田副社長から『KMCの赤字は止まると思う』との質問に対して『直ぐ止まります』と答えたものだから、
それならお前が企画をや』と国内販社から川企画に連れ戻されたのだが、
それから半年の対策で海外販社の赤字は既に止まっていたのである。
 私は当時まだ新任部長だったのだが、山田副社長とはずっと以前の若いころのレースで関係があったし、もうお一人の大西副社長とは国内販社再建で密接な関係で、お二人の副社長に絶大な信頼があったのである。
 大庭本部長はそんなお二人の副社長推薦で単車に来られることになったのだが、大西副社長からは『大庭君をよろしく頼むな』とのお言葉も頂いたりしていたのである。

★当時の私の直接の上司は高橋鐵郎さんで、一番問題であったアメリカのKMCは田崎雅元さんが社長をしていたのだが、
大庭本部長の番頭役を私が担当し、高橋・古谷・田崎のトリオで大庭体制を支えたと言っていい。 

 当時の写真もいろいろあるのだが、
 これらはみんな田崎さんが私に送ってくれたものである。
 これは山田・高橋・田崎さんだし、


  

  こちらは大庭さんを囲んでの3人である。


   


★この大庭本部長時代の一番大きな出来事はアメリカのKMCの新社屋建設かも知れない。
 KMCはこの時期サンタアナに本社があったのだが、手狭だったので技術関連は別社屋などあちこちに分散していたのである。
 この本社の土地・建物を売却したら、隣町のアーヴァインに広大な土地が買えたので、そこに本社を移し、分散していた技術関連なども統合したのである。
 このプロジェクトはまだKMCに累損も残っていたので、時期尚早と反対論もあったのだが、これが実現したのは当時の大西副社長の推薦があったからで、
この写真が、大西副社長にその候補地をお見せした時の写真なのである。


  
 




★ 大庭浩本部長は3年間事業本部長を務められたのだが、
 再建なって川重専務で本社に戻られ、その後、川重社長を務められたのである。 
 単車での3年間で、単車事業の本質もご理解になり、
 単車事業のある意味真のファンになられたと言ってもいい。
 川崎重工業の中で単車事業がその中枢の事業として認められるようになったのは、
 大庭本部長が川重本社に戻られてからだと言ってもいい。
 
  

    

  
それ以降、当時単車事業本部の企画室長をされていた高橋鐵郎さんは、川重副社長になられたし、
KMC社長だった田崎さんは、川崎重工業社長になられるのである。
私自身のことでいえば、私の川重での最終職位は技監なのである。
技監とは役員待遇であるのだが、技術屋さんの博士号などをお持ちの方などの専門職位だったのだが、私が初めての事務屋の技監なのである。
大庭さん曰く『お前は専門のマーケッテング分野では技監に値する』と言って頂いたのである。
 そう言う意味で、私は大満足の技なのである。  


    

  
 カワサキの単車事業にとって、
 この大庭本部長時代の3年間は、非常に大きな意味を持つ3年間だったと言っていい。

 
  

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