雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和63(1988)年10月 新しい職務についた 55歳

2011-08-30 05:38:52 | 自分史

★この年の10月、3度目の国内担当になった。

1回目はまだ30代の若いころから10年間の出向で、地方の代理店管理も、都会の大市場の第1線も経験した。

2回目は、国内グループの赤字脱却に加えて累損消去の経営対策であった。

3回目は、急激な円高から輸出主体のカワサキの事業構造からも国内の強化拡大は事業の構造改革上MUST条件だったのである。

そんな国内市場を担当するカワサキオートバイ販売の専務としての就任なのであった。 社長は事業本部長の高橋鉄郎さんの兼務で、高橋さんとは生涯幾度目かのコンビを組むことになるのである。

国内強化のための目標7万台の販売は、以前からずっと組まれていたのだが、全体の中大型車の市場が縮小する中での拡販はそんなに簡単ではなかったのである。

そんな表面の目標とは別に、高橋さんとは国内市場から得られる事業本部の限界利益額を100億円まで拡大しアメリカと並ぶ主力市場とするなどという非常に難しい課題をお約束しての就任だったのである。 事業本部の完成車担当も兼務だった。

 

★55歳という年齢から言っても、この大きな目標を持っての担当は、最後の会社での仕事になると思ったし、目標実現のための基本方策は自分自身で明確に設定すべきだと思ったのである。

就任が10月1日ということもあって、この年残る3ヶ月の間にその明確な方向付けを確立しようと思った。

7万台という目標達成に自信があったわけではないが、7万台を達成するための基本コンセプトは自らが創ることだけは決めていたのである。

カワサキの国内市場は、かって経営の赤字体質からの脱却という命題に対策した過去の経緯から言って、非常にきっちりとした体質になっていたのである。それ自体も自分がその基礎を造ったので、長所も欠点もよく解っていた。 国内市場を私以上に熟知している人ははいない、それだけは自信があったし、トップである自分で判断せざるを得なかったのである。

そのままの構造体質ではとても7万台などの目標など夢のまた夢だと思ったのである。

損益重視の堅苦しい経営から、

『自由奔放なイメージ戦略を基盤とした、新しいカワサキのイメージ展開が必要』 だと思った。

その仕組みの骨格を12月までの3ヶ月の間に確率するということでスタートしている。

 

★10月1日に就任して、警察庁や銀行筋などの挨拶もそこそこにまず最初に手掛けたのが、

カワサキファクトリーチームの創立25周年記念のOB会の開催が、最初の仕事だったのである。

10月15日、芦屋のジャイアンツの定宿で有名な竹園旅館(当時の名前)で一泊どまりで、豪勢に開催したのである。

カワサキのレースの黎明期を支えたメンバーが、まさしくカワサキの二輪事業も支えたのである。もっと大げさにいえば後川崎重工業をを支えたといってもいい。

この写真に写っているメンバーは、兵庫メグロの西海さん、川重の副社長を引退したばかりの山田さん、当時は事業本部長で後川重の」副社長を務められた高橋さん、私や田崎さんの上司でもあった苧野さん、カワサキ最初の青野ケ原のモトクロスを引っ張った中村さん、

Z1の開発責任者でもあり初代ロードレースの監督も務めた大槻さん、私の横は川重の社長も務めた田崎さん、その横が有名な平井さんなどなどである。

ライダー連中も、創成期の、ロードは安良岡、和田、金谷、モトクロスは山本、歳森、岡部、梅津、OBライダーの末席が星野、清原という豪華メンバーで、東京から何社も取材があったのである。

星野は4輪ではまだ現役パリパリの『日本一早い男』と言われていた頃なのだが、この写真でも最後尾に写っているのは如何にも星野らしい。

現役ライダーとしては宗和、多田などが出席している。 

この人がいなかったらカワサキのレースも、F21Mも世に存在していない。設計図もなく勝手に造り上げた名メカニック松尾勇さんもいる。

 

みんな、私の誇るべき仲間たちなのである。

(もう20年以上も前のことで、故人になられた方もいらっしゃる。心からご冥福を祈りたい。)

 

★翌月11月には、建設中のサーキットSPA直入の運営にかこつけて、末端ユーザーとダイレクトに繋がる、ソフト会社株)ケイスポーツシステムの設立について動き出している。

いつも難しい仕事には常に片棒を担いでくれた南昌吾君が担当、それを支えてくれたのが、いまNPO The Good Times の副理事長をしてくれている渡部達也君であり、経理を担当してくれている吉田君である。

この7万台の挑戦に時代の核は、ケイスポーツシステムだったのである。

このソフト会社がなかったら、多分目標達成は難しかったと思っている。

『遊び半分ではいい遊びは出来ない』と会社を設立して遊びに挑戦した。

 

当時既にKAZE はあったのだが、熱烈なカワサキ販売店のメンバーがその熱烈なカワサキファン2000名ほどで形成されていた。

12月15日に、有馬温泉中の坊瑞苑でKAZEの全国会理事会を販売店の理事さんをを集めて開催している。

中の坊瑞苑は、有馬の最高級の旅館である。

子ども連れは泊めてくれない。普通で泊ったら10万円近くするのかも知れない。ここはカワサキチームフランスなどで知られたカワサキフランスにいた伊藤忠の人の実家で、幾らか安くしてもらったが、それでも相当の出費だったのである。

ここで何をやったのかというと従来のKAZEの組織の解散会をやったのである。

熱烈なカワサキファンばかりを何人集めても、拡販にプラスになったりはしない。「カワサキを買うな」と言ったら困ってしまうような人たちばかりなのである。

新しいKAZEの組織は、新しい組織のソフト会社が担当して、少なくとも万の会員を集めようとしたのである。そのためには、今までのファンクラブKAZEは発展的に解散せざるを得なかったのである。

集まっていたメンバーは、大阪の吉永さんや、仙台の服部君など私の個人的に親しい人たちばっかりだったので、今までの努力や苦労に報いるためにも最大限のもてなしをしたかったのである。

みんな旅館の素晴らしさや料理のすごさにビックリして何の文句も出ないままに終わったのである。

 

★こんな遊びだけではなしに、もう1点翌年度の価格体系を全く新しいものにした。これも業界初めてのようなオモシロイものにした。

この検討は富永、森、谷沢君などのカワ販の頭脳軍団が機能したし、1月1日からの人事組織も決定した。

私自身は、今後の拡販の核になるジェットスキーの専門会社KJSの社長や、ケイスポーツシステムの社長は兼務することにした。難しいところは全て陣頭指揮の体制をとったのである。

たった3ヶ月だけだったが、やろうとしたことは100%出来た。

カワ販グループの全員の意識も100%変わってきたと言っていい。

準備段階は、本当に上手く行ったのである。

 結果は最高に上手く展開したのである。

 数年後、こんな冊子にまとめられて英文も創られて世界のKawasaki に配られたし、当時の川重の大庭社長以下全役員にも配られたのである。

この講演会を起案されたのは高橋さん、講演を担当したのは私と、ケイスポーツシステムの南君、レースのチームグリーン監督重本君、そして広告宣伝担当の小林君。

この冊子を造ってくれたのは岩崎茂樹君など7万台販売の達成を支えた人たちである。

 

またいつかこの冊子の内容は、ご披露する機会があるかも知れない。

まさに当時のグループ経営の中身が集大成されたものに仕上がっている。

私のほかに、3人が喋ったが、事前に一切の打ち合わせなどしていない。ぶっつけ本番だったのである。

本人に自由に喋らせて大丈夫という自信があった。 それくらい基本コンセプトについては徹底されていたのである。

副題にあるように、『新しいカワサキのイメージ戦略』が主役なのである。

 

 

★20年以上も前の話だが、引退した今も同じようなことを考えている。

NPO The Good Times は、この年創ろうと計画した株)ケイスポーツシステムのシステムをネットを利用して更に発展させたシステムである。

 

今週9月1日には、孫文記念館の関係のファンクラブについて、今回理事長になった田崎さんと組んで、久しぶりにオモシロイことをやろうとしている。

今の目標は、『新しい公共』である。

20年以上経っても人の発想は変わらない。

孫文記念館も、三木社会福祉協議会の『NETラーニングバー』もこの当時と同じテンポで動きだした。

 

異種、異質、異地域をみんな繋いで楽しい時を繋ごう。

世界が繋がっていけばオモシロイ。

 

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