雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和35年、1960年 IBMでの機械化そして入院

2010-11-25 06:11:43 | 自分史

★昭和35年、1960年は黄金の1960年と言われたらしい。  覚えてはいないが日記にそんな記述があった。

 

川崎航空機の明石工場も工場新設ラッシュで、幾つもの新しい工場新設が進められていた。

単車も本格的な一貫生産に入るべくモペット工場が新設されたり試作車が出来たりした年度である。  職制としてはまだ、『単車準備室』と言っていた時代であった。

そんな中で、私自身は財産課の籍で、34年度からの事務機械化、IBMによる償却計算の機械化推進プロジェクトにハマりこんでいた年である。

他に何かあったとしたら、

家内との交際も続いて、これも熱心であったし、

養成工の国語の先生も一生懸命勤めている。

今まで他の人に比べて間違いなくいろんな職務なり肩書きは経験した方だとは思っているが、教室で生徒を教えて『先生』と呼ばれたのは、この時期だけである。試験の採点もしたり成績もつけたりして、ホントの先生気取りであった。

これも貴重な経験ではあったが、この年は何と言っても機械化に明け、機械化に終わったといっていい。

 

★決算期になると、毎日何人もの課員が当時のタイガ―計算機を文字通り手動で回し続けるのである。全くの単純計算なのだが、私が担当していた工具器具備品などは件数が3000点に近く、その計算をやり続けるのが決算期の仕事なのである。単純で量が多いので事務機械化には格好のテーマであった。

会社全体もいろんなことに改善の意識は高く『改善掛』などが企画室の中に設置されていた時代である。

前年度に、世の中一般に使われだしたナショナル会計機などの検討をしたが、最後に検討したIBMは、当時の事務機械化の機械などとは桁違いの比較にならないほど素晴らしいものであった。

ただ、日本にはどこの会社にもIBMなどはなかったのだと思う。日本IBM社が設立されていなかった時代だから、IBMのノウハウなど、米空軍が駐在してジェットエンジンのオーバーホールをしていた、川崎航空機にだけ備わっていたのだと思う。

そのときのIBMは、まだパンチカードシステムの時代で、日記の中にそのカードを見つけたので、

exciteのブログの方にその写真を掲示しておいたので、50年前のIBMのカードシステムがどんなものか、興味関心のある方はご覧下さい。機械化に関する具体的なことも書いています。

 

★1月末に当時の部長に概要説明をして了承を貰い、2月に計画書の策定をしている。

同じやるなら本社も、岐阜製作所も巻き込んでぜんぶ統一したものにしようと、大きなことを考えたので、その調整が結構大変であったが、何度も調整会議を開催しながら、全社統一システムとしての完成をみたのである。

若くても何とかなったのは、誰も他には経験のないことだったので、議論になっても間違いなく当方の言う通りになってしまうのである。

財産物件名のコード化が一番難しかったが、何とかやり抜けた。

これは量もあったが、基本的に独りで考えられたので自分が頑張ればよかったのである。  マスターカードが完成して、それにパンチで穴をあけてカードを完成させるために『連絡票』さえ書けば、パンチはIBM室で、計算は機械やってくれるので、財産課は連絡票さえ作れば、あとは出来上がった計算書を受け取るだけでいいのである。

翌期は同じ計算の繰り返しだから、新規購入物件以外は何もしなくてもいいのである。

9月期の中間決算には、間に合って何とかなったのである。

明石市役所の固定資産税の計算も、そんなに難しくはなかったので、川崎航空機分は市役所の計算分も一緒にやってあげるようにしたりした。

 

★私は、仕事をやりすぎたのか?  胸に空洞がある身で、何年間も野球を続けていたりしたのがいけなかったのか?

この年の10月26日、このプロジェクトの第一段階を仕上げたのち、三田の療養所に肺結核で入院することになったのである。

中学校からずっとやっていた野球も、この年27歳で終わっている。

野球の話で言えば、国内のバイクやジェットスキーの営業を長く担当して、この世界ではご存じの方も多い藤田孝昭君とは、同じ昭和32年の入社で川航の野球部で三遊間コンビだったり、1,2番を打ったりしていた仲間なのである。

この年入院する間際まで野球はやっていた。

 

この年ぐらいまでが、新入社員時代と言えるのだろうが、振り返って見ても上司に仕事を教えて貰ったりはせずに、勝手気ままに好きなようにやらせて貰ったような気がする。

川崎航空機という会社自体が、戦後の空白期間があって若かったこと、財産課などもまだ台帳すら完全に出来ていなかった状態だったこと、社風そのものが同じ川崎でも造船などと違って、おおらかだったこと。

これらは、航空機という社名だが、航空機は造っておらず、ジェットエンジンのオーバーホールや、ヘリコプターや、発動機小型エンジンさらにはバイク、モペットなど、新しいものばかりだったからかも知れない。

 そんな1年で、いろいろやったが、大晦日は三田の病院のベッドの上で過ごしているのである。

 

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