雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

大槻幸雄さんとのご縁いろいろ

2021-03-16 07:03:30 | カワサキワールド

★ 昨日、我が家に Mr.Bike BG の4月号が送られてきた。



    



 なぜ? と思ったら
 こんな大槻幸雄さんの記事が掲載されていたのである。


  



 昨年の末のことだが、『カワサキZ1ファンクラブ』のメンバーが
 大槻幸雄さんの殿堂入りのお祝いに、
 Zのシリンダーヘッドのカットモデルを贈呈するというので、
 私もご一緒した時の記事なのである。

 この記事にもあるように川崎重工が50個限定でつくった
 シリダーヘッドの中の一つをこんなカットモデルにして
 大槻さんに差し上げたという貴重なものなのである。


  

 
  
 カワサキZ1ファンクラブのメンバーでもあり、
 この時も同行され
 Mr.Bike BGの寄稿もされている向笠暁彦さんの記事なのである。


 


★ 私もご一緒にとお誘いがあったものだから、
  この時も大槻さんとご一緒の写真に納まっているのだが、
  カワサキの現役時代から今も尚、50年以上に亘っての大槻さんとのお付き合いなのである。
  二輪の技術のことなど、さっぱり解らない私なのだが、
  不思議なぐらい延々と大槻さんとのご縁は続いているのである。

  一番最初にお会いしたのは1965年6月の鈴鹿アマチュア6時間耐久レースの時で、
  この時大槻さんはカワサキで初めて組織されたファクトリーチームの監督をされたのである。
  当時私はレース運営のマネージメントをやっていたので、この時初めてお会いしているのだが、
  それ以来、何かとご縁があって本当に不思議なのである。
 
  最初のレース関係は大槻さんがドイツ留学される1965年8月までなのだが、
  その後のご縁を連記してみるとこんなことなのである。


 ● 1966年はカワサキが本格的にGPレースに参戦の年なのである。
  大槻さんは留学される前までは『GPレーサー開発』も担当されていて、
  GPライダー契約などにも携わっておられて、
  66年マン島で藤井敏雄さんがプラクテイスで転倒事故死されたのだが、
  その遺体をマン島から送りだされたのが大槻さんで、
  羽田で遺体をお迎えしたのが私という悲しい想い出もある。
 
 ● その1966年秋の日本GPにはカワサキが初めて出場するのだが、
   そのGPチームの監督をされたのが大槻さんで、
  チームのマネージメントをしていたのが私なのである。

 ● このレースを最後に大槻さんも私もレースチームから離れて、
  大槻さんは市販車開発に、私は東北の営業担当となるのだが、
  翌1967年早春の東北6県の代理店会議に技術説明に来て頂いたのが大槻さんで、 
  宮城・秋田・岩手・青森と回って頂いたのである。

  この時大槻さんが私に話されたのは『世界一のバイクを開発する』と
  まだ何も決まっていない構想段階なのだが、
  滔々とその夢を語られたのである。
  これが間違いなく『Zのこと』で、
  そういう意味では『Z開発の夢』について最初に聞いたのは私かも知れないのである。
  Zが世に出たのはこれから5年先のことなのである。


 ●1977年、私が開発プロジェクト室ので東南アジアを担当していた頃、
  大槻さんが技術部長の時のことだが、
  CKD関連のクルマとしてGTOの開発をお願いに上がったのだが、
  最初はなかなか首を縦に振って頂けないのである。
  多分、大槻さんは小排気量車は興味が薄いのかも知れないのだが、
  諦めずに粘っていたらやっと承認が出て、
  カワサキで最大のヒット商品GTOが世に出ることになったのである。
  CKD なるがゆえに『部品出荷』で、明石工場に台数の記録がないのが残念なのである。

  


   私にとっても最初で最後の商品企画に関係した『想い出深い車種』なのである。


 ● その後大槻さんは単車からガスタービンの方に動かれたので、
  会社での直接の関係は無くなるのだが
  現役を引退して『Z1会のゴルフ』でご一緒するようになったのが2004年のことなので、
  もう15年以上になるのである。


  


 私も88歳になったのだが、
 大槻さんは既に90歳で益々お元気なのである。

 今年もコロナが収まれば『Z1会』のゴルフで、
 またご一緒出来る日が楽しみだし、
 『Z発売50周年』も来年なのである。

 2022年には『Z発売50周年』を
 『カワサキZ1ファンクラブ』の皆さんと、
 盛大にお祝いしようと思っているので、
 大槻さんも私も、何とかそれまでは元気にいたいと思っているのである。
  

 
 
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中学・高校・大学 私の学生時代  その2

2021-03-15 06:52:58 | 自分史

★ 前回、神戸一中時代の2年生まではよく勉強したが、
 3年生で共学になって『英語・数学は1年程逆戻りした』と書いたが、

 数学で言うと『対数』は私は3回習っている。
 中学2年生の時が初めてで、そして共学になった3年生に時、
 そして学区制で明石高校に転校して、明石高校でも習ったのだが、

 いま『対数とは?』と聞かれたらよく解らないのである。
 このlogが現れる『対数』は3回も習っているのにアタマに入っていないのである。

 

 数学も好きな学科だったのに、
 この『対数』が出てきて一度に興味を失ってしまったようにも思う。
 どうも現実に『必要がない』と思ってしまうのである。

 学科で言うとこの時代『歴史』の教科がなかった。
 多分、戦後すぐのことなので『教科書』が出来ていなかったのだと思う。

 英語は中学時代『よく勉強した』。
 興味もあったし、ひょっとしたら、中学時代の英語のレベル以上にはなっていないのかも知れない。

 特に神戸一中時代の英語のレベルが高かったのだと思う。
 勿論、This is a pen. からスタートしたのだとは思うが、
 1年生の夏休みには、こんな文章で始まる『舌切り雀の物語』を暗記させられているのである。

 出だしのこんな文章は、今でもよく覚えている。

     Once upon a time, there lived an old man and his wife .
  They treated the bird as tenderly as if it were their child.


★ 3年生の夏ごろから県一女と一緒になって『男女共学』となったのだが、
 小学校時代は戦時中のことで、3年生からは男女別のクラスだったから、
 『男女共学』などは初めてのような経験だったが、
 意外にスムースに抵抗もなかったように思った。

 最後列左から3番目である。

  
  

  男女共学になって『神戸高校併設中学校』ということになった。

  男女共学になって『変わったこと』というなら
  流石に『運動場での立食』がなくなった。
  それまでは神戸一中の伝統だなどと言って、
  弁当は運動場で立ち食いをしていたのである。

  それがどういう意味を持つのかは、よく解らなかったが、
  運動場で立って動きながら食っていた。
  『立ち食い』はそのまま残ったが、教室の中での立ち食いだったのである。
多分、こんな伝統も、今の神戸高校ではなくなってしまっているのだろう。

★ 兎に角、まだ戦後の時代だったと思う。
 明石からの国電を何故か『省線電車』と呼んでいたが、
 窓ガラスは半分はガラスではなく『板張り』になってたりしたし、
 三ノ宮からのバスなども3年生の頃になってやっと走り出したが、
 殆ど乗ったことはなかったように思う。

 『修学旅行』なども未だ世の中に存在しなっかった。
 天皇陛下が泊られるホテルが神戸にない時代だから、
 学生が泊る宿などまだなかったし、
 大体、『米の飯』がなかった時代なのである。
 麦飯や、『なんば粉のパン』など食っていたのだと思う。
 その『なんば粉』のトウモロコシも何故かまずくて『トウモロコシ』の印象は悪くて食わなかったのだが、
ずっと後北海道でトウモロコシを食って、こんなに旨いものかと驚いたのである。

★ そして3年生の末期になって『高校の学区制』が翌年度から始まるとなって、
神戸市灘区から通っている生徒を除いては、それぞれの校区の高校に進学することになったのである。
 神戸一中の生徒は灘区以外が圧倒的に多かったから、
みんなそれぞれの校区に進学せざるを得なかったのだが、
生徒だけではなくて先生も適用されるなど『区制のモデル校』として非常に厳しかったのである。

 確かこの年度に『灘高校』は進学校への方向転換をして、
神戸一中から先生を含めて大量な人員の転校があって、一挙に『進学校』になたように思う。
 
灘校のWiki を見ると
当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった者が入学してきたが・・などの記述もあるが、
この年には神戸一中からの転校が大挙してあったのである。

私自身は、校区の明石高校に転校することになり、
旧制の神戸一中を2年間、男女共学の神戸高校併設中学1年間の3年間の中学生活を終わるのである。

 ただ今振り返って思うと
 学校で勉強をしたのは国民学校と言われた今の小学校6年間と
 この神戸一中時代だけだったような気がして、
 本当に懐かしい学生としての想い出の時代なのである。


 
 
  
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家から防災公園まで

2021-03-15 06:51:40 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★毎朝スロージョギングに行っている三木総合防災公園までは約4km、
 車では6分ぐらいの距離である。

 昨日は家から防災公園の駐車場まで、車の中から動画を撮って
 それを1分半ほどに纏めてきた。
 ご覧になって下さい。



 
 私が住んでいる『三木市緑が丘』はかっては丘陵地というか山だったのだが、
 大和ハウスが開拓して膨大な新興住宅街を創り上げている。
 もう50年にもなるので、新しく建て替えらえた家も多い。

 動画の中からの写真でその様子をご紹介してみたい。


 我が家の前のお宅を左折してスタートである。

 


 左に曲がるとこんな光景になる。
 真正面の道は人は通れるが車は通れない。
 住宅街の中での『車のスピードを抑える効果あり』である。




左折すると、こんななだらかな坂道。






 そこを右折だが、左手には新しい家が3軒並んでいるが、
 かっては1軒のお宅だったが、そこに3軒立てて分譲されたのである。





 そこをさらに左折するとこんな表通りに出る。
 この辺りの左右の家は、その石積みを見ると旧いお家だと解る。
 最近はこんな石積の塀は見られなくなってしまった。



 大きな道を渡って、この左側は広大なスポーツ公園である。
 神戸などでは珍しいほどの広さでサッカーなどが出来る広大なグランドと
 手前にはテニスコートが10面以上ある。




 そこを右折すると坂道が続く。

 この辺りに来ると新しく追加開拓された場所で、
 その外壁を見ると明らかである。




 坂を上り切ったところが、関西国際大学である。



   新興住宅街はここまででそこから先はこんな下りになり、
 左右は山となる。





 そしてこんな4車線の道に出る。
 

 
 それを500メートルほど下ったところが
 防災公園の入口の交差点である。

 


 そして 入口。




 そしてこんな駐車場がある。

 こんな大きな駐車場が あちこちにいっぱいあるから、
 満車になることなどはない。
 少々大きなイベントがあっても大丈夫なのである。




   ここの駐車場に止めて毎日6キロちょっと走っている。
 大体家からここまでの距離なのだが。
 道を走るよりは公園の中を走る方が、
 コースもいっぱいあるし気持ちがいい。

 殆ど毎日こんな距離を走っている。
 1キロ台の日は、雨で走らなかった日なのである。


    

 
 


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中学・高校・大学 私の学生時代  その1

2021-03-13 06:46:31 | 自分史

★ 中学1年生は昭和20年(1945)4月に、朝鮮京城の城東中学に入学したのだが、
未だ戦時中で学校にも行ったが、半分ぐらいは学徒動員で家の近くの山で松根油を採るための松の根を掘り起こしていたのである。
8月15日に終戦になって、当然学校も終わってしまって

 ちょうど夏休み中で『軍人勅諭の暗記』という宿題が出ていて、
そろそろ暗記しなければと思っていたそんな頃だったが、
それはこんなムツカシイ文章なのである。

我国の軍隊は世々天皇の統率し給たもふ所にそある昔神武天皇躬(みつから)大伴物部の兵(つわもの)ともを率ひきゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つか)せられて天下(あめのした)しろしめし給たまひしより二千五百有余年を・・・・

 戦争があと1ヶ月続いていたら、覚えていただろうか?

 私の中学生はそんなことで『今のソウル』でのスタートなのだが、
この辺りのことは、こども時代の自分史に譲ることにして、
日本に引き揚げてきて、もう一度中学1年生から行き直したので、
戦後、引き揚げてきてからをスタートとすることとする。


★ 終戦の年の12月15日、生まれ故郷の明石に引き揚げてはきたのだが、
 明石上ノ丸は爆弾と焼夷弾で跡形もなく焼け野原になっていて、
 伯父一家が疎開していた当時は全くの田舎だった伊川谷白水の借家に落ち着いたのである。

 翌年になって当時は川崎機械の社長だった伯父の知人の砂野仁さんの薦めで、神戸一中に入学することになるのだが、
何故か試験も受けずに入学することが出来たのである。
 間違いなく『裏口入学』なのだが、
 『お前は試験も受けずに入学出来たのだから、ちゃんと勉強するように』と、
 父に言われたこともあって、よく勉強したと思っている。

 ただ、この時代の通学は大変だったのである。

    今はこんな立派な街になっているのだが、当時は田んぼと川以外は何もなくて、
 毎朝田んぼの中の道を歩いて明石駅まで、上の丸に家を建てるまでの1年間ほど続いたのである。


 




そこから灘まで電車通学、更に灘からは通称『地獄坂』と称する急な坂道を上ってやっと学校なのである。


     



 これはGoogle マップで現れる今の神戸高校だが、
 形だけは昔のままで、当時はもう少し黒かったと思う。





 当時から『名門神戸一中』と言われていて、
 これが中学1年生当時、最後列左から4番目が私である。

 


 これが中学2年生時代で、ここまでが『神戸1中』なのである。


   


 『よく勉強した』と書いたが、それは神戸一中の2年生までのことである。
 『』という制度があって、学年の50番までの生徒をそう呼ぶのだが、
     学生のレベルが揃っていて高かった中で『』に入るのは大変なことなのだが、
 ずっと『』だったし、10番以内にはいたのである。

 授業のスピードも早くて、そのレベルも高かったのだが、
 よく頑張ったと思うし、よく勉強もしたのだが、
 私自身、学生時代に『勉強した』と思うのは中学2年生までなのである。

 中学3年生になると『男女共学』となって県一女と一緒になるのだが、
 この時点で、特に英語・数学のレベルは1年程逆戻りしたので、
 『勉強する』必要がなくなってしまったのである。

 そんなこともあって、3年生からは野球部に入部することになるのである。
 当時の神戸高校は野球も強くて春の選抜には甲子園にも出場している。
 そんな野球部に入部したての頃の私である。

  
 
 
  
  野球部に入ってからは、私の学生生活=野球部となってしまって、
 中学も高校も大学でも『勉強をした』という記憶がないのである。
 大学では教室にも入らなかったが、高校までは『勉強しない』と言っても
 教室には入っていたのである。

 そういう意味では私の学歴は『中学卒』かも知れぬが、
 あの名門神戸一中で『特だっ』ということが、
 アタマはそんなに悪くはない、やればできると勝手にそう思って
 生涯の自信に繋がっているのである。
 
 別に『勉強する』ことが嫌いでもないので、
 むしろ社会に出てから、
 そして定年退職してからの方がいろいろ『勉強している』のかも知れない。
 

★ 神戸一中時代の想い出としては『天覧授業』を挙げねばなるまい。
 それは昭和22年(1947)6月、戦後初の神戸行幸だったのだが、
 ホントか?と思われるかも知れぬが、
 神戸には陛下がお泊りになるホテルがなかったのである。

 その宿舎となったのが神戸―中の3階の教室でそれを改造してお泊りになり、
 私のクラスが『天覧授業』に選ばれて、
 授業観覧とは後ろからとばかり思っていたら、
 前からお入りになったのでびっくりしてしまったのである。

 
 これがその時の新聞記事で、そこには『宿舎にもなった神戸一中』という
 記事も残っている。
  

   
★ ここから先は神戸一中の同窓会の時、聞いた話でその真偽は解らぬが、

 GHQが『なぜ天皇は神戸一中などに泊まられたのか?』と調べたら、
 『あそこは英才教育をする学校だ』ということが解って、
 そこから『高校の学区制』に繋がったのだというのである。
 確かに、学区制対策は非常に厳しくて、
 若し本当にそうなら、私はその『学区制』で、明石高校に変わることになったので、そんなことにもなった『昭和天皇神戸行幸』だったのである。
 

 

 
 
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春うらら

2021-03-12 07:14:01 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★『はるうらら』というので、
 ちょっと調べてみたら、こんなことのようである。

 春うらら(はるうらら)」とは、「冬から春への移り変わりの時期」のことを言います。
冬の張りつめた空気が少しずつ暖かくなり、桜が少しずつ咲き始める季節の挨拶です。
春ののどかな雰囲気や穏やかな日の光を、こう表現します。
漢字では「春麗ら」と表記しますが、「うらら」とひらがなで書く方が、その柔らかなイメージからも一般的です。

 なるほどと思った。
 週末は雨になると言うが、ホントに『はるうらら』ないい天気である。

 ふと思って、園芸店に花の苗を買いに行き庭に植えた。
 そんな気になる春らしい陽気だった。



 適当に、『宿根草』ばかりを選んで買ってきた。
 一番右は『アスパラガス』である。
 『食べれますよ』と仰るので一鉢買ってきた


  


  小さな庭だから、もう植えるところも少ないが、
 それでもまだ大丈夫である。


  『さくらんぼ』の根元に植えた。
  

 

 後ろの薔薇が咲き出すころまで、
 咲いてたら黄色と赤で『綺麗なはず』と勝手にそう思っている。 
 


 こんなところに適当に植えたのだが、

 


 土が見えなくなるくらい、広がればいいなと思っている。

 一番手前は、長い雨などには当てないようにと書いてあったので、
 動かせるように鉢植えにした。
 
 


  そうならないようなら、
 もう少し「買い足せばいい」と思っている。

 『はるうらら』な午後、私の庭仕事である。


 
 
 
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川崎航空機に入社4年間  その4  自分史

2021-03-11 07:29:20 | 自分史

★入社して2週間ほどの研修期間があって、財産課に配属が決まったのが、
周囲の人たちや学校の先輩たちからの財産課の評価は最低で、
大変なところに行ったな』と言われたのである。
 
なぜ大変なところなのか? はよく解らなかったが、
 一言で言うと他部課から見たら、あまり関係のない『存在感の無い課』であったような気もする。

そんな財産課で今まではあまり重要でもなかったからだと思うが、
特に担当者などいなくて女子が二人償却計算だけをやってたようだが、
そんな誰も手を付けずに放置されていた『工具器具備品』という科目の担当になったのが、幸いだっだと思うのである。

殆ど何もなかったものを最初から創り上げていく作業だったのだが、
今思うとそれは『貴重な体験』であったと思う。
それを『オモシロい』と思うか『つまらない作業だ』と思うかは、
ひとそれぞれだろうと思うが、こんな作業をやっていたのである。

● 償却計算という何時間も掛る『計算事務』を2年間経験できたし、
● 何にもなかった固定資産台帳を作るという地味な作業にも取り組んだし、
● その現物を現場で数えるという『現場作業』も経験できて、
● 各職場に財産管理担当者という組織を作って人脈も出来たし、
● ネコスの椅子などの新しい提案なども出来たし、
● IBMによる償却計算システム構築という『システム構築』の経験など、
 全社で初めての民需のIBM化にも取り組めて、
● その過程に於ける本社や岐阜製作所との連携で顔も売れて

 などなど事務屋の基礎みたいなことを全部経験できたのは幸いであった。


 財産課時代を象徴するものとしては、このタイガー計算機だろう。
 使い方もいろいろテクニックがあって、
 オモシロかったように思っているのだが・・・

  



★同期で入社した同僚たちは、みんな結構出来上がった『まともな課』に
配属されたので、みんな先輩の手伝いのような作業ばかりで、
自分の思うように』作業していたのは私ぐらいなのである。

入社試験の面接で『君は成績が悪いね』から始まるぐらい大学の成績は悪かったので、
企画室』などと言うまともな職制への配属は躊躇われたのだと思うが、
それが幸いしたのだと思う。
私は常に楽観的で、人生すべて『運がよかった』と『常にネアカに』考えるのだが、
この財産課への配属も、新人ながら自由に振る舞えて『本当に幸運だった』と思っている。


★ 新入社員時代、当時は日本国中『スポーツと言えば野球』の時代で、
勧誘されて入部した野球部も好きな人が集まる軟式野球部だったから、
本格的な硬式野球をやった人は数人だけだったし、
会社の中でも部対抗のソフトボール戦などあったりしたのだが、
こと野球に関しては、自分で言うのもおかしいが、
ちょっとレベルの違う『スターだった』のである。

そんな野球の分野でも、新人ながら結構『名が売れて
気分のいい『新入社員時代』を過ごさせてもらったと思っている。

 
★この新人時代の財産課の5年間だったのだが、
 5年目は肺結核の療養で、三田の大原療養所での療養生活だった。
 この1年で空洞のあった肺結核も完治して、
 復職する時点では殆ど企画室に決まっていたものを、
 突然、新しくできた『単車営業』ということになったのである。
 これも私にとって本当にラッキーだったと思っている。

 この時点では入社当時とは違って、間違いなく高評価だったと思うし、
 その後の人事評価も非常によくて、
 営業部でも私の担当する部門は係長が不在で、
 係長心得のような感じで任して頂いたし、
 次の広告宣伝課では係長も課長も不在だったのである。

 お蔭様で、その後の待遇も『1年の休養期間』があったのだが、
 同期の連中に遅れることなく進めたのも、
 財産課時代に経験した仕事の成果かなと自分では思っている。
 

★ そんな私の『川崎航空機に入社4年間』と1年の療養期間で
 私の新入社員時代は終わっているのだが、
 非常に懐かしい『いい新入社員時代』を過ごせたのである。

 ごく最近の時代から遡ってきた『自分史』だが
 あとは大学時代、高校時代、中学時代
 そしてこどもの頃の戦前時代と遡っていくのだが、
 ホントに『長く生きれたな』というのが実感なのである。


 
 
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ジョッギング    雑感

2021-03-10 07:01:48 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私自身は子供の頃から運動は好きだったし、
 運動神経も人並み以上ではあったのだが、
 『息が切れる』のはどうも苦手で、マラソンも嫌だったし、
 野球で言うと、守備練習のノックそのものは好きだったのだが、
 『しぼるノック』というか50本も100本も続けてやられるのが嫌だった。

 それなのに子どもたちは息子はサッカーをやり出したし、
 娘は小学校・中学校とマラソンは1番で、
 二人ともこんな『息の切れるスポーツ』をよくやったなと思っていた。

 だから、定年後ストレッチなどをやりかけて、
 走ったりもしていたが、それは『ダッシュ』ばかりで、
 所謂、長距離のジョッギングなどは一切やっていなかったのだが、
 いつの頃だったか、防災公園の1.8キロコースを走ってみたりはしたのだが、
 とても『しんどくて』ダメだったのである。


★ところがもう3年も前になるかと思うが、
 『スロー・ジョッギング』は『息が上がらない』というのでやってみたら、
 ホントに大丈夫なのである。
 そんなことで、もう3年も毎朝続いている『スロー・ジョッギング』なのだが、
 今では1時間は続けて走れるようになっているのである。

 70歳から再開した運動だが、歳をとるごとに逆に『体力は向上』して、
 77歳からは50メートルダッシュをやりかけたが、
 年々スムースに走れるようにはなったが、
 今以上に『早くスムースに』走るのは『やはりムツカシイ』と思って、

 88歳・米寿を迎えたのを機会に、
 『ジョッギング』なるものにチャレンジしようかなと思っている。

 そして、昨日からその挑戦をスタートした。
 『長距離をジョッギング』するのはこれはダメなことは解っているので、
 『スロー・ジョッギング』約6kmやっているのだが、
 そのうちの『下り坂』だけを『ジョッギング』してみることにしたのである。

  
 コースの中にはこんな上り坂や下り坂の緩やかな勾配がある
 坂道があるので、

  

 




 スロージョッギングでは、
 そんなコースを毎日変えながら走っているのだが、
 それが『下りになるとき』だけ『ジョッギング』に切り替えてみたのである。

 『下り坂』だから何とか『ジョッギング』にはなるが、やはり少々苦しい。
 しかしやってみたら、何とかなったのである。



★ これがその結果だが、昨日は家内の病院にも付き合ったりしてるので、
 歩数や距離は、いつもより多くなっているが
 『アクテイブタイム=72分』は 『スロージョッギング+ジョッギング』の時間なのである。
 何とかやれたので、今年はこのスタイルで行こうと思う。

 ひょっとしたら全部『ジョッギング』で行けるようになるかも知れない?
 とそんなことを期待しているのだが・・・


   


 
 
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川崎航空機に入社時代の4年間    その3  自分史

2021-03-09 06:30:35 | 自分史

★川崎航空機に入社した当時は、会社の仕事も、結構一生懸命やっているのだが、
当時の日記』を読み返してみたら、
一番多く触れているのは『家内のこと』でそのページ数からすると
会社の仕事』のことなどを圧倒しているのである。

そういう意味では間違いなく『一番の関心事』であったのだろう。

川崎航空機に入社して2週間ほどの研修期間があって
4月15日に業務部財産課への配属が決まったのだが、
4月19日の日記に『隣の勤労課にいる女の子にちょっと惹かれる』と書いているので、
財産課への配属は、私の人生を左右した出来事だったかも知れないのである。

6月5日には高校・大学の球友だった小野田尚弘からの電話がなぜか勤労に掛って、
小野田さんという方からの電話です』とわざわざ私の席まで呼びに来てくれたことを、日記には書いているし、
当時は朝は明石から西明石まで電車で通勤していたのだが、
その朝の電車で一緒になることが多くて、
神戸方面からやってくるので、
どこから来てるのだろう?』と思ったりしているのである。

というのも当時の会社の女子社員はその殆どが明石市内や西の方からの人たちが殆どで、
神戸の方からの人は非常に珍しかったのである。

何となく『神戸高校タイプだな』と思ってはいたのだが、
11月になって入社6か月目で初めて口をきいて聞いてみたら、
神戸高校だ』というのである。

私は旧制中学で神戸一中に通っていたのだが、
その後、男女共学になり神戸高校になったのだが、
学区制が出来て、明石高校に転校になったのである。

 
 
 
 神戸1中時代は人生で一番よく勉強したし、
 それなりの成績でもあったので、
 私は神戸1中時代の成績が一生『自分の自信』になっているので、
 神戸高校にもそれなりの思い入れみたいなものがあったのである。

  
 

入社1年目は、ただそれだけでそれなりの関心はあったのだろうが、
特にそれ以上のことにはならなかったのである。


★ 翌年になってからも、毎朝電車で会うようになり、
 5月28日に三宮で映画に誘ったのがスタートなのだが、
 その日は映画を見ただけで終わっている。
 翌週の6月7日には、当時はまだあった三宮の『新世紀』というダンスホールに誘っている。
 そして6月14日にはお返しにとネクタイを貰って、その日も新世紀に行っている。
 こんなことで3週連続でデートなどしたのだが、
 その頃には会社でバレてしまって『噂になったり』しているのである。

 それ以降、新入社員時代の4年間は、
 日記の中では『家内が中心』でそれなりに熱烈だったのは間違いないのである。

 家内の所属が勤労課で、勤労課長の森さんは家内の上司でもあり、
 明石高校の先輩でもあったので親しくして頂いたのだが、
いつ、結婚するんだ?』などと冷やかされたりしていたのである。
 

★ 新入社員時代の財産課での4年間は、
 3年目の昭和34年(1959)9月にIBMによる事務機械化に取り掛かり猛烈に忙しかったのだが、
 4年目はこの『プロジェクト』に集中して、9月にはそのIBMカードも完成しているのである。

  


 4年目の日記を読み返してみても、
 そこに記述されているのは『家内のこと』か『IBMの機械化』のことばかりなのである。

 そんな1年だったのに
 10月になって診療所から『菌が出たので入院』という宣告を受け、
 11月からは、三田の療養所に入院することになってしまうのである。


★ 三田の療養所には翌年の12月までの入院だったので、
 新入社員の財産課時代は約5年なのだが、
その5年目は殆ど『三田療養所での療養生活』だったのである。

 今はもうないのかも知れぬが、
 川崎重工業の健康保険組合の『三田大原療養所』はこんな立地で、

 住宅団地はなかったと思うし、その辺りもみんな自然の山だったと思う。

  

 
 安静時間もあったが、自由時間も結構あって、
 池で野釣りもよくしたし、周辺の松林は秋には『松茸』がいっぱいで、
 幾らでも採れたのである。
 今なら『松茸ドロボー』で大変だが、当時はそんな空気はなくて、
 散歩のついでにみんないっぱい採ってきていた。
 一般の方が一生に食べる量よりは、はるかに多い『松茸』を食したのである。

 入院されている方とも、看護婦さんともすぐに仲良くなれたし、
 本当に『楽しい』と言っては不謹慎かも知れぬが、
 そんな楽しい療養生活だったのである。
 家内はしょっちゅう見舞いに来てくれたし、
 手紙も届いて、若し入院などなければ家内から手紙をもらうことなどなかったと思う。


★ 自分の一生を振り返ってみると、
 『環境への適合性』は抜群で、どんな環境でもそれに『直ぐ順応できる』ところがある。
 
 退院する時点では新しくできた『単車営業課』への転籍が決まっていて、
 その後の人生も『誰もがやったことのない新しい仕事』ばかりだったが、
 どんな環境にも直ぐ適応できたのである。
 
 これはやはり、中学1年生の時に経験した、
 戦後の環境の変化が大きすぎて、
 それに比べたらどれも、そんなに『大したことではなかった』のだろうと思っている。

 それくらい戦前・戦後の変化は劇的だったのである。


 
 
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お彼岸  もう春である

2021-03-08 06:58:34 | 発想$感想

★ 春のお彼岸は「春分の日」を中日として前後3日間、計7日間がお彼岸の期間で、
彼岸の入りが3月17日、中日が20日で春分の日で、彼岸明けが3月23日なのだそうだが、

毎年『ああ今年ももう彼岸も近いな』と思うのは、
明石の長寿院のご住職が我が家まで『彼岸のご祈祷』にわざわざお見えになるのである。
それが昨日の日曜日だった。

私自身はこのような仏事にはそんなに関心もないのだが、
伯父が長寿院の檀家総代をしていて小学校の頃から、
よく長寿院に連れていかれてご住職の説教など聞かされたりしたので、
長寿院のご住職も私は3代存じ上げているのである。

今のご住職は当然私よりはずっとお若くて、
戦時中や戦後のことなどはご存じないので、その頃のことは私の方が詳しかったりするのである。

 
★ 今年ももうそんな春の季節になった。

 春はもうすぐそこまで来ていて、
   薔薇の新芽も日に日に大きくなるし

        




 春を呼ぶ花 福寿草も今年はいつもより芽吹きが早いような気がする。

 



 そう言えば『桜の開花時期』も例年より早いようである。



★ 長寿院のご住職が来られたら
  翌週ぐらいには明石まで墓参に行くことにしているのだが、
  昨年、お盆には墓の草抜きをしていて『熱中症』に掛ってしまって大変だったのだが、
  春のお彼岸は季節もいいのでそんな心配は無用である。

  ホントに春はもうそこまで来ている。


 
 
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川崎航空機に入社時代の4年間    その2   自分史

2021-03-07 05:51:25 | 自分史

★ 川崎航空機の新入社員時代のこと『その1』では、
 『償却計算のIBM化』などちょっとカッコいいこと書きすぎたかも知れない。

 昭和32年(1957)時代の川崎航空機はまだまだ大変な会社だった。
 戦時中の爆撃でやられたままの建物がそのまま残っていたりもして、
    建物の2階に張ってあったベニヤ板の上を歩いてた新入社員が
 ベニヤ板が破れて落下し亡くなってしまったりしたのである。

 そんな建物も残っていたし、爆撃の後の鉄骨なども売っていたりして、
 後事務所になった『4研』には、戦前の機械が入りきれないくらいいっぱい残っていて、
 半ばそれの『売り食い』みたいなところもあったのである。

 会社なのに、再スタートしたばかりで
 基礎資料と思われるものも揃っていなかったし、
 前回も書いたが、工場の敷地がどこまであるのかも分からなくて、
 土地を見に歩いたら『工場内だ』と思われるところが畑になっていて、
 その畑を立ち退いてもらうのに『立ち退き料』みたいな金が要ったりしたのである。



★私の初任給は12000円だった。
 それも月2回払いなのである。

 資金繰りなど苦しかったのだろう。
 財産課での機械の処分代なども間違いなく収益に繋がっていたのだと思う。
 何しろ戦前の機械だから帳簿上の簿価はタダみたいな価格だったのである。

 私が担当した工具器具備品も、ジェットだけは新工場ということで一件300円以上が財産物件になっているので机は財産物件なのだが、
 その他の部門の机は、同じ机でも経費で買っているので備品ではあるのだが、『財産物件ではない』のである。

 その数は購入時の数として残っているだけで、
 台帳はないし、現物確認など一切出来ていなかったのである。

 まず固定資産台帳をつくることから始めたのだが、
 机なども数だけが解っていても、現物照合など全くなされてはおらず、
 仕方がないので課ごとに現場に出向いて、当てはめたりしたのである。

 ところが会社に職制変更というようなものがあるとは知らなくて、
 折角当てはめた机も、職制変更や異動で、人と一緒に動いてしまうので、
 またゼロからやり直しなのである。

★ 仕方がないので小さな赤と緑の番号プレートを作り、
 財産物件と経費での購入備品と区別し、財産物件には財産番号を刻印して机に打ち付けていく作業に取り掛かったのである。
 プレートの貼ってあるものは『数えたもの』と識別できるようにして、
 財産物件には1物1件ごとの台帳を作っていったのである。

 こんな現場作業にほぼ1年を要して、
古谷はいつみても釘と金槌を持って社内を歩いている
 と言われたりしていたのである。

 文字で書くのは簡単だが、現場の実地作業が伴うので、ホントに大変だったのである。
工具器具備品の台帳を作るのに1年以上かかったのである。
 信じられぬかも知れぬが、ホントにそんなことをしていたのである。
 

★ 椅子は木製の回転椅子だったが、
 それがよく壊れて毎週トラックにいっぱいの「椅子の修理」が発生し、
 これが毎週のことなので大変だったのである。

 これも1年間毎週の仕事として続けていたのだが、
 ちょうどその頃、『ネコスの椅子』が世の中に現れて、
 これに変えようとしたのだが、
 企画室は予算がどうだこうだなどと言って、
 なかなか『うん』と言ってくれないのである。

 

 
そんなとき、たまたま砂野社長にほかの用事で呼ばれたのである。

砂野さんは戦前から伯父と親しくて、私も中学生の頃からよく知ってたし、
神戸一中に私が入学したのも砂野さんの薦めだったのである。
私は川崎航空機に砂野仁さんのコネで入社しているのだが、
新入社員時代、一番気安く『モノが言えた』のは上の方では砂野さんだったかも知れないのである。

砂野さんは『健康』に非常に関心をお持ちなのはよく解っていたので、
ネコスの椅子』は背もたれも動くし『健康にいい』と思うと言ったら、
それはいい』と賛成して頂いて、
ネコスの椅子への変更』が何となく決まっていったのである。


 そんなことは周囲の方はご存じないのだが、
 これは財産課の後輩だった小池博信くんがご自身の自分史の中で、
 『ネコスの椅子』についてこのように書かれていて、
 『進取の気象』として取り上げて頂いているのである。


  
 
 

 確かに『進取の気象』めいたところもあったが、
 簡単には『反対』を押し切ることなどムツカシイのである。
ネコスの椅子』への転換は、こんな『からめ手戦術』が功を奏したと言っていいのである。

 ただ、この『ネコスの椅子』は非常に評判が良くて、
 どこの課も欲しがるのでその配分順序が大変で、基本的には職制順にしたのだが、
 新入社員や出向先から戻ってきた人は優したりしたのである。
 たまたまだが、当時『日本ジェット』に出向されていて、
 後レースでご一緒する大槻幸雄・井手哲さんが戻ってこられて、
 新しい机と椅子を私が都合したのだが、ご本人は覚えておられるだろうか?
 

★ 世の中の『新入社員』はどのような仕事から入るのだろう?

 私の場合は、担当さされた業務の基礎的なものが全く出来ていないような状態だったから、
 結構『自由に、自分の思うように』動けたのである。
 
 勿論、係長も課長もおられたのだが、
 新しく再出発した会社だったから、細部については殆ど解っておられなかったのだと思う。

 新人社員で配属されて直ぐ『担当分け』はあったのだが、
 担当した『工具器具備品と車輌運搬具』関連は即私がTOPで、
 下に女子が二人いたし、 特にその細部の指示などは全くなかったような気がするのである。

 いま、改めて思うと不思議だが、結構な新入社員だったのである。

 
 
 
 

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非常に嬉しかった朝

2021-03-06 07:42:24 | 私の生き方、考え方&意見

★曇ってはいたが雨が上がったので、
 いつもの通り三木総合防災公園で1時間ばかりスロー・ジョッギングしてきた。
 今朝は『めちゃ気分がいい』のである。
 

 兵庫県広域防災センターの周囲綺麗に整備されかけているのを見て、
 本当にビックリしたのである。


 

 
 


 まだ途中だが、本当に綺麗に整備されている途中で、
 剪定された枝などはそのままになっているのだが、
 間違いなく『綺麗になる』ことは確実なのである。

 毎朝行く『防災公園』は非常に綺麗に手入れが行き届いていて、
 『見事』と言っていいほどなのだが、
 お隣の『兵庫県防災センターの周囲』というか裏側は、
 樹々が伸び放題で、私はずっと気になっていたのである。



★これは昨年の12月に撮っていた写真なのだが、

 こんな状態で、隣の防災公園の手入れが行き届いているものだから、
 余計に気になって仕方がなかったである。

 
  








 どうしようか、ちょっと迷ったのだが、
 まず防災センターの窓口の方に電話して、
 電話でそんなことをお話したのだが、
何となくスムースな会話』になったので、これは『イケるかも?』と思ったのである。

 何事もこの辺りが『私独特のカン』なのである。
 物事が実現するかしないかの分かれ目がこの辺りにあると思っている。
   
 『センター長さんにメールを打ちたいので、メールアドレスを教えて下さ』と言ったら、
 教えて頂けたので、これは少なくとも可能性はあるなとは思ったのである。


 昨年の12月22日のことで、
 概略、こんな内容のメールを、
 『兵庫県広域センター長』さん宛に,
    私の住所・氏名・電話番号など明記して、お送りしたのである。



兵庫県広域防災センター長 様
                        
私は防災公園でスロージョッギングを1時間 ほどやるのが毎朝の日課になっています。毎日ではないのですが、広域防災センターの周囲を走ることもございます。
隣の防災公園は見事というほど 綺麗なのですが、広域防災センターの周囲は、永年放置されたままですから、植木も伸び放題、雑 草が生えていて『綺麗』とは言い難い状況になっています。
公道に面している場所は、大袈裟に言うと『社会と面している』わけですから、公道を 通る人たちに『いやな想い』をさせないような配慮があって然るべきかと思います。
広 域防災センターも正面は 生垣も玄関廻りも綺麗に管理されています。
裏の方がどんな状態なのかはご覧になっていないのではと思います。
予算のこともあり直ぐ解決するような問題ではないの ですが、気が付いておられるのかどうか?
 兵庫県は『美しい兵庫』をモットーに何年もやってこられています。 県庁から市長が来られた三木市は『日本一美しいまちをめざす』とその目標を掲げてい ます。
『美しい』=『綺麗』ではないと思いますが、物事に対処する人の姿勢は『美し い態度』でありたいと思っています。
本件、私がメールを差し上げたから、直ぐ解決するなどとは思ってもいませんが、気になっていたことを『このメールで申し上げたこと』で半分は気分は収まってお ります。
勝手なことを申し上げましたが『本音で申し上げている』戦前派のおじんです から、失礼をお許しいただきたいと思います。
 『広域防災センター長さんの目で』周辺の状況を是非一度ご覧になってみてください。よろしくお願い申し上げます。


 お役所のことだし、予算も要るし、ひょっとしたら来期の予算でやって頂けたらいいな と思っていて、
 私としては『思っていたことを伝えた』ので、
 大して期待もせずに、それ以降は『忘れてしまっていた』のである。


★あれからちょうど2ヶ月が経って、いま3月の年度末が始まった。

 今期の予算で処理出来たのだろうか?
 周辺の整備と言っても1km近くあるから大変なのである。

 少々失礼なことをズケズケと申し上げたのに、
 それを取り上げて頂けたのか、ちょうど整備する時期になっていたのか。
 何はともあれ、綺麗になりそうなので、今朝は本当に『いい気分』なのである。


 ひょっとしたら、『綺麗になるかも?』と思って、
 センター長さんに出したメール
 その時撮っていた写真も残しておいてよかったなと思っている。


 





  兵庫県立広域防災センター長様、
 『本当にありがとうございました

 『美しい兵庫
 『日本一美しいまちをめざす三木』に相応しい出来事だったと思っています。



 
 
 
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川崎航空機に入社時代の4年間  その1  自分史

2021-03-05 06:36:29 | 自分史

★ 自分史を最近のことから逆に若いほうに向かって書いてきたのだが、
 とうとう川崎航空機入社の時期にまで戻ってきた。

 川崎航空機に入社したのは昭和32年(1957)神武景気と言われた年なのである。
 そんなことで同期会の名称は『神武会』と名付けられている。
 技術屋さんは面接だけの無試験みたいな感じで、筆記試験があったのは事務屋だけだった。

 私の面接は『君は成績悪いねえ』と言う当時の塚本碩春人事課長の一言から始まったのである。
 確かに大学では全く勉強などせずに野球一筋だったので、
 間違いなく成績は悪かったのである。
 当時『優の数』が20ぐらいあるのが普通なのだが、
 私は5つだけであとは『』も少なく『』ばかりだったと思う。

 その『』も体育理論・体育実技と、
 試験さえ受ければ殆ど『』を頂ける中国語1・2 と
 野球部の部長のゼミの『経済地理』の5科目だけだったのである。
 成績は間違いなく『悪かった』ので悪びれることなく、
会社の仕事は他人に負けずにやれると思います』と言い切ったのだが、
この一言』は在職中忘れたことはなかったのである。

 総務部長だった岩城さんが『ところで君は野球をやってたな』と
 助け舟を出して頂いてからはどんどん話が弾んで、
 面接時間は他の人の倍ほどになったのである。
 私は砂野仁社長のコネだったのだが、
 その砂野さんからも『君は面接だけはよかったよ』と言って頂いたのである。
 
 私自身は人生で『緊張した経験』が殆どなくて、
 というより『全くなかった』と言っていいのである。
 この面接も緊張などは全くせずに『雑談の感じ』で、
 普通に自分の想い通りに喋れたのだが、そんな性格かなと思っている。

 或は野球というスポーツは団体競技なのだが、
 『打席に立って投手に対する』という個人が緊張する場面もあるので鍛えられたのか、
 どんな場面でも緊張しなくなってしまったようにも思うのである。


★川崎航空機工業は戦前からの会社なのだが、
 軍需工場だったということで戦後の中断があり、再開されたばかりの若い?会社だった。
 戦後各地に分散していた会社が明石に集結したばかりで、
 あまり旧い方はおられなかったし、
 雰囲気も非常に自由で何でもやれるようなところがあった。

 これは入社したころの珍しい写真である。

 まだ建物も新しく建ったばかりで、勿論単車工場などは建っていない。
 当時所有していた土地はこの写真の殆どがそうで、
 今の2倍ほどもあったのだが、

 

  
 売却した土地は街に変貌して
 現在はこのように周囲も新しい街になっている。





 
 入社して配属された部署が『財産課』で会社の財産管理をしていたので、
 土地のことなども何となく解っているのである。

 ただ、会社再開されたばかりで、いろんな資料なども整っていなくて、
 土地の管理なども出来ておらず、
 会社の土地を地域の人たちが戦後の食糧難から畑にしていたりしたのである。


★ 財産物件の項目には『土地・建物』や『機械・工具』『工具器具備品』『車輌運搬具』などいろいろあるのだが、
その担当分けをした時に机や椅子、自転車などは新人でも解り易いだろうということで、
私は『工具器具備品と車輌運搬具』の担当になったのである。

確かにこの当時は会社も出来たばかりで、営業収入の不足分は戦前からあった膨大な機械類の処分などで補っていて、
財産課の売り上げ収入がある意味経営を支えていたようなところもあったそんな時代だった。

未だ机や椅子や自転車なども、誰もがちょっとでも『いいものを欲しがる』そんな時代で、
新人ながらその配分権を持っていたので、工場全体に直ぐ『顔が売れたり』したのである。

ただ財産課は毎期決算期には『財産物件の償却計算』をしなければならないのだが、
その計算はこんな手動の『タイガー計算機』を使っての計算なのである。


   


 

 ちょうどジェットエンジン工場が出来たばかりのころで、
 通常財産物件は1万円以上なのだが、
 新工場は300円以上を『財産物件』にすることが認められていて、
 工具器具備品勘定には極端に言うと『すだれやバケツ類』までが財産物件に計上されていたので、その数がべらぼうに多いのである。

 従って償却計算は金額は小さいのだが、計算する手間は課の中でも極端に多くて、
 新人ながら私の下には女子の部下が二人も付いていたりしたのだが、
 それでも決算時期はめちゃくちゃ忙しくて大変だったのである。

 そんなことで2年目までは残業して計算機を回していたのだが、
 世の中にも『機械化』という発想が出始めたころで、
 3年目には『償却計算の機械化』の検討を始めたのである。
 世の中の『機械化の器具』なども検討したのだが、
 明石工場のジェットエンジン部門は米空軍のジェットエンジンのオーバーホルをやっていて、
 当時すでにIBMの器械がありIBM室もあったので、
 そのIBMが使えないかと検討に入ると『使えそうなのである

 そこでIBM室の久森君と組んで、会社で初めての『民需のIBM使用』に
 挑戦したのである。


 これがその時の『パンチカード』である。
 IBMと言っても未だ『パンチカードシステム』の時代で、
 1枚のカードの桁数は120桁だけだから、財産物件名のコード化を入れて
 桁数120桁の中に納まるような検討が必要で、
 そのためのコード化などなかなか大変だったのである。

  
 

 まだ会社の中でもどこも『IBM』など使っていなかった初めてのことで、
 『財産物件の償却化』だからと本社岐阜製作所も巻き込んでの
 『全社統一システム』を目論んだのである。

 その償却計算のIBM化は1年がかりで完成し、
 従来の償却計算係の人員は要らなくなって、
 私は財産課から新しくできた
 単車営業に異動することになるのだが、よく頑張ったものである。

 日本には一般にはIBMがなかったし、IBMという会社もなかった時代なのである。
 日本にIBMが入ってきたのは東京オリンピックの頃だから、
 それより10年も前の話なのである。

 入社3年目の新人だったが、先輩方が経験のないことをやったので、
 私は全く先輩方からの指示など殆どない『新入社員時代』だったし、
 それ以降も『新しいこと』は『アイツに任せば何とかする』と思われるようになってしまって、
 それ以降もホントに全く新しいことばかりが続くのである。

● 財産課の後は、新しく出来た『単車営業課
● その後は新しい『広告宣伝課』が3年
● さらに東北仙台での『新しい仙台事務所の創設
● 大阪に異動して業界で初めての『特約店制度』
● 川重に復帰してからは、『CKDの市場開発プロジェクト室創設
● ハーレーのダンピング対策としての『新カワ販プロジェクト

 と全く引き継ぎのない新しい仕事の連続だったのである。

 それは最初の財産課での『工具器具備品担当』から、
 そんな道が拓けて行ったような気がするのである。


 
 
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日記、文章を書くこと   雑感

2021-03-04 07:29:05 | 私の生き方、考え方&意見

★ このブログを『雑感日記』と名付けて

 『思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。
 と何となく毎日書いている。


  



 2006年9月からだから、もう15年以上になるのだが、
 これとは別に『ホントの日記』を20歳の時から書いていて、
 こちらの方はもう68年にもなるのである。

 文章を書くのは嫌いではない。
 現役時代の会社では企画部門も長かったので、基本方針など文章にして残したものも多い。

 字数では 作家と同じくらいの文章を書いてきたのかも知れない。


★ 最近、作家の仲俊二郎さんとFacebook で繋がっているのだが、





    作家の方にこのように言って頂いて、
 結構喜んでいるのである。



 日記を書きだしたきっかけは、 大学2回生の20歳の時の朝日新聞に、
 『台湾の蒋介石は30年間も日記を付けていてエライ』という記事が載っていて、
 『日記を書くぐらいなら自分にもできる』とその日から大学ノートに書き始めたのである。

 そんな気にもなったのは、当時肺浸潤を患っていて
 『ひょっとしたら自分の人生も長くはない』と思って、
 『何か生きてた証拠』を残しておこうかと思ったからかも知れない。

 そんなことからスタートした日記だが、そのまま続いてこんな冊数になっている。

   

 

 最初は1年毎の日記だったのだが、
 昭和47年(1972)から3年連用日記になって

 

   
 
 更に2002年からは5年連用日記になった。
 今年は4冊目で最後の年なので、
 秋には新しい日記帳を買わねばならないので、

  



 来年はそれこそ人生最後の『10年連用日記』にしようかなと思っている。


★毎日文章を書くについて気を付けていることは、
声を出して読んでスラスラと読みやすいこと』という1点だけである。

 これも朝日新聞の記者の方が
『声を出して読んだときにスラスラと読めたら、それはいい文章
という記事を書いていて、なるほどと思ったからである。

 毎日のことだが、昨今はパソコンもあるので、
 文章を書くことは少々長文でもそんなに苦にもならない。
 
 日記をペンで書いてみると、最近は文字の忘れも多いし、
 パソコンのような訳にはいかないのだが、
 逆に言うと『字の練習』にもなり、
 文字を書くことに興味を覚えるから不思議である。

 こんな本を買ってきて、


   


 実際に『字の練習』など始めたのである。


   


全部で170ページもあるので、全部埋めるには何年掛かるか解らないのだが、
 時間も充分にあるので『いい時間つぶし』にはなっているのである。


 
★NPO The Good Times のホームページです。
★50万人フォロワーのいる公式ツイッターです。
 ★雑感日記のEnglish Version です。
 ★ 毎日てっちゃん  です
 
 

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88歳の誕生日に想うこといろいろ

2021-03-03 05:49:11 | 私の生き方、考え方&意見

★『3月2日・88歳米寿の誕生日』を迎えた。

 

     
 
 

 88年生きたということは
 日数に直すと『32,120 日』生きたということなのである。

 今朝の朝日新聞、スタート以来5万号とか、
 それに比べても、結構な日数である。
 
   
 ホントによく生きたものである。
 とてもこんなに長く生きれるとは思わなかったし、
 20歳の時、肺浸潤になって『命も短いかな?』と思って
 書きだした日記が68年続いている。


 祖父も、父も伯父もみんな50代で亡くなったので、
 とても80歳まで生きれるとは思ってもいなかった。
 
 
★ 人間が生まれてから死ぬまでの時間を『寿命』というが、
 『寿命=運命』で『運の良し悪し』で決まるような気もする。
 私は何となく『いい運を持っている』と信じている。

 
 人生で一番体力がなかったのは68歳前後かな?と思う。
 その頃『くも膜下出血』にもなったし、
 膝や腰も痛くてずっと整形外科のお世話になっていたのである。

 その整形外科の先生に
こんな電気治療でホントに治りますか?』と聞いたら
治りませんね。時間が出来たのだからストレッチでもしたら。
 筋力は何歳になっても付きますよ
 という先生の返事が戻ってきたのである。

 若しあの時、私が質問していなかったら・・・
 先生の答えが若し違っていたら・・・
 私は多分今のように『健康体力は維持できていない』と思う。

 間違いなく『運がよかった』と思っているのである。



★ ネットの世界に出会えたのも『運がよかった』と思っている。
 私は現役時代はパソコンは一切触っていない。
 
 パソコンに出会ったのは娘婿に、
 会社で余っていたパソコンを『買わされた』みたいなものだが、
 そのお陰で、ネットの世界に出会えたし、
 ブログもツイッターもやりかけて、
 Facebookでいっぱいの新しいトモダチも出来たりした。
 みんな『運がよかった』と思っている。

 そんな Facebook では『誕生日おめでとう』の祝辞が沢山届いた。

  


 
 この写真の中にいる『山本隆』さんが
 Facebook のコメントでこんなことを書いている。


   

   
 

 その8年前『マウンテンライダースの50周年記念パーテイー』で
 花束を頂いた時の写真である。


   

 
     あれから8年経ったのである。

 金谷秀夫とも安良岡健ともあの日が最後になってしまった。
 
  




  確かに、あの時80歳だったのである。

  三木の稲田三郎さんから『80本の薔薇』を頂いてビックリした。


  



 こんな想い出いっぱいの写真付きで
 『お祝いの言葉を頂いた』中から幾つかを並べてみる。

  間違いなく、楽しく元気に生きれている。



   
   
 
 







 
 



 

 
     
   今日も午後から雨が上がったので、
 防災公園を1時間スロージョッギングした、結構元気な88歳です。
 今年も精一杯、目標に向かって、頑張りたいと思っています。
    
    

  
 
 
 

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カワサキの単車事業のスタート時代 その5   自分史

2021-03-02 07:29:23 | 自分史
★広告宣伝課1年目の昭和39年(1964)の日記を読み返してみた。
新聞・テレビはやれなかったが、いろいろ頑張っている。

初出の日に発動機からの単車分離の発表があった。 
どうやら単車らしい。
1億を超える広告予算があることをどこで嗅ぎつけたのか、
広告代理店の来訪が相次いでいる。
1月末には、前回紹介した『広告代理店選定基準15項目』を小野田滋郎さんと終日検討している。

3月の日記にこのような記述がある。
1人でやる仕事の量は知れてるが、発想・企画には制限がない。
広告宣伝課に来て、いろいろ考えた。
入社以来こんなに考えた1ヶ月はなかった

初めて出来た広告宣伝課・1億3000万円の予算をぺいぺいの私に任された。
本社開発費の大金ということで、報告先は直接『岩城良三事業本部長だった
岩城さんはなかなか厳しくて、よく怒られたりもしたが、
怒られてもすっきりする『気持ちのいい怒り方』だった。
その反面、『係長も課長も置かない』ということで100%任されていたのである。

広告宣伝課が川崎航空機に移り、カワサキ自販の従業員も吸収ということになって、
カワサキ自販の広告宣伝課長だった小野田滋郎さんは3月末で辞められた。
その送別会の席上小野田さんが私に贈ってくれた言葉、
毀誉褒貶は忘れよ。雑音に耳を貸すな!
その後ずっとそれは守った現役生活だった。


★この年4月初めてのモトクロスを朝霧高原で見たのだが、
残念ながら雨で1日で中止になってしまった。
モトクロスの現場はこの年9月の山梨モトクロスが初めてで、
製造部にいた田崎雅元さんと二人での現場管理で出張した。
その頃はまだレースの実戦は三橋実が監督をやっていたのである。

よく集まったものだ。
事務局発表35000人釜無川の堤防1kmが人で埋まった』と書いている。
 この時初めて『85J1のレーサー』が登場した。

   
カワサキ85J1 Wiki』にはこのような記述がある。

カワサキが1960年代の最新技術であったロータリーディスクバルブ吸入方式を採用。
デビュー前のモトクロスレーにおいてもブリヂストンやスズキを相手に
上位を独占するなど、性能の高さを遺憾なく発揮し、
カワサキ車として初めてのバックオーダーをかかえるほどの人気を博した。

これがその時の山梨モトクロスで、三吉一行が優勝した。


★いろんなことをやっていて、『85J1は富士登山にも成功している

 これは当時のオートバイ誌の記事である。

  


   

これは福田泰秀くん以下の個人の企画なのだが、
富士登山に成功して写真を撮ってきたら、
 費用を負担してあげる』ということになっていて、
 大成功だったので、こんな広告に使わせてもらっている。

  
  
 

 

因みに『福田泰秀くん』は、
一番最初にカワサキに単車営業課が出来たときの
3人のサービスマン』の一人で、
私と一緒に『単車営業を立ち上げた一人』なのである。



★ホントにいろいろとオモシロいことをやっていて、

日活との映画のタイアップで、
幾つもの映画にカワサキの二輪車が登場もするのだが、
明石日活に挨拶に来ていた当時トップスターで人気絶頂の浜田光男
明石工場に連れだして塚本本部長の対談をセットし、
バイクに乗れるというものだからテストコースで乗せたのだが、

浜田光男が来ている』とニュースが伝わって、
彼を見ようと女子たちがラインを離れて、
発動機の製造ラインがが止まってしまったりして、勤労部長に怒られたりした。

それくらいの人気スターだったのである。


    

           



★この年の8月には『源平芸能合戦』に『川崎航空機対三洋電機』で出演している。

源平芸能合戦』は、当時TBSで放送されていた人気テレビ番組で
 いま検索してもWikipedia にこのように現れるのである。




    

ことの始まりは毎日広告がやってきて、
三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、
上司の苧野さんに相談すると『出てみるか』と仰るので、
出ることにしたのだが、これからだ大変だったのである。

4種目の出し物』は、
● 当時抜群だった明石工場のコーラスと、
● 手塚部長の剣舞
● 岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは直ぐ決まったのだが、
あとの一種目がどうにもならないのである。

困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業にでも頼んでみるか』ということになって、
専門の演出家がやってきて、
当時アポロの月へのロケットが話題になっていたこととの関連で、
●『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
その演技指導なども本格的にやったのである。
これは『吉本興業の専門家の発想』だから本格的な出し物になったのである。

タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変だったのである。
更に岩城さんは『うちは芸人を飼ってるわけではないから芸にに負けても応援は負けるな』と大応援団を結成して、
連日の練習が続いて『その残業代もパンなども出してやれ』と仰ってどんどん大きくなっていくのである。

この応援団を纏めてくれたのが元川重社長の若い頃の田崎雅元さんなのである。
それにフラダンスをしてくれた4人の女性を口説いくれたのも田崎さんである。
彼はよほど印象に残っているのか、『芸能源平合』の話題は田崎さんとの会話の中には何度も登場するのである。

本番当日の三洋電機との対戦は、
普通には出ない100点以上の高得点107-105点の大接戦だったが
本場淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に惜しくも敗れたのである。

本番前の応援合戦の練習では、
練習の成果もあって『圧倒的によかった』と思ったのだが、
テレビの画面になってみると、
三洋電機の応援席の階段を縦に使って女の子が踊っている画面の方が
揃っていなくても派手で印象深く、
完全に『テレビを熟知』した三洋電機に名を成さしめたのである。

当時、いろんなイベントに拘わったが、『源平芸能合戦』は大変だったと
一番印象に残っているイベントなのである。
岩城良三本部長には、いろんなことでお世話になったが、
一番密接に指示も受け一緒に動いたのはこの『源平芸能合戦』なのである。 

出演前日には毎日放送から担当者を呼んで練習を見て貰ったりしたので、
こんなことまでした会社は初めて』と驚いていたのである。
さらに『みんなよくやったので全員に記念品を』とボールペンを贈ることにしたのである。
このイベントに関わった総勢は250名、当日はバス2台で現場に参上したのである。

タダでⅠ時間番組に出れる』と気軽に出演を引き受けたのだが・・・・
まあこんなところも『カワサキらしい』のかも知れない。
私のカワサキでのイベント、第1発目の懐かしい想い出なのである。


★いろんなことがあった広告宣伝担当のスタート時期のことである。
 私も若かったが、単車事業全体が若くて
 活気のあったいい時代であった。

 やっとアメリカ市場に進出しようか?
 という機運が出始めたころの『カワサキ』なのである。

 みんな『素人の集まり』だったからオモシロかったのかも知れない。


 
 
 


コメント
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