白雲去来

蜷川正大の日々是口実

飛騨牛を食べに養老へ。

2024-05-17 12:57:53 | 日記

5月14日(火)晴れ。岐阜へ。

なぜか深夜の3時30分に目が覚めてしまい、その後全く眠れず仕方がないので、アマゾンプライムで「イコライザー」を見る。六時前に布団から出て久しぶりに上の子供と一緒に朝食。私は、ほうれん草の味噌汁に納豆、タレントの出川の親戚の「つた金」の焼きのり。

明日、岐阜の護国神社にて開催される大夢祭に出席するために11時に松本佳展君と新横浜駅で待ち合わせ。お弁当と缶ビールを買って11時51分の「ひかり」に乗車。東京駅から乗車した大熊雄次氏と合流。小田原で同行する友人が乗車。驚いたのは、外国人が沢山乗ってきたことだ。いわゆるインバウンド。良く見ると、車両の半分以上は外国人の人。団体旅行ではなく、皆さん個人旅行なのでマナーは良かった。1時過ぎに名古屋着。JRに乗り換えて岐阜へ。しかし途中、尾張一宮で橋脚に車がぶつかったとかで電車が停止。復旧の見込みが立たないとのことで名鉄に乗り換えた。

ホテルにチェックインして神戸から来た社友とも合流。3時10分に、大行社の神崎泉海氏、名古屋の山田忠史氏、大石圭一氏らに迎えに来て貰い、養老という所にある飛騨牛の名店「藤太(とうた)」いう焼肉屋へ。お店で地元の吉田茂正先生や中島重範先生、松本暁道氏など計12名の方たちと食事。出てくる肉は皆美味しく、新鮮な馬刺しも絶品だった。ご挨拶をして岐阜に戻る。

岐阜の居酒屋で、函館の社友、嶋田不二雄氏、千葉の友人、川崎栄氏と合流。その後、細川先生も診療を終えて参加。細川先生の案内で2軒転戦してホテルに戻る。


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近年で最高の一冊を読んだ。

2024-05-13 12:16:50 | 日記

5月8日(水)曇り。

朝食は抜いた。日根は、総菜で買った天ぷらを使って「煮天丼」、シジミの味噌汁。夜は、お世話になっている方と、自宅近くの「浜一寿司」にて、時局を肴に一献会。

彬子女王殿下が上梓なされた『赤と青のガウン』を読了した。こんなに素晴らしいエッセイを読んだのは、向田邦子さん以来だ。文章がとてもお上手で、あっという間に読了した。ご皇族の留学などと聞くと、試験や成績に多少の忖度があるのではないかと思いがちだが、この本を読めば、全くそんなことはなく、正に「格闘して学ぶ」という事を実感した。読んでいるうちに自然と居住まいを正している自分に気が付く。ご尊父の寛仁親王殿下が薨去なされる所では、目頭が熱くなった。近年、数多読んだ本の中で最高の一冊だった。

本書は2004年から5年間、英国のオックスフォード大学に留学し、女性皇族として初めて海外で博士号を取得して帰国された彬子女王殿下の留学記。女王殿下は2012年に薨去された「ヒゲの殿下」寛仁親王の第一女子、大正天皇曾孫。初めて側衛(そくえい)なしで街を歩いたときの感想、大学のオリエンテーリングで飛び交う英語がまったく聴き取れず部屋に逃げ帰った話、指導教授になってくれたコレッジ学長先生の猛烈なしごきに耐える毎日、そして親しくなった学友たちとの心温まる交流や、調査旅行で列車を乗り間違えた話などなど、「涙と笑い」の学究生活を正直につづられた珠玉の25編。最後は、これが私の留学生活を温かく見守ってくださったすべての方たちへの、私の心からの「最終報告書」である、と締めくくられる。(「e・boock」より)


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遥かなるスワニー河。

2024-05-11 06:44:07 | 日記

5月7日(火)雨。

我が陋屋を春の雨が叩く。目覚めつつ 眠りつつ知る若葉雨。とは野村先生の句である。朝食は抜いた。昼は、昔ながらのナポリタン、大根の味噌汁。夜は、クリームコロッケ、メンチカツ、キャベツの千切り添え。トマトサラダ。お供は「黒霧島」。酔狂亭にて独酌。

過日、自宅から弘明寺商店街を抜け、大岡川沿いを歩き、京急の井土ヶ谷駅経由を歩くいつもの散歩道を歩いていると、志村馨君親子が卒業した小学校から、音楽の時間なのだろうか、懐かしい歌が聞こえてきた。ん、この景色には記憶がある。そうか、思い出したのは、「寅さん」の映画だ。そのシリーズの何作目かは忘れたが、落魄した名家のお嬢さん役の京マチ子の娘が小学校の先生役の壇ふみ。寅さんの妹のさくらが、壇ふみの勤めるている学校に行った時のこと。二人が話をしていると、音楽の授業をしている教室から聞こえてくるのがアメリカ民謡の「故郷の人々(スワニー河)」だった。この曲が、とてもいい感じにBGMとなって画面を引き立てていた。その歌を聞いていたら、なぜか突然、その歌を歌っていた子供の頃のことが脳裏に浮かんだのである。通っていた山の上の木造の小学校。教室から見た夕暮れの富士山。同級生の顔・・・などが洪水のように脳裏に溢れた。

「故郷の人々」を歌わなくなってから半世紀が過ぎた。そんな歌を歌っていたことすら思い出すこともなかったが、本当に久しぶりに忘れていたその歌を聞いた時、なぜか自身の来し方と相俟ってやるせない気持ちになった。PCで「故郷の人々」を検索してみた。

『故郷の人々(スワニー河)』は、19世紀の作曲家フォスターが1851年(25歳頃)に作曲したアメリカ歌曲。曲のタイトルにもある地名「Swanee River(スワニー河)」は、ジョージア州南部とフロリダ州北部を流れる河。歌の内容は、アメリカ南部での綿花畑(プランテーション)から逃れ、北部の自由州で生き延びる黒人達が、昔の子供の頃を懐かしく哀しく思い出す切ない曲となっている。「故郷」が指す場所については、アメリカで生まれた黒人達にとってはアメリカの綿花畑が「故郷」になり、アフリカ大陸から連れて来られたばかりの黒人達にとっては、生まれ育ったアフリカ大陸の地元の村が「故郷」ということになるだろうか。

1949年には、勝承夫訳詞のもと「故郷の人々」として発表されている。「故郷の人々」は小学校の音楽教科書に掲載されていた。(以上、ウイキより。)


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サリーズバーの「LAST DANCE」。

2024-05-09 14:52:20 | 日記

5月6日(月)曇り。振替休日。

朝食は、平塚の「湘南餃子」これは、酢胡椒で食べると美味しい。それに下の子供の出張のお土産の「千枚漬け」。ゴールデンウイークも今日で終わり、例年のように高速道路の渋滞とか新幹線の混雑、成田空港で帰国した人へのインタビューの映像が流れる。コロナ以来海外には行っていない。その直前に更新したパスポートも真っ白である。

午前中は、獄中で笑座の業を続けている同志二人への手紙を書く。娑婆にいると、あっという間に毎日が過ぎて行き、多忙を言い訳に、つい手紙や原稿をおろそかにしてしまう。その後、好きなコオヒイを飲みながら読みかけの『新唐詩選』(吉川幸次郎・三好達治共著・岩波文庫)を一時間ほど読む。

4時に、お世話になっている方に迎えに来て頂き、中華街のローズホテルにて行われるサリーズバーの25周年「LAST DANCE」パーティーへ行く。ホテルの入り口で、佐伯さん、山崎、濱崎の両兄と松本佳展君らに迎えてもらう。毎年開催しているこのパーティーも今年が最後とのこと。理由は「加齢」いや、「人数が多くて段取りが大変」とのこと。良く分かる。毎年400人以上の人たちが集い、今年は最後とのことで600人近い人が参加した。ほとんどがサリーの友人で彼女を慕ってくる人たち。良い意味でサリーの力を見せつけられたパーティーだった。ヨコハマの幼馴染、同輩に先輩・・・。私はテーブルに座って食べ、飲んでいるだけなのだが、久しぶりに会う人たちが、次々に挨拶に来て頂き、まるで同窓会のようである。二時間ほどで中座して、友人らと「オアジ」にて二次会。一時間ほど飲んで解散。

そういえば、パーティーの帰りに、横浜を代表する写真家の森日出夫先生の編集によるサリーの記念写真集『LAST DANCE』を頂いた。サリーの青春時代と、当時のヨコハマの風景。表紙を捲ると懐かしい小港の米軍住宅エリア1の写真が見開きで写っている。「フェンスの向こうはアメリカ」だった時代である。恥ずかしながら、私の写真も使って頂いている。良い記念になった。


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我が家の柱の傷。

2024-05-08 12:51:32 | 日記

5月5日(日)晴れ。こどもの日。

朝食は、伊豆高原の山幸のサバのみりん干し、大根おろし添え、シジミの味噌汁。昼は、ホットドック1本。夜は、藤棚の町中華の愛福楼にて、後輩二人と後輩のガールフレンドとの食事会。楽しかった。

柱の傷はおととしの 5月5日の背くらべ ちまきたべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ。我が家にも二人の子供の「柱の傷」がある。今見て見ると、最初は6歳で最後が18歳の頃の「背くらべ」の傷だ。子供が小さい頃は、この日には「菖蒲湯」にしたりしたが、段々大きくなるにつれて、そういった季節の行事をやらくなった。節分の豆まき、雛飾り、菖蒲湯、七夕飾り、クリスマスなど。家族揃ってお祝いするのは、誕生日くらいになってしまった。まあそれでも仲良きことは、良きことかな。

また、鯉のぼりを上げている家をほとんど見かけない。私が小さい頃は、横浜の下町でも鯉のぼりを上げる家も多く、お金持ちの家などでは、とても大きい立派なものを上げていた。それを見上げながら「屋根より高い鯉のぼり」などと歌ったものだ。最近では、庭のある家など少なくなった。我が家でも鯉のぼりを上げるスペースなどない。日本から季節感が失われてゆく。今日の日に因んで、『漢詩紀行』の中から屈原の『漁夫の辞』でも見るか。

 


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